時は徐に


「ねえ、ゆずき。壁ドンしてほしいの」

「は?」

魔法って何のためにあるのだろうか。世界に魔法使いを志す者は多いけれど、俺は彼らの気持ちが全く理解できない。俺も魔法使いの端くれだが、魔法なんてのは全然役に立たないぞ。

例えば、こういう無邪気な無茶振りとか。回避できた例が一度もない!

「何言ってんの…?」

困惑しきりの俺に対し、彼女──シャーレイは、なぜ俺が戸惑っているのか分からないといった顔で、もう一度滅茶苦茶なオーダーを口にした。

「だから、壁ドンしてほしいの」

「なんで!?」

意味が分からない。しかしシャーレイのわがままが滅茶苦茶なのはいつものことだ。この前は卓球がやりたいとか言い出したし。だが、卓球台のDIYと壁ドン、どちらがより嫌かと言われたらどう考えても壁ドンの方が嫌だ!

シャーレイは自身のベッドに腰掛け、足をぶらぶらさせている。窓から差し込んだ陽光が、彼女の濃紫の髪をつやつやと光らせた。

「あのね、昨日ゆずきが、少女漫画を買ってきてくれたじゃない?」

「君が読みたいって駄々こねたからね」

「あれ、とっても面白かったわ!中でも主人公が壁ドンされるシーンが興味深いの。だから壁ドンをされてみたいのよ」

つまりあの漫画に影響されたと。しまった、もうちょっと考えて買って来るんだった。成人した男が少女漫画を買うとかいうちょっとした羞恥に耐えるのに精一杯で、内容とか全然考えてなかった。

「壁ドンされるときゅんとするらしいのよ。きゅんって何かしら?ゆずきに壁ドンしてもらえば分かるかもしれないわ。だから、ゆずき──」

「断固断る」

絶対嫌だ。そんな恥ずかしい真似できるか!

「むう、ゆずきったら意地悪だわ!」

「いや、意地悪なのは君だろ!?昨日わがままを聞いてあげたばっかりじゃないか」

「昨日は昨日、今日は今日だわ」

「さすがに付き合いきれないよ」

そう言うと、シャーレイはまずきょとんとした。それから頬を膨らませた。そして、最終的にはしゅんと俯いてしまった。…ちょっと面白い。シャーレイの感情の移り変わりの激しさは感心するレベルだ。

「……だって、私にずっと付き合ってくれるつもりで、ゆずきはここに来たんじゃないの?」

「……………」

言い過ぎてしまったかな。

シャーレイは普通の人間じゃない。シャーレイは妖精なのだ。今は隠しているけれど、その背中には本当はきらきら透き通った羽がついている。

しかし、妖精は人の町では暮らせない。自然豊かな場所でしか生きられない種族なのだ。訳あって妖精の里に帰れないらしいシャーレイは、だからこうして人里離れた山の上の小屋で、人の世界の澱んだ空気に弱った身体で、一人寂しくその生涯を終えるはずだった。

「……だって、卓球するのも漫画を読むのも、壁ドンも、私一人でここにいたらできないことよ」

「…………」

ちょっと、シャーレイ。そういう顔をするのは本当にやめて頂きたい。ある意味無茶振りより困るんだよ、なんて言えばいいのか分からなくなる。

「ええと、シャーレイ……」

「ちょっとくらいわがままに付き合ってくれたっていいじゃない。私、どうせ…」

「あーもう、分かったよ何!?壁ドン?やればいいんでしょ!?」

しゅんと俯くシャーレイに近づき、最早やけくそでその顔の隣に手を───あれ?壁がない。いや当たり前だ。シャーレイはベッドに座っていたのだ。後ろに壁なんてあるわけがない。そしてこのままだと──

案の定、勢い余ってシャーレイと俺はベッドの上に倒れた。

「………」

「……ゆずき?」

シャーレイは向日葵の花のような陽光色の瞳をぱちくりとさせ、俺を不思議そうに見上げている。

「ゆずき、これは壁ドンじゃなくて床ドンだわ」

「………」

「ていうか、ベッドドン?かしら」

「お、同じようなもんでしょ」

動揺の見えないシャーレイに何とか返事を返して、俺はシャーレイから離れる。

あれ以上さっきの体勢はまずかった。色々とまずかった。シーツに広がったふわふわの髪がちらつく。いや、俺はあくまでシャーレイのわがままを聞いてあげただけ。今日の無茶振りも無事クリアだ、うん良かった。

「これでいい?もうこれでいいでしょ?」

もう無茶振りには応じないぞという意志を込めて、木製のテーブルに肘をついてそっぽを向く。

「……うん、分かったわ」

「何が」

「きゅんって何なのか」

………ほんとか?さっき、顔色一つ変わってなかったみたいだけど。

「なら、俺食糧の買い出しに行ってくるから。……安静にしてるんだよ?間違っても前みたいに一人で池で遊んだりしちゃだめだからね」

「はーい」

その声は弾んでいる。何が嬉しいのか、随分と楽しそうだ。

立ち上がった俺に、シャーレイはいつもの調子で(つまりはからかうように)こう言った。

「それにしても、ちょーっとしおらしくしただけでわがまま聞いてくれるなんて、やっぱりゆずきってちょろいわね」

「………さっきのわざとか!?」

なんてやつだ。俺は本気で慌てたっていうのに。こういうところが可愛くない。

「シャーレイ、あんまり俺をからかうとさすがに怒──」

「やっぱりゆずきって」

シャーレイは花が咲いたように笑う。

「優しいわよね!」

「………」

言い直せばいいと思ってんじゃないぞ。さっき、はっきりちょろいって言ったろ。

ほんと、こういうところが可愛く……ないわけじゃ、ないんだけど。

「はあ。全く…」

「ゆずき、これからもわがまま聞いてくれる?」

「……今日はもう終わり」

「今日ってことは」

「一日一回だけね」

我ながら甘いなあと思うけれど、………そうだよ。俺だって、君に最後まで付き合うつもりでここに来たんだ。

「じゃ、大人しくしててね」

ドアを閉めて、廊下に出る。麓の町まで一時間かかる。そろそろ行かないと日が暮れるまでに帰れなくなってしまう。

……魔法って何のためにあるのだろう。

治癒の魔法の才能があると言われて育った俺は、でもそんなもの要らないと思っていた。俺は病人や怪我人を救うために人生を使いたいと思うような善人じゃなかった。だから魔法使いになんてなりたくもなかった。

俺にとっての答えは、だから誰かのためじゃなくて君のためで。綺麗で無邪気で、楽しそうに生きている眩しい君が、実は救われない病であると知ったとき、俺の治癒の魔法はそのためにあったのだとさえ思った。

君のために、俺は魔法使いになりたかった。

そのために魔法学校に入学して、必死に勉強して、治癒の魔法では随一と言われるまでになったけれど、シャーレイの元に帰って来た俺は絶望する他なかった。

人間でないシャーレイに、俺の魔法は効かなかった。

ごめんね、とシャーレイは笑った。─妖精に魔法は効かないの。もっと早く言っておけば良かったわね。

─どうすればいいんだ。どうすれば君は助かる?

─そうね。妖精は人間より上位の存在だから。人間の力じゃ、科学でも魔法でも、きっとどうすることもできないわ。私は死ぬのよ。後一年もしないでね。それは、変えられないわ。

─じゃあ、どうして君は、そんなふうに笑っていられるんだ。

─あら、だって。


あなたが帰って来てくれたでしょう。

あなたが私のために、そんなに必死になっていてくれたんでしょう?

これ以上嬉しいことなんて、きっとこの世のどこにもないわ。


「君がそう言うなら、俺はこれからずっと君のそばにいよう」

そう決めた以上は──まあ、日々のわがままくらいはしょうがないか。






閉じられたドアを見つめて、呟いた。

「ほんとにゆずきって、優しいわよね」

そういうところが好きなのよ。

今日も往復二時間かかる距離を、歩いて町まで行くのだろう。不便極まりないだろうに、文句一つ言わずに。私のわがままも、文句を言いつつ結局聞いてくれる。

その優しさにつけ込んで、こんな所に縛りつけて。私は本当に最低よね。

「にしても、さっきのは……」

見上げたゆずきの顔を思い出す。

「ちょっと、びっくりしたわ」

軽い気持ちで実践してみたら、きゅんどころじゃなかったわ。

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