第17話:新たな決意

 布団を被ったまま、いつの間にか朝になっていた。涙が伝った部分がぱりぱりと乾燥している。早い時間なのにあまり寒くないと思ったら、お店のジャンパーを着たままだった。百円ショップで買った手鏡を覗くと、情けない顔が映っていた。


 扉をノックする音に、おっかなびっくりで出入り口を見やる。


「鬼形ちゃん、起きてる?」


 店長の声だ。テーブル中央に置いた目覚まし時計(これも百均で買った)を確認すると、まだ八時。開店準備には早い。


「開けてもらってもいい?」

「は、はい」


 わたしは昨日、助けてくれた同僚に暴言を吐き、仕事を放り投げたのだ。これから怒られるであろうことは容易に想像がつく。最悪、クビもありうる。ここを出たらどこに行けばいいんだろう。仮出所してまだ半月も経っていないというのに。こんな時でさえ自分のことばかり考えている己に辟易とする。


 おそるおそるドアを開けると、ぷるぷると震える手でお盆を持っている店長がいた。


「お、おお、おはおはよう」


 お盆には朝食と思しき料理が二人分、ぎゅうぎゅうに置いてある。


「ほら、早く取って、重い重い」

「あ、は、はい」


 みそ汁が津波のごとく今にも隣の卵焼きに襲いかかりそうだったので、まずはお椀から引き揚げてテーブルに移動させる。


 卓上に、朝食とは思えない絢爛な料理が並ぶ。ごはんにみそ汁、卵焼き、ボイルしたウインナー、ほうれん草のお浸しに半身の焼き魚。まるでホテルの朝食バイキングのようだ。


「それじゃあ、両手を合わせまして、いただきます」

「い、いただきます」


 まずはお浸しから。ほうれん草のしっかりとした歯ごたえと、じんわりと口の中に広がる醤油味が、わずかに残っていた眠気を吹き飛ばしてくれる。続いて卵焼き。お箸で半分に切って、口に放り込む。味がしっかりしており、添えてあるケチャップを付ける必要はなさそうだ。ごはんで追いかけると、意識が完全に食事モードになった。


 みそ汁、豆腐と玉ねぎの組み合わせって初めて。ウインナー、ぱりっとしておいしい。焼き魚、これは鯵かな。身がふんわりしている。口内の塩っ気が強くなってきたところを、薄味のお浸しでリセット。


「ぷは」


 気がつけば、食事開始から十分もしないうちに平らげていた。

 ごちそうさまでした、を言い終えたところで、我に返る。


 なんだこの状況は。説教されると思ったら、なぜか二人で食卓を囲っていた。食事中、店長は一言も発しなかった。ちら、と向かいの様子をうかがう。


 普段はパンツスーツのイメージが強いため、私服の店長は三割増しで可愛く見える。フリルのついたシャツでも、やっぱりおっぱいは目立っていた。


「気分はすっきりした?」

「……あ」

「昨日のあなた、この世の終わりみたいな顔してたわよ」


 みそ汁をずい、とすする音。


「き、昨日は、すいませんでした」

「平気。パニックになっちゃったんでしょ? 新人のフォローに回れなかったあたしの責任でもあるわ。表くんにはフォローしておいたから。次に会ったらちゃんとお礼言っておくんだよ」

「は、はい……」


 店長の年齢は、わたしとそう変わらないはずだ。それなのに、わたしよりずっと冷静で、周りのことが見えている。感情的にならないで、ゆっくりと相手の歩幅に合わせることができる。


 自分の情けなさに、涙が出そうになる。


 お詫びがしたいと言えば、きっと「これからの活躍に期待してるね」とでも答えるのだろう。すぐに恩返しができないもどかしさが、わたしのモチベーションにつながることまで理解している上で、朝ごはんを持ってきてくれたのだ。


「わたし、頑張ります。これからもっと仕事を覚えて、男の人にも慣れて、お店の役に立てるように努力します」


 今はこの気持ちを口に出すことが、精一杯のお礼だ。

 店長は何も言わずに、わたしの頭を撫でる。

 人は失敗をする。後悔もする。


 ただ、反省もする。子どもも大人も、罪人だろうと、何度だってやり直せる。


 それを証明してみせる。



 身支度を終えてフロアに出る。今日の勤務は夕方からだが、日中は表くんがシフトに入っていたはずだ。


 昨日の件を謝罪して、改めてお礼を言いたい。


 表くんも高校生なのにかなり大人びている。店長と同じように、何歩も先のところから励まされるだけかもしれない。入店時期はわたしと一か月しか変わらないのに。


 彼は店の外にいた。手には缶のブラックコーヒー。誰かと話している様子で、いつもの温和な雰囲気とは異なり真剣な顔つきだ。話し相手は……


「ミモリさん?」


 出所日に会った時のようなオールバックにスーツ姿ではなく、ポンチョを纏っていた。


 偶然立ち寄った……わけじゃないよね。わたしか店長に用事があるのか、あるいは表くんとも元から知り合いだったのか。やがてミモリさんがわたしの存在に気づき、自動ドアのガラス越しに軽く手を挙げる。


 表くんと目が合い、思わず目を逸らしてしまう。


 しまった、これでは余計に謝りづらくなるではないか。


 顔の向きを正面に戻し、ぎこちない笑みを浮かべて外に出る。


「お久しぶりです。なんの話をしていたんですか?」

「ああ、まぁ、仕事のことを、ちょっとな」


 ミモリさんにしては珍しく歯切れが悪い。っていうか、仕事って? わたしの働きぶりを訊いていた、という様子ではない。


 表くんの方を向くと、あからさまな愛想笑いを作った。


 二人は、隠し事をしている。


 とはいえ、仮出所中であることを秘密にしているわたしが追及する筋合いなんてないんだけど。ミモリさんはコンビニ袋から紙パックのカフェオレを取り出し、寒空の下でちうううぅ、と飲み始めた。


「で、ミモリさん、本当に今日はどうしたんですか?」

「どうしたもなにも、面談の日だろう」

「あ」


 昨日のことがあって、すっかり頭から抜けていた。

 仮出所中は月に数回、保護司と面談をすることになっている。社会復帰の進捗、罪と向き合っているか、気持ちの変化、これからやりたいことなどを報告するのだ。


「じゃあ僕は、仕事に戻りますね」

「あ、あの、表くん」

「はい?」


 誠実そうな二つの瞳が、真正面からわたしを捉えた。自分の醜い部分や、隠したい秘密まで覗き込まれているような気分になるのは、きっとわたしが不実だからだ。

 数瞬の空白が生まれる。店内から、スロットのアナウンスやアニメキャラの可愛い声が響く。


「何か困ったことがあったら、いつでも頼ってくださいね」


 ニコ、と今度は本物の笑顔を見せて、店に戻っていく。

 完全に見透かされている。わたしが謝ろうとしていることも、後ろめたさからなかなか言い出せなかったことも。


 情けない。

 本当に、自分が情けない。


「まったく、相変わらず外面だけはいい男だ」

「え?」


 表くんを見送るミモリさんの目は、ゲームセンターの店員に対するそれではない。

 やっぱりこの二人は、店外でも関係を持っている。


 まさか、付き合ってる……?


 確かに美男美女でお似合いではあるけれど、ミモリさんの方がやや年上だ。見た目は二十代中盤だが、実際はもっと若いのかもしれない。対して表くんはまだ高校生。禁断の恋というやつか。でも生徒と教師ってわけでもないし、法律上は問題ないか。どういう経緯で知り合ったんだろう。やっぱり店長経由か。告白したのはどっちから? どういうところを好きになったの? 互いの呼び方は? デートの場所は?


「おい、大丈夫か?」


 ミモリさんの言葉で我に返る。


 自動ドアのガラスには、ニヤついた気持ち悪い女が映っていた。

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