第21話:表と裏

 表くんの瞳からは光沢が失われていた。まるで、道端に転がった動物の死骸を眺めるような目つきだ。


「なかなか部屋に戻ってこないから、すっかり冷えちゃったよ」


 わたしは不思議と冷静だった。


 どうして入ってこられたのか、と尋ねる必要もないだろう。この建物の関係者なら、暗証番号さえ知っていれば、裏口から自由に出入りできる。


「……あの、離して?」


 わたしの両肩は、表くんによって布団に押しつけられていた。本気で力を入れているわけではなさそうだが、少し痛い。


「うん、無理」

「どうして?」

「君もだいたい予想ついてるでしょ?」

「ううん、全然わからない」


 だって、表くんだよ?


「現実から目を背けちゃ駄目だよ。だから犯罪者になっちゃうんだ」

「なんでそれを……!」


 その秘密を知っているのは、店長だけのはずだ。ここに住んでいることも、アルバイトの子には教えていない。


 まさか、バラされた? そんなはずはない。あの店長が裏切るなんてありえない。


 あ、なんだ。


 わたしってば、誰も信じてないとか、人を信じたいとか思っていたくせに、とっくに信じていたじゃないか。店長も、表くんのことも。


 ようやく恐怖が追いついてきた。瞳が潤んで、視界がぼやける。

 足元に紫色の「うねり」が這ってくる。

 これは幻覚だ。粘度を持ったうねりは両足、胴体、腕に絡んで、わたしを縛りつける。


「い、嫌……」

「ワガママ言わないでよ。こっちだって一か月間頑張ったんだから。男嫌いの君に避けられないように優男気取ってニコニコして。店内では常に君を見張って、困ってたらすぐに駆けつけて。今日だって日曜日なのにさ。店長から電話が来た時点で嫌な予感しかしなかったけど、逆にチャンスだと思ったから」

「チャンスって、なんの」

「君を襲うチャンス」


 馬乗りになった表くんが、ベルトに手をかける。


「や……っ」


 片手で口を塞がれる。否、顎を下から押さえられる。

 わたしの両腕に表くんの両膝が乗り、びくともしない。唯一自由が残っている足をバタバタさせるが、布団の柔軟性に吸収されて、音が出ない。


 手馴れすぎている。これは初めての手つきじゃない。レイプどころか、人を殺した経験さえありそうな、加虐性に満ちたオーラが溢れていた。


「君って刑務所暮らししていた割にスタイルいいよね。サムネイル映えしそう」


 下半身を露出した表くんが、スマホでカメラを連射する。両手が使えないため顔を背けようとするが、顎をつかまれ無理やり正面を向かされる。


「はじめはもっと簡単に落とせるかと思ったけど、やっぱりトラウマ持ちは一筋縄じゃいかないよね。こないだ君に全力で拒否られた時、本気で殴りそうになったもん」


 片方の手でジャンパーのファスナーを外され、下に着ていたシャツをめくられる。


「ああ、いいや、面倒だ」


 わたしの顎を押さえていた手が離れ、シャツの襟をつかまれる。ディスカウントショップでまとめ買いした低品質の布は簡単に裂け、下着が露わになる。


「安そうなブラだなあ。もうちょっと気を使えよ」

「……っ」


 ああ、同じだ。

 あの時も、叫べる機会は何度でもあった。


 めまぐるしく変化する状況と、攻め込まれていく恐怖でがんじがらめになって、口が動かないのだ。「止めて」も「助けて」も、脳が発言を伝達する前に手遅れになっていた。身体は逆らおうとしても、男の力で圧殺されてしまう。顔を殴られ、腹を蹴られ、乳房をねじられているうちに、抵抗する意思すら奪われる。


「やっぱり二回目ともなると達観してるわけ? もうちょっと表情見せて……よ!」

「う……あ……っ」


 下腹部に鈍痛が走る。顔を起こすと、おへその下に表くんの拳がめり込んでいた。


「ほら、ほら、ほら!」


 かけ声に合わせて、ビンタを三回。頬がちりちりと熱くなっていくのを感じる。首から下は冷え切ったように寒いのに、顔だけが熱を帯びていく。


 無理だ。この男にいくら懇願しても、行為を中断することはないだろう。それどころか、泣いたり叫んだりすればするほど喜ぶに違いない。


「本当はもうちょっと楽しみたいんだけど、そろそろ警備員の巡回が来る頃だよね。早めにヤッちゃおうか。あ、もちろん叫んだらすぐ殺すから」


 あっという間にズボンを下ろされ、わたしは上下ともに下着姿になっていた。我に返り、抵抗を再開する。諦めたら終わりだ。


「そうそう、その調子」

「……痛っ……!」


 表くんの鉄拳が、再びわたしの腹をへこませる。

 胃液がせり上がり、喉に蓋をして呼吸が止まる。

 視界が一瞬白くなったが、すぐに鮮明になった。わたしの首を押さえる手が、強制的に意識を呼び戻したのだ。


 奪われるのが先か、殺されるのが先か。


 わたしの人生、何なんだろう。


 真っ当に生きようとしても、許してもらえない。

 犯罪者だから、こんな目に遭うのだろうか。


『正しく生きれば人生が楽しくなるとは限らないし、人の道を外れたらしっぺ返しが来るとも限らない。ただ、どちらの道を歩むにしろ、覚悟は必要だ』


 ミモリさんの言葉が脳裏によみがえる。


 覚悟。


 そうだ、覚悟だ。


 社会のせいにも、男のせいにもしない。


 わたしは自分の力で生きるんだ。


 手を床に這わせ、脱がされたジャンパーの内ポケットをまさぐる。


 あった。細く冷たい、ボールペンの手触りだ。頭部をノックして、先端を露出させる。グーで握りしめ、表くんの背中に回した。

 わたしの腕は短い。覆いかぶさられているこの状況では、肩や背中を刺したところで少し血が出るくらいだ。行為を中断させるどころか、逆上して殴打されるのがオチだ。


 下着の、膣口の部分に熱い感触が宿る。


 全身を、悪寒が走る。視界がぐにゃりと歪む。天井が、扉が、カバンが、時計が、テーブルが、手鏡が、コンセントが、窓が、舌を出してわたしを嘲笑している。止めて、見ないで。


 その中に一つだけ、この部屋にあるはずのない物体がゆらめいていた。真っ黒いそいつは人のようなシルエットをしているが、のっぺらぼうだ。いよいよ感覚がおかしくなってしまったのだろうか。


 顔の下部に、空洞が出現する。口だ。


 黒い物体は口元をすぼめ、次に愛想笑いのような表情を作った。数瞬の間を置いて、再びキスの形を作り、そして笑う。四度目で、それが二文字の言葉を伝えようとしているのだと気づいた。


「……首……」


 のっぺらぼうは、今度こそニイィ、と笑った。


 首なら背中より距離は短いし、女のわたしでもダメージを与えられる。ただ、人の首なんて刺したことがないから、力の加減がわからない。弱すぎては意味がないし、強すぎては致命傷になってしまう。


 致命傷。


 助かるためには、表くんを殺さないといけないのか。


 かぶりを振る。これは正当防衛だ。身を守るためにはこうするしかないんだ。このビルに設置されている防犯カメラは、店内を除いて裏の出入り口だけ。わたしが襲われたという決定的な証拠はない。


 だが、部屋には表くんの毛髪や汗が残っている。ペンを刺せば血液だって飛び散るだろう。それに彼のスマホには、さっき撮ったわたしの写真が残っている。状況証拠として充分なはずだ。


「いくぞ、鬼形香火」


 大丈夫。やれる。


 ボールペンを握る手に再度力を込める。

 きっとできる。成功する。

 先端の照準を、表くんの首筋に合わせる。

 確実に当てる。力は緩めない。

 右手を外側に振り、勢いをつける。

 刺す。突き刺す。殺す。

 殺す。殺す。

 殺す。


 ……殺す?


 どうして、わたしが人を殺さなきゃいけないんだ?


 そもそも正当防衛なんて、本当に認められるのか?


 表くんの住んでいるマンションには、政財界の大物も住んでいるという。もし彼の両親が警察や検察に圧力をかけたら、また事実を捻じ曲げられるかもしれない。


 あの時は、誰も信じてくれなかった。

 みんなでわたしを嵌めたんだ。


 振りかぶった右手が停止する。


 ――抵抗するためとはいえやりすぎだ。

 こっちが死ぬかもしれなかったのに?

 ――本当は君から誘ったんじゃないの?

 違うよ、そんなわけない。

 ――女の子はすぐ感情的になるから。

 襲われて感情的にならない人なんていない。

 ――スカートなんか履いてるから。

 今もジャンパーにズボンの格好だったのに、襲われた。


 ――もしかして、最初から殺すつもりだったとか。


 拳の隙間から、ボールペンが滑り落ちる。


 無理だ。勝てない。


 覚悟も決意も通用しない。


 わたしが背負った罪は、敗北者の烙印でもあるんだ。

 いくら人生をやり直そうとしたって、過去は消えない。

 どんなに強い色で塗りつぶしたって、咎の色は勝手に浮かび上がり、細菌のように、キャンバスに蔓延していく。


 人の心なんて、何の意味もない。


 人である限り、希望なんてない。


 ――まさか君、怪人じゃないよね。


 胸の奥底に、真っ黒な火が灯る。


 怪人だったら、許されるの?

 怪人だったら、人を殺してもいいの?


 どちらも不正解だ。


 それでも。


 怪人だったら、対抗できる。


 わたしが、怪人だったら。


 火は空気を送り込んだように勢いよく膨らんでいく。心臓を飲み込み、ボール大の黒炎に変わる。血管が溶け、焼け落ちた内臓に染み込み、ヘドロになる。汚泥は炎に包まれ、黒い霧を生む。気体となった闇は全身を駆け巡り、内側を支配していく。人としての尊厳が薄れていき、別の生き物としての矜持が育っていく。


 表くんも異変を察したようだった。わたしのパンツを投げ捨て、後ずさりを始める。


 男が、女のわたしに怯えている。


「ふ、ふふ……」


 優越感が、負の感情を増幅させる。

 間もなく、内なる黒炎が爆発し、わたしを飲み込むだろう。そして生まれ変わるのだ。人を超越し、人の上に立ち、人を支配する存在へと。


「クソが……」


 立ち上がった表くんは、震える両手でナイフを握りしめていた。


「化け物め……!」


 化け物。


 その言葉に突如、滴が頬を伝った。

 この涙はなんだ。喜びか、悲しみか。


 刃物が、鈍い光を照らしながらわたしの胸元に接近してくる。 


 楽しい。嬉しい。多幸感と満足感が滾々こんこんと湧いてきて、興奮して、安心する。

 苦しい。恨めしい。妬ましい。相手への殺意と自分への嫌悪がぐちゃぐちゃになる。


 どっちがわたしの本心だ?

 どっちもわたしの本心だ。


 でも。


 やっぱり。


「ぎゃあっ!」


 響き渡る悲鳴。鮮血が舞う。壁に、床に、脱ぎ散らかした衣服に、真っ赤な液体が飛び散る。


 だが、痛みは感じない。はじめは人間離れによるものかと思ったが、そもそもわたしは刺されてなどいなかった。


 代わりに呻いていたのは表くんだった。ナイフを握っていた方の腕から、血が流れている。そばに落ちているのは……黒い羽根?


「貴様らの好き勝手にはさせない」


 背後から聞こえる、芯の通った声。


 ゆっくりと振り返る。


 いつの間にか開け放たれた窓の縁に立っていたのは、魔王軍大幹部・ヨンダラーの一人、『黒の貴公子』ことレイヴンだった。

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