上七軒

 静かな寺社通りを抜けると、先程までとは打って変わって、賑わいを見せる大通りへと辿り着く。


 前を歩く伊達男から少しの距離を置いて、更紗は初めて訪ねた北野の町を歩いていた。


 柔らかい日差しが降り注いでいる。時折、吹き込んでくる清風が頬に心地良い。


「花街って言っても、島原や祇園とは町の雰囲気が違うなぁ…」


 目の前に広がる風景を目に捉えながら、のんびりとした足の運びで進んでいく。まるで一人で散策しているかのようだ。滅入る気は早く忘れるのが一番である。



 これまで更紗が持っていた花街のイメージは、島原遊郭や大坂の新町遊郭で見た華やかで艶めかしいもの。また、祇園で感じた格式に溢れる敷居の高いものであった。


 けれども、上七軒の町は、男達が芸舞妓と遊ぶ茶屋だけがあるわけではなく。


 若い娘が好きそうな小物が並ぶ小間物屋や、団子や甘酒などを販売している茶店、若旦那らしき男が綺麗な反物を広げて婦人と話し込んでいる呉服屋もある。


 行き交う人々も花街でよく見かける二本差しの侍ではない。籠を背負った商人や子連れの母親が歩いていたりと、生活感のある風情を醸し出しているのである。



「わぁ……すごい…」


 ふと、目に入ったある店前の景色に、更紗の足がぴたりと止まる。


 思わず釘付けになってしまったもの……それは、古びた町屋の軒先に所狭しと並べられている鮮やかな浮世絵や綺麗な色紙。冊子として綴じられている印刷物であった。

 

 表に掲げられた看板には、味のある書体で『絵草紙屋』と描かれている。


(絵草紙屋って、もしかして……絵画屋さん? それとも本屋さんかな?)



 引き寄せられるように店先までゆっくり歩いた更紗は、軒先に吊られていた浮世絵が印刷ではないことに気付き、思わず感嘆の声を上げていた。


「わぁ、手書きなんだ……素敵すぎる!」


「……それは、三代目澤村田之助の新作だが、あいにく売り物じゃねぇもんで」


 店内からしゃがれ声がしたので視線を向けると、月代を広くとった丁髷姿の男が気怠そうに歩いてくる。伏せていた目線を更紗へと合わせた途端、ギョロギョロと目玉を上下左右に這わせた。


「……おめぇさん、いってぇ何もんだい? こんな女子おなごは江戸でも見た事がねぇ」


「え、何者って……」



 町人の眼光から放たれる得体の知れない威圧感に圧倒され、咄嗟に返す言葉が出てこない。


「……いや、別に……決して怪しい者では、なくてですね」



 突き刺さるような視線から逃れられず、更紗は両手を前に突き出して引きつった笑顔を浮かべる。


 目に映る男性は二十代半ばくらいの若者だった。背丈は自分より少し低め。線が細くて、着物越しでも分かるくらいに不健康に華奢な身体つきをしていた。


 しかしながら、気迫は侍のそれに見劣りしなかった。じりじりとにじり寄ってくる凄みは獣を彷彿させた。流石の更紗も面食らい、距離を取るために後ずさる。


「あの……近いです」


「肌は甚く白いが化粧はなしか……唇は……珊瑚か紅梅の色味だな。目は……樺茶色にも見えるが、翡翠のようにも…」


「え、なんて……?」


 思案顔でぼそぼそ呟く男が何を言っているのか分からない。狂気は増していた。更紗はいつでも走り出せるように、態勢を整えようとした刹那。


「……っ…きゃあ……!」


 後方から腕を掴まれ強引に引っ張られる。よろけながらも振り向くと、眉間に深い皺を寄せた土方の顔が視界いっぱいに映った。


「てめえ、来ねぇと思ったら此処で何油売ってんだ」


「すみません……」


 その声は完全に怒気を孕んでいた。けれど、更紗は逆に助かったような安堵の心地がした。力強い男の指先を無理に振り払うことはしなかった。


「うちの者が邪魔した。これにて失礼する」


 町人へ言葉をかけた土方は、女の右腕を持ったまま踵を返した。元来た道を戻ろうと歩き始めるが。


「お嬢さん、浮世絵の雛形になってはくれまいか?」


「……浮世絵の雛形?」


「俺は吉岡米次郎といいまして、江戸で歌川派を学んだ絵師でございます」


 ひらりと手を持ち上げた米次郎は、吊るされていた浮世絵を一つ外して淡く微笑んだ。そして、それをこちらに差し出してくれる。

  

 手に握られていた錦絵には雅な着物を纏う花魁が描かれていた。艶っぽく煙管を嗜む美人画である。


「儚げに白く、花弁の落つる唇、一度見たら忘れぬまなこ、より高き背……」


 米次郎に一気に距離を詰められた更紗は空いていた左手を掴まれた。籠められた力は強い。狂気じみた男の呟きは念仏のようで、反射的に身体が強張っていく。


「……え、…と…?」


「お嬢さんをこの絵のように雛形にしたく」


「……雛形って、私を絵のモデルに…ってこと?」


「されど、人ではならざる者。貴女なら雪に佇む一本の桜木となれる」


「……え、人ではならざるって。どういう意味?」


「金子は出す。誰もが見惚れる薄墨にしてみせるから、どうか貴女を通して小町桜の精を描かせ…」


「初見の女に気安く触れるとは、一端の男として関心出来たもんじゃねぇな」



 突如、土方は絵師の男の語りを遮る。淡々とした声が更紗の鼓膜を掠めるや否や、米次郎の節くれ立つ指が乱雑に取り払われていた。


「断る。此奴を見世物にするつもりはねぇ。他を当たってくれ」


「……え? 別に話しを聞くくらい…」


「お前は黙ってろ」


 土方の顔を覗き込むと明らかに苛立った顔をしていた。これは逆らわないほうが賢明である。更紗はぐっと息を詰めて、抗う言葉を飲み込んだ。


「これにて御免つかまつる」


 土方に身体を突き返された米次郎はその場でよろめき、たたらを踏んだ。更紗は掴まれていた右腕を引かれ、半ば引き摺られるように歩き出す。背後へ向けて申し訳なさげに会釈するしかなかった。


「あの……本当にすみません! お邪魔しました!」


 絵草紙屋が遠ざかっても腕を掴む力は緩めてくれない。むしろ地味に強くなっている気がしていた。複雑な感情が胸の奥底で渦を巻いていく。


 十日ぶりに触れた男の体温は存外温かいものであったが、あの時のような優しいものでは決してなく。


「なんで断らねぇんだ。お前ならはっきり言えんだろ」


 味気ない声が秋風に乗って耳まで届けられる。一つに結われた黒髪がしなやかに揺れるのを見つめながら、更紗は気が落ち着かないままに口を開いた。


「だって、浮世絵師が何を描くのか……興味あるし…」


「野郎が名の知れた絵師か分かんねぇだろうが。俺は江戸でも聞いた事ねぇぞ」



 昨年まで江戸にいた人間が聞いたことないと言い切るのだから、吉岡米次郎が無名の絵師である可能性は高いのかもしれない。けれど、歌川派を学んだ絵師だと言い放った男の素性は知りたいものである。


「……でも、もしあの人が本当に歌川一門の浮世絵師なら……描いて貰えるだけでも、すごくないですか?」


「お前なぁ……雛形なんざ女郎のやる事だ。彼奴の前で肌晒した挙句、春画みてぇなもん描かれんだぞ」


「春画って……そんなに警戒しなくても大丈夫ですって。それに……絵の勉強になるなら、肌出すくらい何ともないけどなぁ…」


 零れ落ちた本音が風にさらわれ、白い雲が浮かぶ空へと吸い込まれていく。


(またあの絵草紙屋に行けば、会えるかな…)



 更紗はどうしても諦めがつかなかった。この世界でも絵に触れる機会が持てるなら……ぼんやりと思案しながら歩いていく。そのせいか、急に立ち止まった土方の肩へ顔を埋めるように激突してしまい。


「うわっ……すみません!」


 慌てて身体を押し返す。けれども、繋がられた手により大して離れることはできない。振り返った男の冷たい眼差しに耐え切れず、女はギュッと目をつぶった。


「……筋金入りの大馬鹿が。俺に見られたくれぇで面も身体も真っ赤にさせてた奴が何言ってんだ。許さねぇぞ」



 自分の発言に呆れているのか怒っているのか。その心の内までは読めないが相当苛立っていることは伝わってくる。更紗は冴えない表情のままコクコクと頷くと、切れ長の双眸を細める土方を遠慮がちに見やった。


「許さないのは分かりましたから。手を離して下さい……皆に見られて恥ずかしいです」


 この男が気づいていたのか分からないが、絵草紙屋を出た辺りから周囲の人々から向けられていた好奇な視線が気になって仕方がなかった。


 男尊女卑甚だしい江戸時代。男女が人前で手を繋ぐのはおろか、並んで歩く行為さえ表立って出来ることではない。女は男の後方を慎ましく歩くのがここでの常識である。



「……京の人間はこれだからいけ好かねぇ」


 遠目に視線を這わせた土方は、ふぅ、と小さく息を吐いた。更紗の手首の拘束を解くも、頬へ落ちた一筋の栗毛に触れ、見せつけるように耳へと掛けた。


「いいか、間違っても京の男衆に絆されんじゃねぇぞ」


「……京の男衆に絆される? 私が?」


 突然の忠告に違和感を感じた更紗は眉をひそめた。相手の表情から思惑は読み取れない。仕方なく、自分の気持ちを首を傾げて表した。


「……絆されるとか、ないと思いますけど」



 元々の性格が人見知りである。ここに来てから男性との関わり合いが一気に増えたといっても、初対面から打ち解けられるほど、器用には育ってきていない。


 何故、このタイミングでそんな話を持ち出されてしまったのか。


(もしかして。私、軽い女だと思われてる?)


 思案して唯一、思い当たるのは、芹沢が暗殺された直後の自分の行動だ。自ら誘って肌を重ねたことは後悔していないが、もう少しうまいやり方があったのではと反省する面はある。


 寂しさに縋った危うい女に見えたのかもしれない。そして、恐らく半分は正解だ。けれども、残りの半分は。不毛な恋を諦めるため、不器用ながらも一生分の覚悟を決めて挑んだ一夜だった。


(でも、きっと軽い女に思われてるほうがいいよね。あっちにとっても私が本気だったなんて、面倒くさいだけだろうし)


 好きだったことを気付かれてはいけない。恋心はあの日、葬ったと同じ。かつて惚れた男を困らせないためにも、勘違いされているほうが好都合だ。



「女将と話は付けている。お前はいつものように無愛想にしときゃいい」


「……いつものようにって…」


 掛けられた言葉はなんとも酷いものだった。けれど、これも自業自得。


 更紗は言い返したい気持ちをぐっと堪えて、土方が向かった町家をじっと見つめていく。


 瓦屋根の軒には赤丸が幾つも描かれた提灯が吊り下がっている。少し開いた格子戸の横にある表札には、柔らかい文字で『喜み乃』と書かれていた。


(お梅さんがくれたこのチャンス。絶対、無駄にはしないから)



 深呼吸をした更紗は、高まり始めた緊張を胸に感じていた。芸は身を助けるはず。


 その場で身なりを整え終わると、土方の後を追うように、置屋である喜み乃屋の玄関を潜った。




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