第8話:レイン
「スタッフ専用口につき、立ち入り禁止」の立て看板を無視して、通路の奥へと進んでいく。上へと続く階段をゆっくりと上りながら、彼女にかけるべき言葉を考えていた。
鉄の重い扉をゆっくりと開ける。キィ、と小さく軋む音がした。
案の定、花村ちぐさは屋上で佇んでいた。
転落防止用の網に背中を預けて座り、空を眺めている。僕は無言のまま隣まで移動し、同じ姿勢をとる。
灰色がかった雲が居場所を奪うようにひしめき合い、空はぐずり始めていた。
「あの子、妹と同じ顔してた」
「え?」
「私の戦いを見てた子。家に帰ったら両親が死んでたあの時の妹と、同じ顔だったんだよ」
その声色に、悲哀や後悔は含まれていない。淡々と、ありのままの事実を伝えている。それなのに、どこか空虚だ。
「妹と同じ想いをする人が生まれないようにって、ヒーロー始めたのに」
「でも、あそこにいた人たちを助けたのは間違いなく花村だよ。君のおかげで、僕もこうして生きている」
その代償は大きかったが。
「両親の殺人事件の裁判でね、初めて犯人の顔を見たんだ。もっと凶悪そうな人だと思っていたのに、そこにいたのは細身で長身の、マッチ棒みたいな人だった。目元がくぼんで多少血色が悪かったけど、どこにでもいるような雰囲気だったよ。でもそれが、私には怖かった」
「怖かった?」
「こんな普通そうな人が、泥棒に入って、人を殺すんだって思ったら、急に周囲の人たちが同じ人間とは思えなくなったの」
罪を犯したにも関わらず、未だに捕まっていない犯罪者は世の中に何千、何万といる。街ですれ違った人の中に殺人犯がいるかもしれないし、隣人がヤクザの可能性だってあるし、学校や会社の知り合いが実はテロリストかもしれない。ただ、日常生活でそんなことを考えている者などいないだろう。
「裁判の最中、妹の手を握りながらずっと震えてた。この子の前でだけは強い自分でいようって決めてたはずなのに」
そう語る花村ちぐさの手は小さく揺れていた。
僕はそれを、自分の手でゆっくりと上から包み込む。
「最後に裁判官が、『遺族に何か伝えたいことはありますか』って言ったの。犯人は私たちの顔をまじまじと眺めてこう答えたんだよ。『まだ若い姉妹に、こんな顔をさせてしまって申し訳ない』って」
当時の新聞記事を思い出す。さほど大きく取り上げられていなかったためか、反省の弁は載っていなかったと思う。
「その後に、こう続けたんだ。『一緒に殺してあげたら良かった』って」
冷えた手で心臓を鷲づかみにされたような気分になった。脳裏に、惨殺された自分の両親と、高笑いをするアルケニーの顔が浮かんで、急速に口の中が乾いていく。
「今でもよく覚えてるよ。全身の毛穴が開いて蒸気が噴出するみたいに身体じゅうがぶるぶるして、熱くて、たぎるような感情がこみ上げてきたの。でも私にできることなんて、みっともなく声を上げて泣いて、『この人殺し』って叫ぶだけ。何も、できなかったんだよ」
この人殺し。
僕はその言葉を脳内で反芻する。
怒りと悲しみと、無力感。
それこそがヒーロー・レインの原動力だった。
大事なものを失ったからこそ、二度と取り戻せないからこそ、他の誰かが同じ苦しみを抱えないようにこれまで戦ってきたのだ。妹だけじゃなく、すべての国民を守ってきた。犯罪者や怪人から。
僕は確信する。レインは、花村ちぐさは、女優でもタレントでもアイドルでも歌手でも、ましてや十一位の女でもない。
正真正銘の、ヒーローだ。
僕は今一度、被せた手を強く握る。真正面から、花村ちぐさの潤んだ瞳を見据える。
「な、なに……?」
大事な想いこそ、言葉にして伝えるべきなのだ。
「僕たちのために戦ってくれて、僕たちの大切なものを守ってくれて、ありがとう」
瞳の堤防が、決壊する。
花村ちぐさが、僕の胸にすがりついて涙を流す。
頭を撫でてやる。栗色のショートカットから、甘く優しいにおいがした。
認められること、許されること、愛されること。
僕らは、これらの気持ちを充分に受け取る前に、両親を同時に失ってしまった。
もっと愛されたかった。もっとたくさん遊びたかった。ケンカも、仲直りもしたかった。意見を交わして、相手との違いを知って、受け入れたかった。
もう取り戻せないものだけど、何もかもを失くしたわけじゃない。代わりに与えられるものが、きっとあるはずだ。花村ちぐさなら、それができるはずだ。
「本当に、おつかれさま」
こんなところをミモリに見つかったら、きっと「ヒーローと怪人との禁断の恋だな」なんて茶化してくるのだろう。この瞬間、あの人のことを考えているのがなんだか不義理な気がして、それをごまかすように花村ちぐさの頭を撫で続けた。
再び空を見上げる。先ほどまで号泣しそうだった曇り空は、涙を引っ込めていた。
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