第28話:運命の日
部屋に入ると、爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。このラベンダーのにおいを嗅ぐと、お姉さんの部屋に来た、って感じがする。
床に放り出された就活用のスーツに、テーブル一面に広がった書き損じのエントリーシート。家の中はいつ見ても、強盗に入られた直後のようだ。キッチンにはカップめんの容器が積み上げられ、斜塔のようになっている。
「経団連の言う就活解禁時期なんてアテにならないね」
曰く、新卒の就職活動では開始時期が定められているらしい。本来なら大学四年の春以降にならないと企業は採用募集をかけられないのだが、実際三年の秋には競争は始まっているそうだ。書類選考や筆記試験の対策だけでなく、「OB訪問」とか「インターンシップ」というものにも参加しているらしく、ここ一年は実家に帰っていないという。
お姉さんは寝起きにも関わらず、ティータイムの準備をぱぱっと済ませてしまった。さっきまで就活一色だった卓上には、僕が持ってきた饅頭と微糖カフェオレ、それと牛乳が置かれている。
「牛乳じゃなくてコーヒーがいいです。ナシナシのやつ」
口をとがらせ、僕は抗議する。
牛乳なんて、まるで子どもの飲み物じゃないか。
「いつも飲む時辛そうだから、てっきり無理してると思ったのに」
「む、無理なんかしてないですよ!」
嘘だ。
あんな消し炭みたいな味の飲料、飲みたいわけがない。
「わかったわかった、用意するから」
お姉さんとは歳が一回り近く離れており、この年齢差は未来永劫縮まることはない。ならば振る舞いや趣味趣向だけでも早く大人になりたいと考えるのは自然なことだ。ブラックコーヒーが飲めるようになれば、少しはお姉さんに近づけると思っていた。「無糖で飲めるなんて大人だね」と褒めてほしかったのだ。大人に憧れるなんて、自分が子どもであることの証明に他ならないのに。
ティータイム中の僕は、常に脳内を高速フル回転させている。会話が途切れてしまえば、「じゃあそろそろお家に帰りな」と言われてしまうからだ。少しでも長くこの空間にいたかった僕は、お姉さんの言葉を全身で受け止め、咀嚼し、拾い上げていく。それが芸能人やお化粧といった興味のない内容でも、知らないことを教えてもらうという体裁で、なんとか会話を引き延ばした。お姉さんにも人並みに家族関係や将来の悩みがあるらしく、僕だけに打ち明けてくれた時には、ぐっと距離が近づけた気がして、内心喜んでいた。
それでも大人と子どもという絶対的な差が埋まることはなく、気づけば後半は自分の話ばかりをしてしまうのだった。恥ずかしくて親には言えない学校の失敗談も、クラスの誰もやっていないマイナーゲームの裏技も、お姉さんはさも楽しそうに聞いてくれた。
すっかり冷たくなったコーヒーを飲み干し、饅頭の最後の一個を食べ終わった頃には、夕食の時間になっていた。まずい、母さんはきっと家でカンカンだ。ゲームの没収なんかされてしまったら、せっかくの休日が灰色になってしまう。
心配が顔に出ていたのだろう。お姉さんは保護者の顔でニコ、と笑い、「家まで送るよ」と言ってくれた。
空はオレンジと暗い青が混ざり合った、不安定な色をしていた。昼のにぎやかさと夜の静けさが共存したこの景色が、僕は好きだった。それなのに今日はなぜか落ち着かなくて、心の奥で影が蠢いている感じがした。
無意識に僕の右手は、すぐ隣にある左手をつかんでいた。
「その、よ、夜は、危ないから」
不安を悟られるのが嫌で、薄っぺらい台詞を吐いていた。手の柔らかさや温もりにどぎまぎする余裕なんてなかった。
「そっか、じゃあ守ってもらおうかな」
お姉さんは優しい笑みを作り、僕の手を握り返してくれた。
さおだけ屋の営業車を横切り、どこかの家から漂うカレーのにおいにお腹を鳴らし、来た道を辿っていく。
途中で高校生カップルとすれ違った。彼らが恋人だとわかったのは、手を握って互いにぴったりとくっついていたからだ。あの二人は僕らを見ても、恋人同士だとは思わないだろう。せいぜい親戚か、仲の良い
「そうだ、次の土曜日って暇?」
自宅まであと数十メートルというところで、お姉さんが口を開いた。
「……暇、かな」
もし予定が入っていたとしても、全力でお姉さんを優先するけど。
「君に会わせたい子がいるんだ」
「……男子?」
「さて、どーかなー。でも変わり者同士、きっと仲良くなれるよ」
お姉さんはニヨニヨと、悪戯っぽい表情を浮かべる。
変人だと思われていたことが、地味にショックだった。
あと、どうやら僕は友達がいないと思われているらしい。事実だけど。
友達を欲したことはない。日々の会話の相手なら両親で事足りるし、同世代の子と喜びや楽しさを共有したいとも思わない。遠足で同じ班になれば普通にしゃべるし、サッカーの授業では、即席チームとはいえそれなりのチームワークを発揮できる自信がある。何でもそつなくこなせることは、僕の数少ない強みだった。
あるいは、他の人に興味が湧かないくらい、お姉さんに夢中だったのかもしれない。
この先、お姉さんが就職しても、僕が中学校に進学しても、ずっと一緒にいたいというのは無茶な願いだろうか。どんなに勉強を頑張っても、良い大学に受かっても、一流企業に就職しても、お姉さんは僕を子ども扱いするのだろうか。
早く大人になりたい。
お姉さんのそばにいたい。
それ以外は何も望まない。
僕は不安を押し殺すように、手をぎゅっと握った。
住宅街の角を曲がる。
「あれ、家の前に誰かいる」
薄暗くて顔が判然としない。来客や訪問販売が来るような時間でもない。
それよりも不思議なのは、シルエットが明らかに人間のものではないということだ。上半身に比べて下半身が異常に肥大している。そして見間違いでなければ、足が八本生えている。ハロウィンでもないのに、ずいぶんリアルな仮装だ。
門柱の前に直立している母さんの顔が青ざめている。隣を見ると、お姉さんの表情も強張っていた。
「母さん?」
「あんた……! 今すぐここから逃げ……」
ひゅん、と鋭い風が吹いた。
鮮血をまき散らし、弧を描くように。
母さんの頭部が宙を舞った。
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