第25話:石神さん

 石神さんとは、我が家から徒歩五分ほどの距離にある一軒家に住んでいる大学生のお姉さんだ。母方のおじいさんが所有していた家を引き継いだらしく、そこに一人で暮らしている。石神という名字は、表札に掛かっているのを母さんが本名と勘違いしているだけだということを、お姉さんがこっそり教えてくれた。本人は特に気にしておらず、今さら訂正するつもりもないらしい。


 今日は外に出るつもりはなかったが、頼まれごととなっては仕方がない。

 そもそも、母さんがドラマの再放送を観始めるまでにゲームを点けたこと自体が間違いだったのだ。母親という生き物は、息子の制止など気にも留めない。焦りと慢心。ゲームの中断を余儀なくされた原因は僕にある。人生とは残酷なものだ。


 大事なのは気持ちの切り替えだ。回覧板をお姉さんに渡し、家に帰る頃にはドラマも始まっているし、ムービーはもう一度はじめから楽しめばいい。

 今の僕には、こっちの方がよっぽど重要だ。


 木の表札に「石神」と達筆で書かれている家のインターホンを、震える手で押す。


「……はい?」


 重たい声。まさかこの時間まで寝ていたのだろうか。


「あの、回覧板持ってきたんですけど」

「ああ、君か。ちょっと待っててね」


 扉が開き、僕は目を見張る。


 片方の紐が肩からずれ落ちたキャミソールに、生脚を限界まで露出したショートパンツ。小学生には刺激的すぎる。理性では視線を背けようとしても、本能は眼前の絶景を脳裏に焼きつけようと必死だった。


 黒い艶やかな長髪、くっきりとした目鼻立ち、長身でメリハリのあるプロポーション。その姿は大人びていて、とても大学生には見えない。こうして玄関で全身を捉えるたびに、毎回見惚れてしまう。


「もう三時ですよ」


 必死に平静を装って、ぶっきらぼうな口調で現在時刻を教えてあげる。


「昨日は遅くまで面接の対策をしていてね」


 あくびをするお姉さんはまだ寝たりないようで、瞼を擦っている。可愛い。


 僕は一呼吸を置いてから、背中に隠しておいた紙袋を差し出した。


「これ、母さんがついでに持っていけって」


 中身は六個入りの饅頭。


「寝起きには糖分がいいんですよ。一緒に食べませんか」


 母さんがついでに持っていけって。


 嘘だ。


 本当は、僕がねだって買ってもらったものだ。

 声は上擦っていなかったか、ちゃんと目を見ていたか、嘘がばれていないか、一瞬の間に様々な想いがぐるぐると交錯した。

 お姉さんはふ、と小さく笑った。


「……では、いただこうかな。入って」

「はい!」


 僕の気持ちなんて、とっくにばれていたと思う。いくら小学生が巧妙に作戦を立てたところで、最後の最後で満面の笑みを見せてしまっては台無しだ。この頃の僕にもっとも必要なものは、演技力だ。

 一回り近く歳の離れた男子の健気なアプローチは、微笑ましく映ったのかもしれない。お姉さんは毎回僕の打算的な厚意を受け入れてくれた。


 鏡子きょうこお姉さんは、僕の初恋の人だった。

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