第29話:石神怜奈
電車の窓に後頭部をぶつけ、目が覚めた。痛みよりも音にびっくりしてすぐに意識が覚醒する。嫌な夢を見た。
地元に帰るのは七年ぶりだった。アルケニーに連れ去られてからしばらくは四六時中監視がついていたし、人事課に配属になってからは仕事と学校以外で出かけることがなかった。一人で自由に外出できるようになったのは、ここ数年の話だ。
今日は久しぶりに学校を休んでしまった。放課後になってからの出発では遅すぎるからだ。
それでも制服姿なのは、他に着るものがなかったからだ。唯一の私服は、花村ちぐさにショッピングモールの屋上で抱き着かれた際、返り血で駄目にしてしまった。
電車のアナウンスが、下車予定だったの駅の名を告げる。
改札を出ると、懐かしいにおいがした。駅に隣接したケーキ屋から漂う甘い香り。車の排ガスに混ざった土の香り。この街で暮らす人々の生活の香り。見渡す町並みは久しぶりのはずなのに、昨日も散歩したかのように鮮明に覚えている。
本当は、ここに戻ってくるのが少し怖かった。
今までは別の土地で暮らし、学校と仕事を両立し、人間の心の深い部分に触れて、悪をまっとうしてきた。過去を振り返る余裕なんてなかったのだ。
しかし、地元に帰ってきてしまったら、嫌でも思い出してしまう。肉塊になった両親を。嘲笑うアルケニーの形相を。黒い炎に包まれ消えていったお姉さんを。
俯瞰した街並みは昔と変わっていないようでも、実際に歩いてみると様変わりしていた。戦前から続いていたという全国的に有名な和菓子屋はコンビニに変わっており、ゲームは必ずここで買うと決めていた玩具屋は駐車場になっていた。見覚えのない家や高層マンションも増えている。先月オープンしたばかりというスーパーで、お供え用の花を買った。
時は着実に、平等に流れている。
駅から徒歩二十分。住宅街に突入し、下校中の小学生とすれ違う。最近の子どもは色々な意味でスレているというが、今も昔も同じように思える。って、子どもの僕が大人ぶるなんておこがましいか。こんな風に、普段は意識しないことをあれこれ思いめぐらすのは、地元効果だろうか。
次の角を曲がれば、僕が生まれ育った家と、両親の殺害現場、お姉さんの失踪現場がある。心臓のヒットが大きい。鼓動の一つひとつが重たく、今にも張り裂けそうだ。
まだ引き返せる。そもそもノスタルジーの要求に律儀に従う理由なんてないんだ。のらりくらりと言い訳して、いつもみたいに責任逃れをすればいい。
「……でもなぁ」
これが僕個人の話なら、そうしていた。だが今回はお姉さんも関係している。ミモリも無関係ではないだろう。だったら、これは諸問題を一挙に解決するチャンスじゃないか。前向きに、人間らしく。
深呼吸をして角を左折し、「止まれ」の道路標識を横切る。
空地の前に、少女が佇んでいた。両手には、僕のより一回り小さな花束が抱えられている。
資料とはずいぶんイメージが違った。写真では柔らかそうな印象だったが、目の前に立つ少女の瞳は冷徹だった。そして氷の奥には、燃えたぎる炎が揺らめいている。
これは怨嗟だ。七年経ってなお、姉を死に至らしめた当事者たちを恨んでいる。悲しみよりも、圧倒的に憎しみが勝っている。時間に流されることなく、環境の変化に呑まれることなく、純粋に、ひたむきに、徹底的に、怪人を憎んでいる。
冷え切った双眸が、僕を捉えていた。
「……もしかして、三森鏡子の知人ですか?」
「ええ、まあ」
僕は、オフをオンにする。
「お姉さんにはずいぶん親しくしてもらいまして。失礼ですが、ご家族の方ですか?」
「妹の怜奈です。生前はお世話になりました」
まるで受付嬢のように、きっちりとしたお辞儀をする。声色は意外と穏やかだ。
生前は。
戸籍上、失踪届けを出してから七年が経過すると、死亡扱いにできる。それでも、石神家の中ではお姉さんは死んだことになっているらしい。
「はじめまして、佐藤といいます」
一瞬迷ったが、偽名を使うことにした。本名を明かすことはいつでもできる。
実家があった場所は、更地になっていた。枯れた雑草が生い茂り、タバコの吸い殻があちこちに落ちている。僕は玄関の位置に花束を置き、手を合わせた。
父さん、母さん、僕を育ててくれてありがとう。あと、七年間来られなくてごめんなさい。
この行為は遺された者の義務ではないし、これによって誰かの心が救われるわけでもない。正直、自己満足の類だと思っている。そして僕は、現状に不満足なわけでもない。あくまで仕事としてここに来ている。僕が今向き合うべきなのは、両親でもお姉さんでもなく、目の前の生きた少女だ。
「その、命日……お姉さんがいなくなった日って、明日でしたよね?」
「何でもない日でも、つい足がこっちに向いちゃうんです。テスト勉強が捗らない時とか、進路や人間関係で悩んでいる時とか。こうしてしょっちゅう来ているからかもしれないですけれど、未だに家族を失った実感がなくて」
「僕も、実は案外近くにいるんじゃないかって思うことがありますよ」
毎日のように職場に居座って、スマホ動画を観たり惰眠を貪ったり、ぐうたら一辺倒かと思いきや、病人の看病もしてくれる。
お姉さんと似ている部分は多々あるし、そうでない部分もゼロではない。
「寒くないんですか、その格好」
「慣れました」
二月の真冬だというのに、怜奈はマフラーも巻かず、薄手のコートを羽織っているだけだった。スカートの丈も今どきの女子高生的な長さで、見ているこっちが寒々しい。僕は半堕落により体質が変わってしまったのか、冬でも上着を必要としない。元から寒さに強いのかもしれないが。
「あとは、臥薪嘗胆の意味もありますかね」
「え?」
「彼女を死に至らしめた怪人への恨みを忘れないために。……そして」
氷の目が、一段と暗さを増した。
「その原因を作り、今もどこかで生きている少年への復讐のために」
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