青ノ印

青の約束


「私、海に行きたいわ!」

きらきらした朝陽が射していた。

窓から入り込む穏やかな秋風が、優しく君の頬を撫でる。

「何だって?海?」

「ええ!」

彼女のご所望のパンケーキを焼きながら聞き返す俺に、彼女は元気良く返事をする。

今日の彼女は具合が悪い。大抵は目覚めたとたんにベッドから飛び出す彼女は、今日はまだシーツにくるまっている。

まあ、病身の彼女が真に元気なときなどないのだが。少なくとも、いつもは元気そうに、見える。

今日も、起き上がれないほど具合が悪くとも、彼女は声だけは明るい。というか彼女が暗いところなんて、俺は一度も見たことがない。……見たくも、ない。

「どうしていきなり海?シャーレイ、いつもの気まぐれ?」

「ちがうの、気まぐれなんかじゃないわ。見たいの、どうしても!」

「だからどうしてさ」

「だって、きれいだって言うじゃない!」

パンケーキをひっくり返す。完璧な焼き加減だ。

「ねえゆずき、聞いてる?こっち向いてよー!」

「そっち向いたらパンケーキが焦げちゃうだろ。聞いてるよ。…何、君海に行ったことないの?」

彼女に背中を向けたまま俺は答える。……第一見なくても分かる。君が楽しそうに笑ってる顔くらい、目を瞑ってたって見えるんだから。

「そんなわけないでしょー。私がどうやってこの国に来たと思ってるの、ゆずき」

「………そういえばどうやって来たんだい?飛行機?船?」

「ちーがーいーまーすー。飛んで来たに決まってるでしょ、この自分の羽で!」

「嘘でしょ、シャーレイ、君ずっと飛んで来たの!?」

思わず振り返る。

彼女はいたずらっぽく笑っていた。

「ほんとよー?驚いた?」

「…あまりに原始的過ぎてびっくりだよ」

彼女のしてやったり、という顔にちょっといらっとしたので、平静を保ってパンケーキに集中する。

「焦がした?焦がした?」

「焦がしてない。…それで、それなら海なんて嫌というほど見たんじゃないの?」

「そうよ。でもほら、その時は一人だったから。今は違うでしょう?」

「……………」

「私が思うにね?ゆずきと二人で見たら、」

想像できてしまった。背を向けていても、彼女がどんな風に笑ったのか。それは、それはもう幸せそうに、

「二人で見たら、きっともっとずうーっときれいだわ!」

幸せそうに、彼女は―――。


そして、その笑顔も。

もうすぐに、二度とは。


「……ゆずき?どしたの?」

「………………焦がした」

「あはは!ゆずきってばドジね!大丈夫よ、全部食べるから」

「…行こうか、海。君が元気なときに」

「え、ほんと!?今日のゆずき、心が広いわ!」

…眩しいほど、きらきらした朝陽が射していた。

ああいや、どうだろう。君のいた思い出だから、きらきらしているのかもしれない。




目を覚ます。

「おはよう、シャーレイ…」

言ってから、気づく。

顎を埋めていたシーツには、誰の姿もない。

「…うん。そうだったな」

彼女の部屋を掃除していたら、ついあの頃のように、ベッドサイドで寝てしまったようだ。

「そう、なんだよな…」

いないのだ。もう、彼女は。

立ち上がって部屋を見渡す。

まず目に入るオルガン。歌が好きな彼女が、伴奏が欲しいと言うから買ったのに、肝心の彼女はほんとに買ったのって驚いてた。彼女が好きな曲なら、今でもそらで弾ける。

本棚には、彼女が好きな歌の楽譜。実は彼女は楽譜が読めないことが後に判明したけれど、俺が伴奏をするのに役立った。少女漫画もある。一度読んでみたいと言うから買ったが、少女漫画的シチュエーションを現実でやってみたいと言われていろいろ振りまわされたっけ。一番上には料理本。彼女が食べてみたいって言う料理を片っ端から作ってあげた。おかげでこの前、料理上手だってユニエちゃんに引かれてしまった。

奥にはキッチン。彼女はパンケーキが大好物だった。彼女が少しでも良くなるように、花とか木の実を使ってジャムを作ったりした。毎日俺はそこに立っていた。市販のものをあげると、彼女は何故か不満気なのだ。…ゆずきがつくるからおいしいのよ、って。

…全部、覚えている。

君のことなら全部覚えている。

わがままを言うときのいたずらっぽい顔。

わがままを聞いてあげると満面の笑みになって、

聞いてあげないとむすっとする。

時々何故か拗ねたりする――彼女いわく、それは俺が空気を読めないかららしいけど。

一人でいるときは、少しだけ、寂しそうな顔をしているのを、一度だけ見たこともある。俺はそれを見たくなくて、結局ここから離れられなくなって。

笑って欲しくて、彼女のわがままを聞いてあげた。今から思うと、我ながらちょっと甘やかし過ぎた気もする。

…時計を見れば、もう午前七時。いつまでもここで感傷に浸っているわけにはいかない。

懐かしい彼女の部屋を出て、忘れずに魔術をかけて、扉を隠す。廊下を歩きながら、声をかける。

「直弥、そろそろ起き――」

………立ち止まる。

何をやってるんだ、俺は。

直弥だってもう、この家にはいない。

「…今日だめだな、俺」

そういえば、魔法の研究についても直弥にやめろと言われたんだったか。とすると、俺にはもうやることなどないのだ。

誰もいない家でやることもないというのは、俺でも、少々きつい。なまじ思い出ばかりある分、それに呑まれそうで。

「久しぶりに真面目に、魔術の研究でもするかな」

言ってはみるものの、やる気はまるで起きない。だってもう目的がない。もう、誰もいない。

「………」

そのとき。

時間が止まったかのように閑かな家に、インターフォンのチャイムが鳴った。

「…え?」

聞き間違いじゃないかと疑いつつ、俺はゆっくりと玄関に向かう。

誰なのか、なんて、信じ難いけど一人しかあり得ない。少しだけ、凪いだ心が弾んだ、気がした。

玄関を開ける。

彼女がいなくなった後、十年間育てた、彼がそこにいた。

「……直弥、何で」

「何でって、俺の家だろ。帰って来ちゃ悪いのかよ」

彼は口調こそいつものように荒いが、きっと怒ってはいない。決まり悪そうにそっぽを向いていた。

「別に、悪いなんて言ってないよ。帰って来たいならいつでも帰って来ればいいって、そう言っただろ、俺」

彼は俺の言葉を聞くと俺の方を睨んだが、…やがて、はあ、とため息をついた。

「…やっと分かったわ、俺」

「何が?」

「お前、言い方が余りにも悪い。あと空気読めない。でも、それだけなんだって」

彼は玄関に入って、廊下を進んで行く。その背中に俺は問いかけた。

「…どういう意味?」

「お前がどうしようもないやつってこと!」

ぶっきらぼうに彼は答えた。

でもその台詞は、彼女が最後に言った台詞と、全く同じで。

……………そういえば。

海には、結局、行けなかったんだったか。

「…直弥!」

「なんだよ」

部屋に入る直前で彼は振り向く。

ドアに手をかけて不機嫌そうにこちらを睨む彼に、俺は言う。

「今度、海に行かない?」

「……は?」

彼の顔は一転、困惑に支配される。でもすぐにいつもの険しい顔に戻って、でもその口元だけは、少し。

「なに突然、らしくないこと言ってんだよ」

「ユニエちゃんと一緒に、三人でさ。行かない?」

彼は、困ったように笑って。

もう一度、ため息をついて。

仕方ないな、というように。

「…まあ、行ってもいいよ」

そう言って、扉を閉めた。


しばらく、やることがないなんてことはなさそうだ。

思い出に呑まれることも、きっとないだろう。

だって、全部今に繋がっている。

とりあえず、パンケーキでも焼こうか。シャーレイの好きだったそれは、そのまま直弥の好物になった。


秋風が吹く。きらきらした朝陽が、廊下に日だまりをつくる。

直弥が部屋で、かつて良く聞いたメロディを、鼻歌で歌っている。


――ほんとにゆずきってば、どうしようもないんだから。

そんな声が、聞こえた気がした。

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