喜み乃屋

 縁側から見える水色の天より、暖かみの落ち着いた陽光がうらうらと柔らかく差し込んでくる。対して、室内に染み込んでいるお香の香りは心を休ませてはくれない。



「……せやったら、ほんまに座敷には上がらへんくて構わへんのどすか?」


「ああ、申し訳ないがこの通り愛想のない娘でして。まずは手習いで芸を覚えさせて貰いたい」


「そうどすか。見目も良いし独特な雰囲気を持ってはるから……お客も直ぐにつく思うんやけどねぇ。なぁ、更紗はん」


 向かいに座る女将ははんなりと微笑んだ。釣られて更紗も笑ってみるが、恐らく笑えていないだろう。引きつった頬の感触が全てを物語っている。


 優しい眼差しで自分を見続ける女将は、とても妖艶であった。髪に幾らか白いものが混じり始めてはいるものの、立ち振る舞いは現役の芸妓である。土方との会話中でもしなを作るのを忘れない。


 そんな姿を目の当たりにしていれば及び腰になるのは必然。将来、どのくらいの稽古を積めば、同じほどの色気が手に入るのか。一生かかっても近づけそうにもない。



「……私には……お座敷は敷居が高いです」


 隣の男に目線で助けを求める。相変わらず、土方は涼しげな顔つきでいたが今日ばかりはそれが心強く感じた。心なしか目を細めた侍は、視線を女将に戻すと笑みを含んだ声音を室内に響かせた。


「此奴にそんな技量はありませんよ。喜み乃屋さんの名を汚す訳にはいかぬ故、何卒、御容赦を」


「あら、そんなん気にしはらへんくてええんどすえ。うちでは先生にこの前、遊んで貰うた通りの御座敷しか用意出来しまへん」


「ご謙遜を。他方とはまた違った風情があり楽しませて貰いましたよ」



 物腰柔らかに話す色男が、玄関に入る直前まで苛立っていた鬼と同一人物に思えなかった。女も化けるが男も化ける。更紗は居心地が悪いような、複雑な面持ちで緩々と俯いた。


(やっぱり花街は私が来るような所じゃないよ。場違い過ぎてどうしていいか…)



 室内に通されてから、四半時。小娘が会話に入り込める隙など一寸もない大人の空気感が漂っている。笑顔で談笑する土方と女将の姿を視界の端に捉えながら、更紗は気付かれぬよう、小さく息を吐いた。


 不意に流れ込んできた冷たい風が、更紗の衿元を吹き抜けていく。その風を追いかけるように、縁側へと目線を向けた。雪柳の葉が力なく揺れている。


 室内を包む白檀のお香は、幼かった頃の記憶を思い出させてくれる特別な匂いだ。


 母に手を引かれてよく置屋へ遊びに行っていた。自分を可愛がってくれる人たちの集う大切な場所ではあるけれど、存在全てを好きにはなれなかった特別な感情をくれる場所。


 置屋の敷居を跨いだ母は、自分の知らない女性となって夜の花街へ消えていく───



「更紗はん? 今のお話、聞いてはった?」


 自分に覆いかぶさる人影を辿れば、柔和な笑みを浮かべた女将と視線がかち合った。


「……え、あ、すみません! 少し考え事してまして…」


 再び頭を垂れる更紗を横目で見ていた土方は静かに息を吐くと、表情を崩さないままに女将を見据えた。


「女将、忝い。其方の申される通りで構いません。生憎、私は所用があり伺う事は出来ませんので、代わりに他の隊士を寄越しましょう」


「へぇ、分かりました。上七軒に来はるお客はんの殆どが商人はんやから、大事はないと思いますけど……何や、祇園辺りは物騒になってきてはるみたいやし…」



 八月十八日の政変後、倒幕派の動きは終息したかに思えた。しかし、長州藩邸に程近い花街では、とある茶屋を拠点として再び浪士達が不穏な動きを見せていた。


 それに伴い新撰組も昼夜、京の町を巡回しているのだが、夜の祇園では度々、不逞浪士と遭遇しては斬り合いとなり、互いに負傷者が出る事態であった。


 そんな様子を京の商売人は冷ややかに見ていた。彼らに言わせると、新撰組は治安維持どころか治安を悪化させている張本人らしい。未だに陰で壬生狼と呼びつけ、疎んでいたのである。



「喜み乃屋さんにご迷惑を掛ける事は致しません。私共も順次巡回し不逞浪士の取り締まりをして居ります故、何卒、御安心頂ければと」


「土方先生からの御言葉は心強いものがありますなぁ。うちは新撰組はんの事は悪く思うてはおりまへんえ。それに……噂で聞いてたんとは違うて、先生は穏やかな御人でいてはるし」


 落ち着き払った土方を見つめる女将は、安心しきった表情をしていた。いやはや、この男は外面がなんて良いのだろう。更紗は自分との対応の差に呆れるを通り越して、今この場で爪の垢を煎じて飲みたいとさえ思ってしまった。


「今から更紗はんのお世話をする男衆と舞妓を呼んできます。少しお待ちになっておくれやす」


 ふっくらと艶のある声が室内から消え入るのと同時に襖が音もなく閉まる。廊下をそろそろと歩む女将の足音が遠ざかっていった。



「何呆けてんだよ。怖じ気付いたか」


 氷が張ったような静けさに男の声音が小さく響く。よそ行きの声ではなく、いつもの地の声だ。更紗は視線を伏せたまま、膝の上で重ねていた両の手をゆっくり解いた。



「だって……やっぱりここは場違いだから……」


「お前がやりたがったんだろう」


「……私は、手習いを受けたいだけで……お座敷は……」



 花街で手習いを受けても良いと土方から伝えられた日が遠い過去のように思える。山南も是非にと推してくれたため、即答で置屋へ世話になる事を決めたのだが、その決断は間違っていたのかもしれない。


(知らない男の人のお酒の相手とか……何話していいかも分かんない…)



 あれだけ意気込んで喜み乃屋の敷居を跨いだはずなのに。目の前で為された男女の駆け引きを垣間見ただけでも、更紗の心は底知れぬ不安で埋め尽くされていく。



「女将にも伝えた通りお前を座敷に出すつもりはねぇ。ただし、金になる芸は此処で身に付けろ」


「……金になる芸って…簡単に言うけど…」



 母に勧められるまま、舞や三味線、琴の稽古をしたことがあった。けれど、自信を持って人前で披露できるような技量は付かなかった。


 だからこそ、客からお金を頂戴するほどの腕前を修得するには、並大抵の努力では叶わない事を更紗は身を持って知っている。


 部屋の隅で焚かれている香からゆらゆらと煙が細く立ち上っていた。すっかり意気消沈した更紗を見ていた土方は戸に一瞬目をやると、諭すように口を開いた。



「いいか、長州が朝敵となった今、いつ新撰組が戦場に借り出されてもおかしくねぇ世になっちまってんだ。お前を其処に連れてけねぇのは分かるな」


「……はい」


「万に一つでもお前が独りになる可能性があるなら、身売りしなくても生きていけるようにしろ」


 戒めるように投げられた不穏な言葉に心臓が跳ねる。ぐるぐると頭の中を巡るのは、仕事を探そうと八木邸にいた梅に相談した過去の記憶だ。


「……身売り……」



 この世は無常である。織物屋の家に生まれた梅でさえも、多感な年の頃には島原遊郭の茶屋で男相手に春を売って日々を暮らしていた。


 それを踏まえても、身寄りのない正体不明の女が真っ当な職にありつける可能性などゼロに等しい。仮に今の状況で自分が放り出されでもしたら。やがて身体を売って生きていくしかない未来が待ち受けているだろう。



「毎夜、見知らぬ男に好き放題されてぇか」


 頭上に落ちてきた味気ない声にそろりと顔を向けた。僅かに片眉を吊り上げた土方が表情を崩さないまま自分を見据えている。



「……嫌です」


「俺みてぇな男だけじゃなく、地女に見向きもされねぇような客も満足させなきゃなんねぇんだ。お前に出来るか?」



 切れ長の瞳を細める土方から更紗は不服そうに視線を逸らした。心の内は十二分に見透かされている。


(……できないの分かってる癖に。意地悪)



 あの夜だって自分がこの男に敵うものなど何一つなく。ただ、与えられるままに受け入れるのが精一杯だった事は相手が一番分かっているはずである。



「無理です……それなら飢え死にします」


「なら、そうならねぇで済むようにしろ。芸さえ身に付けりゃ多少愛想や色気がなくても食いっぱぐれる事はねぇんだ」


「…………」


「そんな気鬱になるな。ちょっとした戯言だ。今は芸を売る事もねぇんだからよ」



 こちらの不安をよそに、土方は存外さっぱりとした顔つきをしていた。稽古するのは万一のため。何が起きても行き詰まらないように備えておくのは手抜かりのない彼らしい選択だ。



「失礼いたします」


 不意に戸の向こう側から艶のある声が聞こえるや否や、スッと襖が開く。


「えらいお待たせして、すんまへんなぁ」



 一礼した女将が立ち上がると、うら若き男女を引き連れ、目の前へと歩いてくる。


 三人が腰を下ろしそれぞれ姿勢を正した所で、女将が物腰柔らかに話を続けた。



「土方先生にはもうお目通り頂いたんどすけど改めて紹介致します。まず、隣に居りますのが男衆の愛之助で妓の身の回りの世話をしている者どす」


 向かい側に腰を下ろした男は更紗を見つめると、屈託のない笑顔を浮かべた。


「お会いできるのを楽しみにして居りました。愛之助と申します。以後お見知り置きを」


 向けられた男の眼差しは優しかった。そして、見るからに上品であった。更紗は慌ててそれを避けるようにお辞儀をした。



「市村更紗です。どうぞ宜しくお願いします」


「そんな固うならへんといて下さい。どうぞ、末永く宜しゅうお頼もうします」



 男の京都弁をあなどってはいけない。彼の語り口調はまさに女性の警戒心を解くものであった。土方が絆されるなと忠告してくるのも無理はない。


 花街の男衆は、新選組の男たちとは違う生き物なのだと更紗は感じた。愛之助に至っては線も細く、戦とは無縁の顔をしている。清らかで親しみやすい雰囲気は、作られたものなのかは分からなかった。



「愛之助の隣に居りますんが舞妓の君菊どす。更紗はんと年の頃も近いやろし、困った時はこの子に何でも聞いておくれやす」


 女将の声に合わせて頭を垂れた舞妓は顔を上げ、愛らしい笑顔を向けてくれる。



「お初になります、君菊と申します。分からへん事があったら何でも聞いて下さいね。どうぞ宜しゅうお頼もうします」


「お気遣いありがとうございます。市村更紗です。こちらこそ宜しくお願いします」



 君菊という舞妓は黒目がちな瞳に白粉を塗った白肌がとても映える、可憐な顔立ちをした小柄な女性であった。


 割れしのぶに結われた女髷から赤の鹿の子が前後に覗いている。恐らく人気の舞妓なのだろう。彼女が土方に向ける上目遣いの表情からも愛想の良さは見てとれた。



「土方先生、先日はありがとうございました」


「楽しいひと時を過ごさせて貰った。礼を言おう」


「そんなん言うてくれはるなんて、君菊は嬉しくて天にも昇る思いどす。今宵は───」



 静かな室内には、楽しそうな男女の時間が流れていた。更紗は唇をきゅっと結ぶと、微かに揺れる色付き始めた外の景色へそっと視線を移した。


 何もかも見透かしたような陽の光を感じながら、静かに息を零していく。


 視線の先に見えるのは、さわさわと揺れる金木犀。橙色の小さな花が落下した。


(……この気持ちもいつか慣れるから。大丈夫だから)



 花街に身を預けるなら割り切らなければ。いつどこで誰の馴染みの女性と知り合うか分からない世界だ。かつて惚れた男と懇意にしている芸舞妓とこの場で出会っても何ら不思議ではない。


 手放した感情に胸が締め付けられるのは、まだまだ経験が浅くて己が未熟だから。息を詰めて懸命に耐えれば、いつかはきっと───



「……ほんまに硝子玉のようですね」



 ポツリと落とされた言葉に顔を向けると、愛之助がはにかんだ笑顔を浮かべていた。


「文に書いてあったんです。不思議な目を持つ綺麗な子やけどうちの大切な友達やから惚れたらあかへんよ、て。お梅の忠告破って惚れてしもうたら……あの子化けて出てきはるかもしれへんなぁ」



 口元に手を添えてクツクツと笑う愛之助はやはり気品があった。京都人ならではの気質なのだろうか。梅も同じ雰囲気を纏っていたのを思い出し、自然と熱くなる。


(……お梅さん……私も大切に思ってるよ)



 新見の一件で互いの気持ちがすれ違ってしまったものの、梅は同じ屯所で暮らす唯一の同性の仲間であった。女同士だからこそ、助け合えた事もたくさんあった。


 梅が更紗を喜み乃屋へ繋げてくれた縁。それは、かつて彼女の愛した男が置屋で働いているからだと、梅自身からこっそり教えて貰っていた。



「あの、失礼ですが、愛之助さんとお梅さんは以前恋人だったとか…」


「へぇ、そうどす。といっても、もう遠い昔の事や。お梅とは幼馴染みなんどす。長い付き合いやからこそ……あの子の苦労はよう分かってるつもりどす」


「……お梅さんの事、本当に申し訳ありません」


「何で更紗はんが謝るんどすか。貴女は無事でほんまに良かった。悪いのは不逞浪士どす。まだ下手人は捕まってはらへんのやね?」



 新撰組筆頭局長暗殺の一件は京の町でも話題であった。倒幕派の長州藩の仕業か芹沢の粗暴振りを見兼ねた浪士が斬りつけたのか。噂は尾びれが付いてそこらじゅうを泳いでいた。


「はい、まだです」


「せやったら、貴女も不安な日々を過ごしてはるんちゃいますか? 今、京では攘夷が盛んやからねぇ」


「そうですね。でも大丈夫です。自分の身は自分で守りますから」



 真実を胸の奥底に閉じ込めたあの日から、嘘を吐く事に抵抗がなくなってしまっていた。ちゃんと罪悪感を感じたのも数日間。人の心はうまい具合にできている。



「その心意気は立派どすなぁ。でも……もし、どうにもならへんのやったらうちで寝泊まりしても構へんから、直ぐ言うて下さいね。出来る限り力になりますから」


「ありがとうございます。何か、すみません。色々と考えて頂いて…」


「そんなん気にしいひんといて下さい。困った時はお互いさまやさかい。お梅の大切な友人は私にとっても大切な人どす」



 幼馴染みの縁は二人にしか分からない深い繋がりがある。それは昔も今も同じ。更紗は無意識に現代にいる央太と自分との関係を重ねていた。


 梅にとって愛之助が特別な存在だったように、愛之助にとっても梅は代わりのいない無二の存在なのだろう。それは死してもなお、永遠に続く絆だ。



 秋の空は移ろいやすいもので、午前中は雲が多く掛かっていた空だったが、いつの間にか薄い雲が天高く波打つように浮かんでいた。


 もう墓地で見上げたときの水色ではなかった。それは海のように深く、濃い青色へと変わろうとしていた。

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