第31話:僕らの関係
「おかえり、課長くん」
「やめてくださいよ、その呼び方」
事務所のソファで優雅にティーカップを傾けていたのはミモリ、ではなくノスタルジーだった。心なしか、毛量が少なくなっている。
「あの女はまだ帰ってきてないよ」
「そうですか」
「居たのがボクで残念だった?」
「そんなことないですよ。誰が来たって迷惑です」
「ナチュラルに傷つけるのはやめてくれよ。こう見えてボクはナイーブなんだから」
「辞書でナイーブの意味を調べてみてください。今のが誤用だってわかりますから」
確かに、元上司に対して失礼が過ぎるか。ミモリと一緒の時間が長いせいか、怪人に対して毒を吐く癖がついてしまったようだ。
「ここにいるということは、今日の報告をしろということですか」
琥珀色の液体を口にし、ノスタルジーは首肯した。僕もせめてコーヒーの一杯でも飲んでからにしたいのだが、この男にいつまでも居座られるのは良い気分ではない。
僕は向かいのソファに腰を下ろして目を閉じ、今日の出来事を反芻する。
石神怜奈。鏡子お姉さんの妹で、高校二年生。卒業後はプロヒーローとして内定を受けている。感情的なタイプだと推測していたが、意外と冷静に自分や周囲を観察することができている。被害者遺族ということを差し引いても、とても十七歳の少女とは思えないほどに。ただ、姉を失う原因となった少年のことは今でも恨んでいるという。
話した印象や立ち振る舞い、いずれ魔王軍の脅威になりうるかなど、客観的に感じ取った情報はすべて伝えた。
「……なるほどね」
人が「なるほど」と答える場合の九割以上は、的確なコメントが思いつかない時だ。
「こちらで把握している情報も多かったけど、やっぱり実際に話してみないと得られないものも多いね、うん、ご苦労様。でも『コーヒーはブラック派』ってのは別にどうでもいいかな」
「コーヒー党にとって、無糖か加糖かは割と重要ですけれどね」
ノスタルジーはティーポットから紅茶を注ぎ、二杯目に口をつける。僕も飲みかけのコーヒーがあったことを思い出し、スクールバッグのファスナーを開ける。カフェインは重要な思考のエネルギー源だ。
「それで、明日はイケそう?」
「石神怜奈を堕落できるか、という意味であれば、グレーですね」
「そこは難しくても『完璧です』って言ってほしいところだよね。上司としては」
「嘘の報告は社会人としてタブーですよ。あと、元上司ですね」
「わかってるよ。キミは今日の出来事をすべて包み隠さず話してくれた」
「……尾行してたんですか」
「言ったじゃない。一課はサポートとして加わるって」
ティーカップを持つ手と反対側の袖から、真っ白な蛇が顔を出す。
ただの監視ですよね、とは答えなかった。
ノスタルジーの意思を反映させた、手先ならぬ毛先だ。この男は、毛髪に自分の念を込め遠隔で操ることができる。かつてのナンバーワンヒーロー、エレガントとの決闘でも、ノスタルジーはこの手を用いた。あらかじめフィールドに撚蛇を配置し、勝負開始と同時に足に噛みつかせた。強力な神経毒は、エレガントの全身をたちまち駆け巡り、失神に至らしめたというわけだ。公明正大なフリをして、勝つためには手段を選ばない。それがノスタルジーという怪人だ。
やはり、僕をNHDAの内通者だと勘繰っているらしい。
手を抜くつもりも嘘の報告をするつもりもないが、こう疑心を前面に押し出されると、やる気が下がるというものだ。
「相変わらずフェニックスの行方もつかめないしさ。おかげで撚蛇の十九パーセントを魔王城の外に出動させることになっちゃったよ」
つまり、今のノスタルジーはフルパワーの八割程度しか出せないということだ。
もちろん、それでも僕に勝ち目はないけれど。
「ご心配せずとも、初恋のお姉さんの妹がターゲットだからって、うまくごまかそうなんて考えちゃいませんよ」
「うそっ、三森鏡子のこと好きだったの?」
「……報告は以上ですどうぞお帰りくださいご清聴ありがとうございました」
両手でノスタルジーの背中を押し、玄関の外へ追いやる。こういう時だけ俗物っぽい反応をするんじゃない。
チェーンロックまで施し、テーブルにあるティーセットを片づける。ちゃんと洗って乾かしてから、本部に送り返そう。着払いで。ミモリだけでなくノスタルジーまで入り浸るようになったら僕のプライベートはいよいよ皆無だ。
流し台に置きっぱなしにしていたフェニックスの羽根は、キャンプ用のミニ焚火台の中で燃え続けている。金網の上にヤカンを置き、手早くマグカップに粉末を入れる。コーヒーはやはり、淹れたてに限る。インスタントだけど。
粉末の風味を楽しみながら、今後の予定を考える。明日はお姉さんが消失し、僕が半怪人となって丸七年の日だ。ノスタルジーはそれに紐づけ、怜奈を堕落させようとしている。計画に僕を加わらせたのは、成功率を高めるためでも手柄を譲るためでもなく、僕の組織への忠義を図るためだ。
堕落に失敗したら、僕は裏切り者として始末されるのだろうか。少なくとも、一人で人事二課を続けるのは難しくなるだろう。誰かしら一課の監視が入るようになるはずだ。
一方で成功したからといって、状況が好転するとも思えない。人の心なんて誰も覗けないのだから、いつか裏切られるかもという疑念が消えることはきっとないのだ。
ふと、ミモリの顔が浮かんだ。
彼女もまた、誰かを裏切っているのだろうか。僕と接している時ですら、本心のようには思えない。常に飄々としていて、サボり魔で、たまに見えない敵と戦っているような顔をして、僕を小間使いして、意外と優しい。それは仮面であって、本質でもある。接する人によってペルソナが変わるのは当たり前のことだ。本部にいる時、魔王様と会っている時の顔は、どんな風なのだろう。僕の知らない顔を、他人はいつも通りのものとして受け入れている。それが少し、妬ましい。
「……」
僕とミモリの関係も、そろそろ明らかにしなければならない時期かもしれない。いつまでも課長と魔王の愛人という距離感のまま、お互い大事なことを隠したままでは、取り返しのつかないことになりそうな予感がするのだ。
自己開示という言葉がある。相手の気持ちを知るためには、まず自分のことを打ち明けることが大切だ。誰しも、得体の知れない相手に本音で向き合おうとは考えない。
「潮時、か……」
スーパーでまとめ買いした紙パックのカフェオレを、冷蔵庫に詰める。
いつかこんな日が来ることは覚悟していた。ミモリとの日々は、退屈で、面倒で、迷惑で、疲れて、苛立って、メリットなんてほとんどなかった。
それはまるで、七年前に止まった僕の日常が、再び動き出したようだった。
学校も勉強もつまらなくて、ゲームの世界に浸ってばかりいて、唯一僕と現実を繋ぎ合わせていたのはお姉さんの存在だった。あの人がいたから、僕は人間でいられた。
今夜、話し合ってみよう。その結果、袂を分かつことになったとしても、きっと後悔はしないだろう。明日からも、僕は人として生きていける。
その日、ミモリが事務所に帰ってくることはなかった。
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