第30話:悪意はなくとも

 自販機で購入したブラックコーヒーのうち一本を怜奈に差し出し、僕らは公園のベンチに座った。


 最初は近くの喫茶店を提案したのだが、「周りの人に聞いてほしくない」という意見が一致し、住宅街の外れにある寂れた公園に場所を移すこととなった。草木の手入れはろくにされておらず、ベンチの塗装も剥げてもはやただの木の板だ。遊具が錆びついているのはもちろんだが、そもそも撤去されていない時点で、いかにここが長年放置されていたのかがうかがえる。


「七年前の事件以来、心のどこかで自分は幸せになっちゃいけないって思ってしまって」


 手つかずのコーヒーを両手で包み込んだまま、怜奈が語り始める。

「友達と遊んでいる時も、先生から褒められた時も、両親と三人で外食をしている時も、嬉しい感情が芽生える裏側で、彼女の顔が浮かぶんです。いつも寂しそうな、恨めしそうな顔でこっちを見ていて。『なんであなただけ生きているの』って言われている気がして、それまでの明るい気持ちがすっと消えるんです」


 被害者遺族にありがちな症状だ。なぜ何の罪もない家族が死ななければならなかったのか、本当は自分が死ぬべきだったのではないか。それらの自問は時に歪んだ形へと変化する。さながら人間が怪人に堕落するかのように。


「君は……例の少年のことを恨んでいるのか?」

「その子さえいなければ、家族みんなが幸せに暮らせていたはずなんです。それなのに、あの日あの時、あの場所にいたせいで、あの人は災厄に巻き込まれてしまった。もちろん本当の悪は怪人です。少年に罪はありません。……ですが、人に悪意はなくとも、悪になれると思うんです」


 悪意はなくとも、悪になれる。


「面白い言葉ですね」


 僕は正直に答えた。怜奈と知り合って間もないが、この程度ではきっと怒らない。


「よく言うじゃないですか。『あの人に悪気はないと思うんだけど……』って。非難をしたら、こっちが人格否定者扱いされる。相手に悪気がないせいで、我慢を強いられる。これはもう悪と呼んで差し支えないですよ」

「つまり、君は少年のことを『悪気のない悪』と認識しているのか」


 それはもはや怪人と変わりない。彼らだって自らの行いを悪とは認識していない。ある者は魔王様のため、ある者は破壊行為を楽しむため、ある者は自らの信念を貫くため。むしろ自覚した悪など、この世に存在するのだろうか。


「少なからず、私自身の弱さもあるのかもしれませんね。彼を恨んでさえいれば、心の安定は保てますから。卑怯者だという自覚はあります」

「卑怯ではないよ。間違ってもいないし、君にはその権利がある」


 こういう発言も、悪意のない悪っていうのかな。


「ここまで言っておいてなんですが、結果的に良い方向に導いてくれた側面もあって」

「良い方向?」

「次の春で三年生になるのですが、卒業後の進路が決まりました」


 なんとなく想像はつくが、ここは形式的に尋ねておこう。


「もしかして、就職?」

「はい、ヒーローになります」


 ヒーローになります。


 その一言は、将来の不幸を約束する呪いのようにも思えた。


 脳裏に浮かんだ年上の同級生の顔を振り払い、僕は少しだけ口角を上げて、ささやかな祝福をする。


「NHDAの方に勧誘されたんです。はじめは高校一年の時でしたが、私自身始まったばかりの高校生活が慌ただしかったこともあってお断りしました。それでも協会の方は、『私たちのように苦しんでいる人たちをこれ以上増やしちゃいけない』って何度も家に来てくれて、一年経った頃には私も腹をくくりました。お母さんに許可をもらって、離れて暮らしているお父さんにも連絡しました」


 ただのマニュアルに沿った謳い文句だ、と教えてあげるべきだろうか。


「デビューはまだ一年以上先なのですが、もう色々噂になってしまっているみたいで。私があの現場で佇んでいると、近所の方が声をかけてくれるんです。取材を受けたこともありましたね」


 消耗品にならないことを祈るばかりだ。悪に身内を殺され、正義に使い捨てをされたら、この子の居場所はなくなってしまう。


「デビューしたら、応援してくださいね」


 怜奈の表情は、既に氷解していた。写真で見た時のような、健やかに成長すればはじめからこうなっていたであろう、穏やかな顔つきだった。


 これほどやりにくいターゲットは初めてだ。


 僕は当初の目的を思い浮かべながら、悪意のない笑顔を作った。


「はい、デビューできたら」

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