第16話:男という生き物
清掃に関しては、一週間もすればマスターできた。今では一時間もしないうちに店内を完璧に磨き上げる自信がある。
だが、未だに苦手なことが二つある。
一つは接客。遅番は夜の十時からなので、一時間はお客さんと同じ空間で過ごさなければならない。
「UFOキャッチャーで景品を取るコツって何ですか?」
「もうちょっと取りやすい場所に動かしてよ」
「機械がメダル切れしちゃったんですけど」
相手が女性であればまだいい。だが男となると、無意識に身体が硬直してしまう。フリーズしたわたしを発見した店長が助けてくれるものの、電話で接客態度が悪いと、わたし宛てのクレームを受けたこともあった。
このままではいけない。頭では理解していても、行動がなかなか追いつかなかった。
「大丈夫大丈夫。鬼形ちゃんは飲み込み早い方だから」
店長はそうフォローしてくれるが、そう甘えていられない。わたしは同僚と比較して、マイナスからのスタートなのだ。他人の倍は頑張らないと、いつまで経っても犯罪者の肩書きを捨てきれない。社会の一員として受け入れられない。
人から認められる自分を、認められない。
「おい、両替機から釣りが出てこないんだけど!」
スロットをダスターで磨いていると、頭に剃り込みを入れた、レゲエが似合いそうな男の人に声をかけられた。
店内を見渡し、他のスタッフを探す。店長はカウンターでメンバーズカードの発行手続きをしており、しばらく動けそうにない。夕勤の子はとっくに帰ってしまっている。
「おい店員、早くしろよ!」
苛立っているのか、必要以上に声を張り上げている。このまま放置したら、両替機を叩いて壊しそうな勢いだ。
わたしが対応するしかない。困難は成長のチャンスだ。
「お待たせしました。機械の不調か確認します」
「なに、この店って客の金盗むの? 詐欺だろ」
「申し訳ございません。両替機のキーは責任者が持っておりますので、恐れ入りますが少々お待ちいただけますか?」
「いや、俺急いでんだよね。終電が近いからさ。両替機に入れた一万、立て替えてよ」
「え、そんなことを言われましても……」
酒とタバコの混ざった不快なにおいが鼻をつく。
いわゆるモンスター客が来た時は、時間帯責任者を呼ぶようマニュアルには載っている。また、店長からは「困ったらとりあえず、『新人なので、わかる者を呼んできます』って答えておけばいいよ」と教えてもらっているが、そういう言い訳が通用しそうな相手ではなかった。脳内で選択肢を展開するが、どれも有効とは思えない。
「だぁかぁらぁ! 急いでるっつってんだろ、早くしろよ!」
レゲエの男が壁を叩く。
呼吸が早くなる。
頭の中がぐるぐると高速回転して、正常な判断ができない。
二年前の出来事が脳裏を駆け巡る。サークルの飲み会。べろべろに酔っ払った仲間たち。帰ろうとするわたしの肩に腕を回す先輩。
「一人で歩けないから駅まで送ってよ」
肩を貸している間、髪をいじられたり服の内側に手を入れられたりした。何度払いのけてもしつこく触ってきた。そして周りから人がいなくなり、路地の横を通り過ぎた瞬間、酩酊の演技を止めた先輩に、路地の隙間に無理やり連れ込まれた。
考えを止めようとしても、沸騰したように記憶がぼこぼこと浮かび上がってきて、振り払うことができない。口が急速に渇いていく。足が動かない。手汗がじっとりとして気持ち悪い。
店長が来るまで時間を稼ぐべきか、ひとまずお金を渡すべきなのか。
どうしよう、どうしよう。どうしたら。
「すみません、お客様」
わたしとレゲエの男が、声のした方を同時に見やる。
「ここの頭上に防犯用のカメラを設置していたので確認させていただいたのですが、この一時間で、お客様が機械に入金した映像がございませんでした」
そこにいたのは、当店唯一の男子高校生アルバイターだった。
レゲエの男が、突然狼狽えた様子になる。
「念のため他の映像もチェックしましたが……もしかすると、隣のパチンコ屋で両替されたのではありませんか? 機械が同じ種類なので、間違われるお客様が多いんですよ」
「……あ、ああ! そっちと勘違いしたのかもしれねえな! 文句言ってくるわ!」
レゲエの男は、そそくさと店を出ていった。
「たまに女相手だと強気になって、ゆすってくるやつがいるんですよね」
柔和な笑みを浮かべながら、男の子は両替機の上のカメラを見つめている。
「防犯カメラでチェックしたっていうのは嘘ですよ? バイトにそんな権限はないので。そもそも隣のお店もパチンコ屋じゃないですしね。本当は警察呼んだ方がいいんでしょうけれど、余計に鬼形さんが嫌な思いするかもしれませんし」
ニコ、と効果音が聞こえてきそうな笑みだった。
「あ、ありがとうございます……! えっと、あの……」
胸元のネームプレートを確認しようとしたが、ジャンパーに隠れている。
「
屈託のない微笑みを見せる。さっきから笑顔の種類がころころと変わる。年下なのに、わたしよりずっと大人びている。
表くんがゆっくりと手を差し出す。
「立てますか?」
いつの間にか、わたしは床にへたり込んでいた。
「え、えっと……」
まず頭に駆け巡ったのは羞恥心だったが、閉店間近でお客さんはほとんどいない。そしてわたしは完全に腰が抜けており、一人で立つことはしばらく無理そうだった。
「すみません……」
差し伸べられた手を握り返そうとする。
胸の奥が、どくん、と疼いた。
わたしのもう一つの苦手なこと。それは、出所当初からの課題でもある。
「その……いや、やっぱり、自分で、立てます、から」
「どうしました? もしかして体調悪いんじゃ……」
表くんの細い手が。
男の太い手が。
近づいてくる。
「触らないでっ!」
『蛍の光』が流れる静かな店内で、メンバーズカードを渡す店長と、それを受け取るお姉さん、太鼓ゲームに興じていた親子が、同時にわたしを見る。
「あ……」
もっとも見られてはいけない部分を露呈してしまった。やってはいけないことをやってしまった。
わたしは甲斐性なしだ。さっきまでへたり込んでいたのに、ここから逃げたい一心で立ち上がり、スタッフルームに駆け込んだ。
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