第19話:彼女の覚悟

 結局、日中は表くんに話しかけることができなかった。わたしのシフトは夕方からだったが、最近教えてもらったお菓子タワー用の駄菓子の発注方法を復習したり、お客さん用トイレが詰まって業者を呼んだりとバタバタだったのだ。さらに、遅めの昼食後に横になったらそのまま勤務直前まで眠ってしまった。慌ててバックルームに入った頃には、表くんは入れ違いで帰ってしまっていた。


 こういうのは時間を空けるほど謝りづらくなってしまうものだ。この際電話でいいかと思ったが、表くんの連絡先を知らないし、そもそもわたしはスマホを持っていなかった。


 そして夜十時を回り、店内のスタッフがわたしと店長の二人になった直後、事件が起きる。


 始まりは、お店にかかってきた一本の電話だった。


「回収? え、今すぐですか? ……はい、はい、ですが今は二人だけなので、閉店後というわけには……そうですか……、はい、わかりました」


 電話を切った店長の顔は険しかった。


「ブリリアントが逮捕されたみたい」

「はい?」


 耳を疑った。

 ブリリアントって、あの、人気ナンバーワンヒーローの?


「盗撮だって」


 事件が起きたのは一時間前のこと。

 塾帰りの女子中学生が駅のホームに向かうエスカレーターに乗ったところ、一つ下の段に男性が続いた。はじめは「混んでもいないのに、どうして真後ろにいるんだろう」程度のものだったという。半分をのぼった頃、背後の男性が不審な動きをしていることに気がついた。同時に、スカートの内側がやけにスースーしている。


 まさか、痴漢?


 もしそうだったとしたら、他に人がいないこの状況で振り向くのは危険ではないか。そこでスマホの自撮りモードで足元を確認したところ、スカートをたくし上げ、中を撮影している中年男が映っていた。


 女子中学生はパニックになり、その場で悲鳴を上げた。男は大声に驚いて体勢を崩し、下まで転がり落ちていった。衝撃でエスカレーターが緊急停止し、構内にブザーが鳴り響く。


 駆けつける駅員。駅のあちこちにいた客も何事かと集まってくる。男は肩を押さえながら、「大丈夫だから」とその場を去ろうとした。


 しかし、女子中学生の「その人、盗撮犯です!」という絶叫に、状況は一変した。逃げる男、慌てて追いかける駅員。突然始まった逃走劇に、誰もが置いてけぼりをくらってしまった。犯人は怪我を感じさせない軽やかさで改札を飛び越え、ロータリーに向かっていく。


 タクシーに乗るつもりだ。駅から離れられたら、駅員は追いかけることができない。さらに、各停でしか乗降できないこの駅には、防犯カメラはホームにしか設置されておらず、ここで取り逃したらもう捕まえることはできなかった。


 逃げられる。誰もがそう思った。


 ところが、タクシー乗り場に到着する直前で、男が突然転倒したのだ。地面に顔面からぶつかった男は痛みにのたうち回り、そのうちに追いついた駅員によって捕えられた。現場には、黒い羽根が落ちていたという。


 待合室に連行された男の正体は、すぐに判明した。カバンの中に、ヒーロー証が入っていたからだ。最初は誰もが目を疑った。そこに載っている顔写真は、若い女性に大人気のヒーロー、ブリリアントだったからだ。


 本名、山田剛志つよし。年齢、四十二歳。


 男の顔は、すり傷や鼻血でぐしゃぐしゃだった。寂しい頭頂部にも血が点在している。眼鏡のレンズにはヒビが入り、フレームも折れている。


 駅員から警察に連絡が行き、やがて全国英雄振興協会にもこの一大不祥事が伝わっていく。


 協会は示談で済ませようとしたが、既に手遅れだった。


 駅員の一人が、一連の動画をSNSで公開してしまったのだ。動画は若者を中心に瞬く間に拡散した。ネットニュースでは「ヒーロー、盗撮で逮捕か」という記事がいくつも投稿され、ブリリアントの個人ホームページはサーバーダウンした。


「……というわけで、本社から連絡があったの。国からのお達しで、ただちに関連の景品を撤去するわよ。なる早で」

「撤去って……」


 ブリリアントの景品は、店の中でもっとも数が多い。UFOキャッチャー、ルーレット、ロックオン、バーバーカット。天井に吊るしたPOPや壁に貼ってあるポスターもすべて片づけないといけない。

 さらに、今日は日曜日だというのに時間の割にお客さんも多い。接客の合間に撤去作業をするなんて二人じゃ無理だ。


「考えていても仕方がないわ。接客はできるだけあたしがやるから、鬼形ちゃんは撤去をお願い。バイトの子で誰か来られないか確認してみるけど、あまり期待しないで」

「は、はい」


 鍵の束を預かり、すぐに作業を開始する。まずはお客さんのいない台から商品を抜き取り、「メンテナンス中」と手書きした紙を貼る。フィギュアはサイズが大きいものばかりなのですぐに台車がいっぱいになってしまう。そのたびにスタッフルームに商品を置いて、フロアに出る。真冬だというのにジャンパーの内側に汗が浮かんでいた。


「持ち帰り用の袋、一枚もらえる?」

「お姉さん、両替機ってどこにあるの?」

「この人形なかなかとれないんだけど、コツとかってある?」


「はいっ、一番大きいサイズでいいですか?」

「両替機は出入り口の横とサービスカウンター前にあります!」

「両足の隙間にアームを入れると持ち上げやすいですっ!」


 緊急事態に心の余裕が持てず、早口になってしまう。これでまたお客さんに怒られたらどうしよう。店長は忙しいし、今日は表くんもいない。

 思考を高速回転させ、もっとも効率の良い働き方を意識しながら店内を動き回る。自分にこんな機動力があったなんて驚きだ。


 なんとか景品の回収は終わり、残るは店内広告だ。ポスターを破るように片手で次々と剥がしていき、等身大のPOPは脇に挟んで運ぶ。最後に脚立に乗ってアドバルーンを下げ、回収作業は完了した。


 サービスカウンターを見ると、行列ができていた。接客は任せてと言ってくれたが、さすがに店長の顔にも焦りが浮かんでいる。並んでいるのは男性ばかりで、明らかに苛立っている様子の人もいる。


 怖い、けど。


「先頭でお待ちのお客様、こちらでも承ります」


 店長が驚いた様子でわたしを一瞥した。


「わたしだって、ここのスタッフですから」


 小声で、覚悟を表明する。

 そう、これは覚悟だ。

 現実で生きていく覚悟。


 この社会には、男もいる。嫌なやつもいる。変態も、犯罪者も、絶対悪も存在する。それは自分一人ではどうにもならないことで、根本的な解決は不可能だ。いくら法律を厳しくしたって、警察やヒーローが頑張ったって、悪はなくならない。


 だったら、わたし自身が強くなるしかないじゃないか。


 まず目の前に立ったのは、同世代の青年。


「メンバーズカードが使えないんですけど」

「それでは、カードをお預かりしてもよろしいでしょうか?」


 生年月日と氏名を確認し、データを照合する。本人で間違いない。カードの裏面のバーコード部分が削れているわけでもなかった。

 こういったケースの大半は、他人のカードを勝手に使っているか、カード自体に傷がついて使えなくなっているかのどちらかだ。しかし、今回はどちらにも当てはまらない。


 機械が読み取れない理由が、さっぱりわからない。


「それではカードを再発行しますので、指紋の登録をお願いできますか」


 店長や他のスタッフならいざ知らず、わたしが原因の究明をしていたら時間がいくらあっても足りない。だったら再発行手続きをした方が圧倒的に早い。


「こちらのカードでお預けしたメダルを引き出せるはずですので。万が一エラーになってしまったらお声がけください」


 よし、一人目クリア。


 次にわたしの前に立ちはだかったのは、とうの昔に還暦を過ぎているであろうおじいさんだ。


「あのう、お手洗いはどちらでしょうか」


 この行列に並んでいる間、ずっと我慢してたの!


「あちらにある水色の機械の隣です。男性用は手前側にございます」


 お年寄りには、できるだけ簡単な言葉で説明するようマニュアルに書いてあった。


「はいはい、ありがとう」


 小走りで遠ざかっていくおじいさんを見送る。


「おい、姉ちゃん」


 三人目は、恰幅のよいおじさんだった。顎ひげを蓄え、深夜に近いというのにサングラスをかけている。明らかにフラストレーションが溜まっている様子だった。


「あっちのUFOキャッチャー、全然取れないんだけど。三千円以上使ったんだけどさ」

「申し訳ありません。あちらのフィギュアは大型ですので、取るのが難しいかもしれません」

「いや、難しいとかそういうんじゃなくてさ。全然動かないもん。なにあれ、詐欺?」

「ツメが触れた箇所によっては動かないということもありえます」

「なに、俺が下手なのが悪いって言いたいの?」

「いえ、あくまで通常通りプレイした場合の話で」


 まずい。行列に並ばされていたこともあってか、かなりイラついている。愚痴を聞けば済むタイプか、あるいは金銭・景品を要求してくるタイプか。


「姉ちゃんもやってみればわかるって。ビクともしないから」

「ですので景品によって取り方がありますので……」

「じゃあ実際にやってみせてよ」

「すみません、ちょっと今は……」

「やっぱり詐欺じゃねえか! 金返せよ!」


 この一か月弱、ゲームセンターの店員として見て、接してきた中で、もっとも相手にしたくないタイプだった。


「機械の不調以外の理由での返金はできかねます。お客様がお使いになった金額も確かめられませんし……」

「防犯カメラでチェックするとか機械の履歴見るとか、方法はいくらでもあるだろうが! いいからさっさと金返せや!」


 興奮しているからか、だんだん声のボリュームが大きくなる。

 男がカウンターを叩き威圧する。後ろのお客さんもただならぬ状況を察してか、半分は行列から抜け、もう半分はわたしたちの行く末を見守っている。


 身体が強張っていく。顔が熱い。


 怖い。


 自分が女だからとか、相手が年上だからとかに限った話ではなく、この人が怖い。これから接客業を続けるなら、こういう人の対応を毎日のようにこなさなければならないのか。


 やっぱり店長はすごい。今までこんな人たちを相手に、毅然とした態度を貫き続けてきたのだ。他のスタッフだって、理不尽な文句を言われたって、店員としての職務をこなしてきたんだ。高校生になったばかりの子だっているのに。


 逆に、ポジティブに考えろ。高校生の子にできて、二十歳過ぎのわたしにできないはずがないんだ。


 逃げるな。屈するな。怯えるな。

 立ち向かえ。考えろ。前を向け。


「重ねて申し上げますが、返金はできかねます。お引き取りください」


 わたしはもう一度、深く頭を下げる。そしてきっぱりと、お断りする。


「テメエ……!」


 顔を上げると、サングラスの奥で男の眼光が一段と鋭くなった気配がした。


 次の瞬間、男が拳を振り上げる。


 やばい、殴られる。


 頭では理解していても、両手が防御に移れない。このまま殴られたらお店に迷惑がかかってしまう。避ける術は。無理だ。この狭いサービスカウンターじゃ、逃げるスペースもない。

 ならば、わたしにできることは一つだけ。この刹那を目に焼きつけ、あとで警察沙汰になった際、状況を的確に説明する。ああでもやっぱり怖いよう。


 ところが、振り上げられた拳は、いつまでたっても落ちてくる気配はなかった。


 上目遣いに、ちらと見上げる。


「アンタ、なにやってるの?」

「……どうして……」


 黒のパーカーに青のジーンズ姿の表くんが、男の太い腕を捻り上げていた。


「腹立つ気持ちもわかるけどさ。暴力は駄目でしょ」

「ってえな! 離せよ!」


 ふぅふぅと荒げた息で訴える男に対し、表くんはさらに力を込める。


「痛い痛い痛い痛いですいたいいたいすいませんすいません!」

「お帰りいただけますか? あともう来ないでください」

「帰ります帰ります帰りますからあ!」


 腕の自由を取り戻した男は、肩を押さえながら逃げるように店を出ていった。後で本社に連絡がいってしまったらまたお店に迷惑をかけることになるが、経緯をきちんと説明すれば注意程度で済むだろう。


 間一髪。また、助けられた。


「あの、ありが……」

「お待たせしました。お次でお待ちのお客様、こちらへどうぞ」


 表くんは営業用のスマイルを浮かべ、接客を再開する。

 そうだ。今は接客が最優先。お礼なんてあとでいくらでも言える。


「ど、どうぞ!」


 その後、表くんのサポートを受けながら、なんとか行列をさばくことができた。四人目以降は筐体のエラー、両替機の下に入った小銭を取ってほしい、女子トイレのトイレットペーパー切れなど、いずれもサービスカウンターを離れなければならない内容だったので、その間は表くんに接客をしてもらった。


 本当に、頭が上がらない。


「お、終わったぁ~……」


 閉店後、さすがに店長も疲れ切った表情で、炭火で焼いたスルメのように椅子の上でくたっとなった。


「本っっ当に、ありがとう」


 改めて感謝を伝える。この子には助けてもらってばかりで、いくらわたしが後輩とはいえあまりに申し訳ない。


「気にしないでください。ウチ近所ですし」


 駅前のマンションです、と続けると、店長が目を剥いた。

「もしかして、去年できたばかりの?」


 駅前の、っていったら、政財界の大物も住んでいると噂の、超高級タワーマンションだ。何度か前を通ったことがあるが、守衛はあるし、地下の駐車場は広そうだし、なんというか異質だ。そんなお金持ちの家の子が、どうしてゲーセンでアルバイトしているんだろう。親から反対とかされそうなものだけど、これは先入観か。


 わたしたちが驚愕していると、お店の電話が鳴った。


 普段は閉店後に電話をとる必要はないが、今日はブリリアントの一件もある。店長がすぐに子機を持ち上げて通信ボタンを押した。


「……はい、……はい。ええ、こっちは問題なく……。……そうですか……かしこまりました。すぐに向かいます」


 なんだろう、嫌な予感。


「他の店舗の回収作業が全然終わらないんだってさ。……ちょっと行ってくるわ」


 美人店長の顔が一気に老け込んでいた。明日も早番なのに……。


「鬼形ちゃん、悪いんだけどあたし抜きで閉店作業お願いできる?」

「わかりました」

「僕も手伝いますよ」

「ううん、大丈夫。表くんは明日も学校でしょ? 帰った方がいいよ」

「そんなの気にしないでいいですよ」

「さすがにこれ以上甘えられないよ」

「なんなら正当な理由で学校サボれますし」

「余計にダメっ!」


 表くんの背中を押し、強制的に出ていってもらう。こちらの事情で呼んでおいて無理やり追い出すのは何様だとも思うが、健全な高校生をこれ以上拘束したくない。


 二人を見送り、出入り口のシャッターを下ろす。


 さてと。片づけは最低限でいいと店長は言ってくれたが、そのつもりはない。いつものペースでやったら二時間近くはかかるだろうが、一時間で終わらせてやる。わたしは住み込みだから、仕事が終わったらすぐに寝られるし、明日のシフトも遅番だ。多少疲れても一晩ゆっくりすれば回復する。


 腕まくりをした時に、先ほどのやり取りを思い出す。


 そういえば、自然と表くんに触れてたな、わたし。

 手のひらにかすかに残った感触を噛みしめる。


 少しずつ、確実に。


 前に進んでいる気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る