第22話:彼の信念
堕天使を思わせる黒の両翼、指先と同じくらいの長さを持つ爪、目元を覆う真っ赤なマスク、引き締まった体躯、アメリカのヒーロー漫画にでも登場しそうな出で立ち。人と呼ぶにはあまりに特徴的なシルエットだ。
「なんでお前が、ここに……」
患部を押さえながら、表くんは地獄の底から覗くような、恨めしい目つきでねめつける。
「今宵は忙しい。ゆえに貴殿の愚問に答えている暇はない」
吐き捨てるように言うと、レイヴンは爪の先で翼から羽を抜き、ダーツの構えを取った。
「おい、まさか」
続きを言う前に、悲鳴へと変わる。今度は一投目よりも深々と、反対の腕に突き刺さっている。表くんは両腕をだらんと垂らして、壁に背中から激突した。真っ白な壁紙には血が点在し、独特のにおいを放っている。
「くそ……鳥モドキが……ぎゃああああっ!」
今度は左太もも。絶叫の後、尻もちをつく。踏ん張る力を失ったのか、目の前に突如現れた本物の怪人に恐れおののいているのか、表くんは立とうとも逃げようともしない。
「人間の身体は脆い。ゆえに心でその弱さを補っていると思っていたが、貴殿は身も心も薄弱だな」
マスクの奥にあるターコイズ色の瞳には、軽蔑の色が浮かんでいた。
「確かに我は不完全な存在だ。それは人間とて同じこと。有機物であろうと無機物であろうと、この世界には完全なものなどありはしない。重要なのは、正しくあろうとする意志だ」
「正しくあろうとする、意志……」
わたしはさっきまで、闇に呑まれかけていた。途中で葛藤することを放棄していたら、とっくに表くんを殺していただろう。
あれ、レイヴンって、怪人だよね? 悪役には悪役なりの正義があるってことか。
「貴殿の仕事に今さら口出しをするつもりはない。悪に説教など無意味だからな」
レイヴンは術前の執刀医のようなポーズをとり、十本の長い爪を見せながら壁に近づいていく。
「ま、待ってくれよ……。謝る、謝るから……」
「見つかった相手が人間なら、檻に入れば済んだのかもしれないが、あいにく我は怪人なのだ。こちらのルールに則らせてもらう」
「やめ……」
わたしは目を逸らした。
栓を抜いたような、甲高い声が一瞬だけ聞こえたが、その後は無音だった。許しを請う声も、肉を刻む音もしない。
おそるおそる視線を戻すと、下半身を真っ赤に染め上げた表くんが、白目を剥いていた。男のシンボルが根元から切除されている。
「殺した……んですか?」
「我は医者ではないのでな。死亡診断はできかねる。今から助けを呼べば間に合うかもしれないし、既に絶命しているかもしれん」
わたしは逡巡する。人として、この言葉を言っていいものか。
「あの、助けてくださって、ありがとうございます」
レイヴンがやらなければ、わたしがやっていた。つまり、わたしはレイヴンに罪を犯させてしまったのだ。感謝よりも、謝罪の方が正しいのかもしれない。でも、一番言いたかったのはお礼だった。
「人間を救ったつもりはない。我は己の信じるものに従ったまで」
「……教えてください。あなたの信じるものって……なんですか」
正義を愛し、悪を憎む。
これが人としてあるべき姿だと思っていた。人の道を踏み外したわたしは自分を許すことができなかったし、だから誰かに許してもらいたくて、認めてほしくて、頑張ってきたつもりだった。
でも心の強さなんて、力の前には何の意味もなさなかった。
だったら、どうしたらいいの?
どうすれば、強くなれるの?
レイヴンがゆっくりと口を開く。
「我が信じているのは……」
ごんごん。
扉を叩く音に、びくんと肩が揺れる。
そういえば、今は警備員が巡回する時間帯だ。通常、契約者がいる部屋の中まで見て回ることはないが、さっきから男女の叫び声や大きな物音が乱発するので、怪しんでいるのかもしれない。
この状況、どう説明したらいいんだ。血だらけの男の子に、魔王軍大幹部。どう見たって暗殺の現場だ。っていうか、わたしもほぼ裸だ。慌ててジャンパーを羽織り、パンツとズボンを履く。居留守を使うか。返事だけでもしたほうがいいか。
判断に迷っていると、ドアノブを捻る音がした。ゆっくりと扉が開く。
「……え?」
勝手に開けられたことにも動揺したが、もっと驚いたのは、扉の先にいたのが制服を着た警備員でもジャンパーを着た店長でもなく、人型のカラスだったからだ。
何重にも布が重なったコートに、革のブーツ、木の杖。頭部には、嘴の長い鳥を模したマスクが装着されている。こういうの、ペストマスクって言うんだっけ。その上には鍔広の帽子を被っている。
カラスが一歩部屋に踏み込むと、かすかにフローラルな香りがした。
「あ、あの……?」
マスクマンは部屋を左から右に見渡していき、最後に扉の横に転がっている表くんを捉える。悲鳴を上げるでも逃げるでもなく、ただ見下ろしているだけ。
「何をしたかわかっているのか、レイヴン」
男の声だ。低い声色には、怒気がこもっていた。
「……ペストか。貴殿になら、説明するまでもないと思うが、必要か?」
ペストと呼ばれた男はマスクの内側でかすかなため息を漏らす。
「この鬼形香火は、『堕落』の対象者だ」
「そうだったのか」
「計画書には目を通しているのだろうな」
「人事の仕事などいちいち確認していない」
「四堕羅として計画を把握しておくのは当然だろうが……!」
どうやらペストも怪人で、二人は同僚らしい。そしてレイヴンは、知らず知らずのうちに『堕落』という計画を潰してしまったみたいだ。ターゲットはわたしのようだが、殺すのが目的であれば、今からだって間に合うと思うのだが。
「今夜は『堕落』の決行日であった。あなたは個人の身勝手な行動で、計画を無駄にしたのだぞ」
「なるほど。これは貴殿の策略か。ならば賛同しかねる」
二羽のカラスが、対峙する。部屋に重苦しい空気が流れる。
「あなたの考えなど関係ない。これまでもたびたび謀反ともとられかねない行動をしているが、四堕羅という肩書きで見逃されてきた。しかし、今回の計画には魔王様の愛人も加わっているのだぞ。彼女、ひいては魔王様の顔に泥を塗ったということになる」
「処分なら貴殿らで決めてもらって構わない。我は己の信じるものに従うのみ」
「またそれか……。この少年はこちらで処分する。あなたはひとまず本社に戻れ」
「御意に」
レイヴンは踵を返し、軽やかに窓の縁に飛び乗った。
「そうだ、女」
羽根がはらりと落ちる。
「先ほどの質問に答えよう。我が信じているものは――」
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