月夜に誠の桜はらりと【承】

沓名 凛

伍幕 待宵-matsuyoi-

天上天下の通い路

文久三年 九月吉日

上七軒 某寺内 墓地



 水色の大空に秋の静かな雲が斜に流れている。


 古びた墓石が密集している一角。普段は誰も近寄らぬその場所に、珍しく一組の男女が身を寄せていた。


 まどろむ静寂に包まれ、何の物音も聞こえない。時の流れが止まっているようだ。


 真新しい墓の前に座り込む女は、何をするでもなく。ただ、墓石に刻まれた名と添えた鮮やかな紫の花を見つめ、瞳を閉じる。



 八木邸の庭で摘んできた紫色の竜胆りんどうの花は、生前の彼女が愛情を掛けて育てていたもの。


 主人あるじ亡き後、日毎に増えていく花の異変を博識の山南に問うと、悲しんでいるあなたを愛するという花言葉ゆえだと、そっと教えてくれた。


 その日から更紗は一日も欠かさず、お梅の育てていた草花の世話をしている。



 鼻腔をくすぐる線香の匂いに誘われ、目蓋を持ち上げる。柔らかな日の光が穏やかにその場所へと降り注がれていた。


 日差しの優しさは乾いた心を潤わせてくれる。更紗は立ち上がって密集した墓石と向かい合い、深々と一礼した。



「もう、いいのか」


 満を持して掛けられた声に振り返る。腕組みをしたまま無表情でこちらを見入る侍が目に映った。


「はい、ありがとうございました。行きましょう」


 軽く頷いた更紗は、下駄を鳴らしながら男の横を通り過ぎ、墓石が並ぶ土道を歩いていく。


「……日の当たる場所で良かった」


 女の呟きは、天へと吸い込まれて呆気なく消えていく。が、すぐ後ろを歩いていた男には微かに聞こえたようである。


「気兼ねなく来れるように此処にしてやったんだ。俺が駕籠代を持ってやるから……そろそろ許してやれ。墓代は近藤さんが出したんだからよ」


 諭すような声色で背後から放たれた言葉に、更紗の平穏だった心が波立つ。


「それとこれとは話しが別です。お墓代は新撰組の隊費から出てますよね。山南さんがどうやって捻出しようかって頭抱えてましたよ」


「だとしても、局長が辛気臭ぇと屯所内も盛り下がんだよ。お前が一言、口を聞いてやれば…」


「お梅さんのことを売女呼ばわりした人なんかと話す気はありません」


 淡々と返答してみれば、後ろを歩く土方から呆れたような溜息が吐き出される。


「まだ根に持ってんのか。ほら、いい加減に機嫌直さねぇと連れてかねぇぞ」


 伸びてきた男の手が視界に入ってくる。更紗は無言でその熱を払うと、足早に寺社へと続く道を進んでいった。



 芹沢の葬儀から七日ほどの時が経つが、ある不満を更紗の中で消化できずにいた。


 それは、梅の遺体は芹沢と共に壬生寺へ埋葬されるものだと信じていたのに、それが叶わなかったこと。亡骸の二人は引き離されたのだ。


(身分って、何? そんなものに縛られて、ほんと……バカみたい)


 芹沢鴨と梅を合葬しないと決めたのは、近藤勇の独断だった。


 副長らは死に際を見ていた経緯もあり、同じ墓へ葬るほうが二人の供養になるのではないかと助言したらしいが、近藤は断固として首を縦に振らなかった。


 土方から呼び出され、事の顛末を聞いた更紗は憤慨した。それでは納得がいかないと、場にいた沖田と山南の制止を振り切って近藤局長に直談判を試みたのだが。


 由緒ある神官の娘を妻に持つ水戸武士と素性の知れぬ売女は身分が違い過ぎるゆえ。同じ墓に入れることは否だと、局長直々にきっぱりと言い切られたのである。


(……芹沢さんは本妻がいる。妾のお梅さんと一緒に埋められないのは理解できるけど……売女って呼ぶのはいくらなんでも酷すぎる。絶対許さないんだから……)


 それ以来、更紗は近藤の顔を見るだけで怒りが蘇り、一人で無視を決め込んでいる。



「……考えるだけムダ。やめよ」


 独りごちた更紗は、むしゃくしゃする気持ちを吐き出すように細く長く息をする。



 密やかな墓地を抜けると秋風が流れており、綺麗に色づき始めた木々がさわさわと揺れていた。


 日常へと戻れた安堵を感じるものの、梅のいる世界がやはり手の届かない遠い場所であることを実感させられた。


 結局、梅の遺体を引き取ってくれる縁者は誰一人いなかった。


 元亭主である呉服商の菱屋太兵衛には暇を出したと突き返され、西陣の実家を訪ねても埋葬する金がないと断られる始末であった。


 秋といえども、遺体を五日も放置すれば傷みも現れ、腐臭も漂い始める。これ以上、屯所内に置いておく訳にもいかないと、隊費で無縁仏として供養したのである。


 北野天神に程近い上七軒にあるこの寺は、こじんまりとした小さな寺社ではあるが、存外手入れが行き届いており、縁者の住む西陣から足を運びやすい場所にあった。


(お梅さん……また来るからね)


 緊張から解放されていく刹那、人影が自分の影と重なるのを視界に捉える。伸びてきた指先が、ふわりと栗色の髪に触れる。


(……もう、そういうのはいらない)


 恋に終止符を打った女にとって、安易な触れ合いに身を投じるつもりはない。更紗はすぐに頭を振って、男から二歩三歩と離れてゆく。


「たく、さっきから何だよ。髪に降りた葉を取ってやったんじゃねぇか」


 色づいていない葉を指先に持つ土方は明らかに怪訝そうだ。しかし、更紗も負けられぬ自分なりの意地がある。


「すみません、ありがとうございました。でも、今度から言ってくれれば自分で取るので」


「別にわざわざお前に伝えて取らせるより、俺が取れば済む話しだろう」


「…………」


 交わしたままの視線の先に答えなどある訳もなく、女は正論を前に、常套手段の黙りを決め込む。



 あの日以来、更紗は土方歳三と距離を置いた。今もなお、地道な努力を続けていた。


 副長室に呼び出されても決して二人きりにはならない。誰かがいるのを確認してから部屋に入り、頼まれた雑用もできる限り、自室に持ち帰った。


 そんな変化に土方が気づいているのかは分からない。芹沢亡き後、近藤局長体制を確立するため多忙を極めていた男は気にもならないようで、特に何事もなく昨日まで過ごせていたのだが。


(なんで、今日に限って二人きりなのよ……逃げられないじゃん)


 腹の調子が悪くなった山南を恨みそうになるが、ここは天敵と一定の距離を保ちつつ、やり過ごすしかないと、更紗は目を伏せて無言を貫く。



 暫し二人の間には静寂の時が流れ、吹き抜けていく秋の音だけが滑稽に鼓膜を揺らしてくる。


 沈黙との根競べと成り代わったとき、とうとう痺れを切らした土方が口を開いた。


「質問を変える。その平打簪は誰に貢がせたんだ」


 不機嫌な声色に恐る恐る視線を上げると、予想通りの仏頂面がこちらを睨んでいる。


(別に、誰に貰おうといいじゃん……恋人でもないんだし)


 心の中で悪態をつくも、鬼と称される当事者へそれを放つ勇気は持ち合わせていない。


 更紗はふぅ、と溜息を吐くと改めて切れ長の目を細める土方を見据えた。


「山崎さんからお下がりを貰いました」


「俺がやったやつがあるだろうが。なんで使わねぇんだ」


 淡々とした男の物言いはいつもながら堪えるもので、更紗はぐっと息が詰まる。


「あれは……赤だし……お墓参りには合わないから…」


「なら、その帯締めも変えねぇといけねぇな。お前の言う朱だろう」


「…………」


 咄嗟の言い訳も土方に一瞬で論破される。完全に逃げ道を断たれた更紗はぐうの音も出なかった。


 けれど。諦めた恋に未練を残さぬよう思い入れのある赤の簪は、金輪際使うつもりはない。


 この男にとっても気もなく贈ったものだ。使わないことをこんなにも不機嫌に指摘されるとは存外困惑するばかりである。


 目線を落とすタイミングを逃した更紗は浴びせられる鋭い眼差しをただ、曖昧な顔つきで受け入れるしかなかったが。



「……気付かねぇとでも思ってんのか。天邪鬼が」


 小さく舌打ちを落とした土方は、先に視線を外した。黒袴の裾を翻し颯爽と寺の住職の元へと歩みを進めていく。


 遠ざかる後ろ姿を見送った更紗は肩で息をし、苛立つ感情が心の奥底で渦巻くのを懸命に堪えた。


(……気づいたんなら、放っておいてよ)


 割り切った関係しか求めない癖に。こっちのことなんて何も思っていない癖に。離れようとすると機嫌を損ねるのは自分勝手だとしか思えない。


 元々、二人の間には副長と小姓という関係しか築いていない。あの日の距離感が異常だっただけである。


 それを出会った頃の距離に戻すだけ……。もう、自分の心の領域に入られないように他の人たちと同じ位置まで離れて線を引いただけなのだが。


(やっと手放せたんだから……入ってこないで)



 俯いた視線の先に映るのは、かつて芹沢が買ってくれた紺色の小袖と与えられたばかりの真新しい白足袋。


 更紗は唇をきゅっと結んで前を向くと、背筋を伸ばし、男の背を追うように歩き出した。

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