第60話 Alea iacta est!

 「神様をパシらせるなんて……大丈夫なんですか?」


 あ。

 背後から聞こえてきた宇都宮さんの声に、私はやらかしたことに気づいた。

 いやいや、自分から伝えに行くって言ってたからセーフだよね!?


 「アリス姉、今のは神さまがじぶんで行くっていったから、だいじょうぶだよ」

 「あー……ですよねー……ですよね?」

 「だ、大丈夫だと思うよ」


 神様が居なくなった途端、黙っていた背後ががやがやとざわめき出す。いや、奏くんとレグルスくんはイゴール様がいても、うごうご好きにしてたみたいだけれど、宇都宮さんでさえ静かにしていたくらいだ。

 大人側の緊張は半端なかったらしい。

 だからか、それから解放されて相当ホッとした様子。

 しかし、そんな気分にならないのかロッテンマイヤーさんが、ソファに座る私と視線を合わせるために、膝を折った。


 「若様、先ほどのお話ですが……若様のお命が危険になるようなことは……」

 「え? や、そんな大袈裟な……」

 「ああ、利権絡みで損害を被る家があれば、そんな強硬手段に出てくるものもあるでしょうね」

 「ちょっ!? そこまで!?」

 「無くはないですよ。既得権益にしがみつく旧い家、しかも大きな家だと、庶民を虫や雑草のようにしか思っていないところもある。そんな人間が、虫や雑草と対等に契約を結んだり、同じテーブルで商談をするなど、屈辱と侮辱を与えられたも同然。そう言う方向から思わぬ恨みを買うこともあるでしょう」


 なんですと!?

 そんな無茶苦茶な。庶民だろうが、平民だろうが、同じ人間じゃん。

 生まれる場所や親が選べるわけじゃない。大貴族に生まれたのは単なる運だ。

 自分で努力して得たわけじゃないもので、よくも自分を「特別」だなんて思えるよね。

 あかん。

 曲がりなりにも昭和と平成の価値観があるだけに、その辺りの思想は理解しかねる。

 価値観が違う連中の思考をトレースしようとするのは、正直時間の無駄だ。


 「まあ、それはどうにかなるよ」

 「そうだね。もしその法律に菊乃井が関わってると矢面に立たされるなら、僕やラーラ、アリョーシャがあーたんの側にいるって公表したら良いんじゃない? 僕らならあーたんに刃が届く前に処理出来るし、犯人だって突き止められる」

 「それが一番の抑止力ですかね……」


 軽い調子で言うヴィクトルさんとラーラさんに、腕組みしながらロマノフ先生も頷く。

 ともあれ、蝶々は羽ばたいた。

 どんな小さな風の動きであろうとも、起こった事は無かったことにはならない。これが菊乃井にとって、最良とは言わないでも、よい結果を招くことになれば。

 祈るように手を組むと、手のひらに汗をかいていたことに気づく。

 やっぱり会社を起こすって言うのは、早計なのかもしれない。でも稼いだお金を伯爵家のお金にされるのも困るし、伯爵家からお金を借りないといけないのも、還元と言う目的を考えるとちょっと遠慮したいのだ。

 さて、資本金とか準備資金を何処から融通つける、か。

 それが当面の課題だし、つまみ細工の職人を養成するなら、技術をマニュアルか何かに落として、説明しやすいように整理しておかないと。

 企画書やらも必要だろうか。

 むーんと唸っていると、ペタペタと柔らかい小さな手が、私の腹をブラウスの上から探る。

 「どうしたの?」と尋ねるより先に、レグルスくんがショックを受けたような顔をした。


 「にぃに、おなかへってる!?」

 「減ってる? うぅん、お腹は空いてないよ」

 「れーの! れーの、にぃにのおなか、ぺったん!」

 「んあ?」


 何が言いたいんだろうと首を傾げると、「ああ」と宇都宮さんが小さく声をあげた。


 「若様が最近お痩せになったから、レグルス様のお好きなぽよんぽよんのお腹がぺったんになってきて危機感が芽生えてらっしゃるんです」

 「おお、確かに最近身体が軽くなってきたと思ってたんですよね」


 なんせ、目を覚ました時点で肩凝りと冷え症持ちの「生活習慣病」予備軍なお腹周りで、それから半年かけてお散歩と、全く上達しないけど剣術や馬術の稽古、菜園で農作業して庭で鶏に追いかけられで「ぽっちゃり」まで来たんだよ。んで、減らなくなってきた処にラーラさんのお歌歌いながらの歩き方講座に、魔術の勉強やらで頭を使うようになったら、また減りはじめて。

 レグルスくんと初めて会った時から比べたら、割りとお腹周りすっきりになったんだよね。まだぽっちゃりだけど。


 「これからまだ痩せるよ」

 「まだへるのぉっ!? やだー! へっちゃ、やー!」


 ぷにぷにとお腹の肉を揉むレグルスくんの、上目遣いの目にみるみるうちに涙の膜が張る。

 ひよひよひよこちゃんは可愛いけど、痩せねば動きにくいんだよ。

 へらりと笑っても、私が痩せるのを止めないのがレグルスくんに伝わったのか、泣きながら今度はラーラさんに寄っていく。

 美しく佇むラーラさんの膝にすがると、潤んだ瞳で。


 「にぃに、へらさないで?」

 「あー……そう来たか、ひよこちゃん」

 「ラーラも流石に泣く子には弱いよねぇ」


 他人事だからか、ヴィクトルさんはちょっと苦笑して、ラーラさんの肩を叩く。しかし、ラーラさんは余裕の笑みで、レグルスくんの目線にあわせて屈んだ。


 「ひよこちゃん、それは出来ない。だけどね、痩せても伸びるから」

 「のびる……?」

 「そう、痩せた分だけ伸びるから。だから、まんまるちゃんは減らないよ」

 「そうなの? にぃに、のびる?」


 振り返って私に尋ねる純粋なおめめのひよこちゃんに、ぶんぶんと首を縦に振る。

 痩せた分だけ縦に伸びたら減ったことにはならない……のかな。

 よく解らないけど、レグルスくんは納得したのか、ぐしぐしと持たせているハンカチで涙を拭う。洟も出てたのを、奏くんがハンカチをとって拭いてくれた。


 「ありがと」

 「おう。あんな、やせないと兄ちゃんびょうきになりやすいんだよ。またたおれたら、いやだろ?」

 「やー……」

 「じゃあ、がまんしないとな。のびるって言ってるんだから、それでいいじゃん」


 やだー! 奏くんたら、良いお兄ちゃん!

 弟と友達が尊い!

 ほわぁっと和んでいると、奏くんがきりっと凛々しく表情を変えた。


 「おれにできること、何かあるか?」

 「へ?」

 「若さまがおれらのことをかんがえてくれてんのは、じいちゃんからきいてる。それ、おれがてつだえること、あるか?」


 きりっとしたお顔は、大人びていて、凄く頼もしく見える。

 これがお兄ちゃんの包容力なのね。

 驚きながらも、私は大きく頷いた。


 「あるよ。っていうか、今も頑張ってくれてると思う」

 「今も? なんもしてないぞ?」

 「うぅん、してくれてる。奏くんが勉強して、魔術を使いこなせて、それを利用して、大人になった時に私やレグルスくんを助けて菊乃井をお金持ちに出来たら、皆が勉強の大事さに気付いてくれると思うんだ」

 「おれがしゅっせしたら、みんな勉強するようになるかも……ってことか?」

 「そう。勉強は大事だから自分は兎も角、こどもだけでも学校に行かせたいと思ってくれたらって」


 暫く考えて、それから奏くんがにかっと笑う。

 鼻の下を指で擦ると「まかせとけ」と、胸を叩いた。

 持つべきものは、本当に包容力のある友達です。

 嬉しくなって抱きつくと、重い私をきちんと受け止めてくれる。

 お兄ちゃん良いよ、お兄ちゃん!

 感動していると、腰にレグルスくんがしがみついてくるけど、奏くんはどっしり構えて動じない。


 「奏くん、大好き!」

 「おう、おれも若さまのこと大好きだぞ」

 「れーも! れーも、にぃにだいすき! いれて!」


 友情万歳!

 感動に浸っていると、背後から咳払いが聞こえたけど、なんだろうな?

 ぎゅっぎゅ三人で遊んでいると、クスクス笑うラーラさんの声。


 「まんまるちゃん、資金のことなんだけどね」

 「はい?」

 「ぶすくれてる大人げない帝国認定英雄が出してくれるって。それだけじゃなく、ボクやヴィーチャも出資するよ。ただし」

 「ただし?」

 「材料は提供するから、ボクたちにも『Effet Papillon』で、ネックウォーマーだっけ? ああいうの、作ってよ。勿論余った材料は自由にしてくれたら良い」


 パチンッと音がしそうなほど綺麗に睫毛を瞬かせて、ウィンクを飛ばしてくる。

 これは絶対手を抜けない!

 そう気合いを入れた翌日のこと、今度は姫君がぶすっと膨れていらした。

 なんでやねん。

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