第32話 帝都一の音楽家と歌手は握手するのか、しないのか
ヴィクトル・ショスタコーヴィッチとは、麒凰帝国の宮廷に勤める宮廷音楽家で、音楽に関して古今東西に並ぶものがないとされる。エルフの長命を生かし、古い曲や楽器の保護、また各大陸固有の楽曲・楽器の収蔵に勤める人物でもある。
尚、魔術師としての腕も確かで、世界でも両手の指には入る腕前であるが、それを知るものは少ない。
出典・ロマノフぺディアより。
「いやー、私にとって大事だったのは魔術の腕の方だったんで、音楽のことはつい最近まで忘れてたんですよね」
「本当にヤになるよ、この朴念仁。どんな曲聴かせても『良いんじゃないですか』しか言わないんだ。例え、か~な~り間違えてたとしてもだよ」
「だって私、素人ですよ。音を飛ばしたって、そういうものなのかと」
親しげにワイワイ話してるのは良いんだけど、いい加減放して欲しい。
なんと私は、ヴィクトルさん───苗字が舌噛みそうだから、そう呼んで良いって言われました───の自己紹介から今の話まで、ずっと抱き着かれっ放しで、更に狐目のお姉さんにも睨まれっ放しなのだ。
「あの、はい、ヴィクトルさんとロマノフ先生が仲良しなのは解りました……。初めまして、私は」
「菊乃井伯爵家の嫡男・鳳蝶君だよね。お話はアリョーシャから聞いてるよ。よろしくね、あーたん」
「あーたん……」
「鳳蝶君だからあーたん。可愛いよね!」
白豚にあーたんとか、どんな視覚と聴覚の暴力ですか。羞恥で軽く腹が切れるわ。
私が微妙な顔をしてるのにロマノフ先生は気づいたみたいだけれど、その顔には「諦めなさい」とでも言うように爽やかな笑顔が張り付いていた。
それは兎も角、狐目のお姉さんがそろそろ限界だ。
眦がつり上がるだけでなく、怒りに頬が上気してきている。
爆発する前に、「あの……」と声を出せば、ヴィクトルさんが狐目の美女に顔を向けた。
「ああ……そう言えば君、僕に歌の指導して欲しかったんだっけ。気が変わった、良いよ」
「はぁっ!?」
「レッスンしてあげるって言ってるの。嫌なら別にいいけど?」
「……っ……!?」
赤い唇が戦慄いて、瞳は燃え上がるように煌々と輝いて。
綺麗な顔のひとが怒ると、元々が綺麗だけに、物凄く迫力がある。
対してヴィクトルさんは、何の興味もないのか、向けられた怒りを軽く受け流していた。
しかし、ギリギリと扇を握りしめていた手から力を抜くと、美女が胸を逸らす。
「その前に、そちらのお客様を紹介してくださいませんこと?」
「あー……アレクセイ・ロマノフ卿とその教え子の菊乃井伯爵家の嫡男・鳳蝶様だよ」
面倒くさそうにロマノフ先生と私を紹介する。
狐目の女性はロマノフ先生の名前を聞いた途端、不機嫌が嘘のように吹き飛んだ。
「まあ!ロマノフ卿とは、あのロマノフ卿でいらっしゃいますの?」
「あの、が、どのを指すのか解りかねますが、アレクセイ・ロマノフと申します」
よそ行きの笑顔を顔に貼り付けた先生に気がつかずに、女性は「まあ!」とか芸能人にあったファンみたいにキャッキャしてる。
私もきちんと名乗った方が良いのかと思ったけれど、女性と視線が合った瞬間興味無さげに逸らされた。
触らぬ神に祟りなし。
ヴィクトルさんを見れば肩を竦めたから、それで良さそうだ。
「ねぇ、君さぁ、レッスンしないの?しないなら帰ってくれないかな」
「……っ!?しますわよ!しますけれど……!」
美人さんが私とロマノフ先生を見る。
まあ、部外者がいたら集中出来ないよね。
私たちはお暇させて頂いた方が良いんじゃないかと、ロマノフ先生の服の裾を引っ張ると、先生もそう思ったのか頷く。
しかし、ヴィクトルさんが首を振った。
「部外者がいたら歌えない程度の腕前で、よく国立劇場に立とうと思うよね」
「なっ、何ですって!?歌えますわよ!わたくしを誰だと思ってますの!?」
誰かは知らないけど、国立劇場に立てるくらいなら、相当な歌手なんだろう。
「あーたん、彼女はね、今度国立劇場に立つ歌手なんだよー!」
「わぁ、凄い!」
「あ、当たり前でしてよ!わたくしはマリア・クロウなのですから!」
ぱちぱちと拍手すると、マリアさんが胸を張る。年のころは二十代そこそこくらいか、全身に覇気が漂っていた。
「なるほど、それは素晴らしい歌い手さんなのですね。丁度良かった。鳳蝶君を帝都に連れてきた甲斐がありましたね」
「……どういうことですの?」
蕩けるような微笑みを浮かべ、マリアさんはロマノフ先生に問うた。しかし、答えたのは眼を胡乱げに細めたヴィクトルさんで。
「アリョーシャはね、さるやんごとないお方から、あーたんの音楽の才を磨くよう仰せつかってるの。そんで昔からの幼馴染みの僕を、最近になってようやく思い出したんだってさ。ちょっとくらい何かしら、あーたんに教えられるんじゃないかって」
「ちょっ!?ロマノフ先生!?ヴィクトルさんは、宮廷音楽家ですよ!?ちょっとくらいって!」
「えー……だって私もどのくらいヴィーチャが凄いか解んなかったんですもん」
このひと、私のこと言えないくらい色々興味のないことにはアンタッチャブルなんじゃ……。
って言うか、私の反応も知ってる人には大概酷い反応なんだね、気を付けよう。
やんごとないお方ってのは、多分姫君か。
マリアさんも気になったのか、小首を傾げる。
「やんごとない、お方?」
「はい、どのような身分の方かは明かせませんが、やんごとないお方ですよ」
「左様ですの……」
「それで、まあ、音楽と言えば帝都に劇場があったし、帝都一の歌い手の歌を聴くのも勉強になるのではと思いましてね。ヴィーチャに伝がないか聞こうと。なければヴィーチャに歌って貰えばいいことですし。何せ彼は私の知るなかでは音楽のことなら一番解るひとですから」
「期待してもらってなんだけど、僕、楽器は得意だけど、歌はそうでもないよ」
そう言うと「こっち来て」と、ヴィクトルさんが奥に案内してくれる。
奥まった部屋の扉を開ければ、カバーがかけられた三本足の大きなテーブルのような物が中央にどんと鎮座していた。形からして、これは!?
「グランドピアノ!?」
「お、あーたんよく知ってるね」
「ん?フリューゲルではないんですか?」
「帝国ではフリューゲル、グランドって呼ぶのは北のルマーニュ王国かな。やんごとないお方にそう教わったんじゃないの。あーたん、お家から出たことないんでしょ?」
「はい、そうです……」
いえ、前世でグランドピアノって呼んでただけです。姫君に教えてもらったとか、嘘です。ごめんなさい。
僅かに眼を逸らしたのを不思議そうな顔で見られたけど、黙っているとヴィクトルさんがカバーを外して、ピアノの前の椅子を引く。
ぽーんと指をおくと、耳に懐かしい響き。
「じゃ、ちょっと歌って見てくれる。曲は……君、何が得意?」
「……劇場で歌うのは『帝国よ、そは永遠の楽土なり』ですわ」
「ふぅん、じゃあ、それで良いや」
ポロロンと鍵盤の上に、ヴィクトルさんの細くて長い白魚のような指が走る。
エルガーの『威風堂々』に似た曲調の音に合わせて、ゆったりと低音から始まり、盛り上がりに向けて早くなる。それに従い、マリアさんの声も細くなったり、太く高くなったり。
しかし、サビとおぼしき場所で、僅かに音程が狂う。少しぶれただけだが、ヴィクトルさんには解ったようで、眉が少しだけ上がった。マリアさんも悔しげに眼を眇る。
一言で言うなら圧巻。
最後の一音が消えた瞬間に、素晴らしい演奏と歌い手に手を打ちならす。
満更でも無さそうなマリアさんとは対照的に、ヴィクトルさんは溜め息を吐いて首を横に振った。
「あーたん、大人を甘やかしちゃダメだ。音がずれたの解ったでしょ?」
「それは……でも……」
「『でも』も『しかし』もないの。まあ、一番いけないのは、ズレたのが解ったのに拍手されたら『これでも良いわ』とか失敗を自分に赦す甘ちゃんだけどね」
うわ、きっつい。
容赦ない指摘に、マリアさんの顔が真っ赤になる。
ワナワナと唇を震わせて今にも爆発しそうな風情だけど、ヴィクトルさんは平然と「なにか?」って顔だし。
そこにロマノフ先生が嘴を挟む。
「まあまあ、ヴィーチャ。貴方は貶しますけど、私にはそのお嬢さんの歌は充分素晴らしく聴こえましたし、鳳蝶君もそう言ってるから、それはそれで良いじゃないですか。君の水準で言っても悪くはないんでしょう?」
「まあ、悪くはないよね。国立劇場で歌うだけのことはあると思うよ。だけどねぇ?」
「では、鳳蝶君の歌を聞いて貰って、アドバイスを求めるのはいけませんか。君は歌は専門ではないのでしょう?」
思いがけない提案に、ヴィクトルさんも私も、怒りに燃えていたマリアさんすらきょとんとする。
しかし、ロマノフ先生は本気なようで、余所行きの綺麗な笑顔でマリアさんに「いかがですか?」なんて、声をかけた。
そのロマノフ先生の笑みに絆されてか、咳払いしてからマリアさんは表情を甘く変える。
「解りましたわ。ロマノフ卿にそんな風に願われて、断れる筈ありませんもの。よろしいですわ、わたくしがご指導いたしましょう」
「ですって。良かったですね、鳳蝶君」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げたけど、マリアさんは私を見ずにロマノフ先生に夢中だ。
肩を竦めたヴィクトルさんがピアノの前に座ったが、「あ」と小さく呟く。
「あーたん、何かこっちで流行ってる曲知ってる?」
「いえ、全然」
「そっか。じゃあ、あの方に教わったお歌で良いよ。伴奏は出来ないから、アカペラでいいかな?」
「はい、普段もアカペラなので大丈夫です」
すっと息を深く吸い込んで、腹式呼吸を心がけ、いつも姫君に言われているように魔素神経を意識する。
曲は何度も姫君の前で歌ったシューベルトの『野ばら』を。
喉をきちんと開けば音程も発声も、驚くほど安定する。
ゆったりと楽しく歌い終えると、パチパチとヴィクトルさんが拍手をくれた。
「素敵な曲だね。野ばらが観たくなる」
「はい、お家で野ばらを観ながら歌ってました」
「あーたんのお家は野ばらが咲くの?素晴らしいね」
うふふとヴィクトルさんと『野ばら』について語り合っていると、かつりと物凄く真剣な顔でマリアさんが近寄ってきた。
「貴方……今の歌い方は……?」
「あー……変でしたか?いつも魔素神経を意識するように言われてて……音程が甘いから、魔素神経を意識することで安定させられるって……」
「それは、貴方のやんごとないお方から?」
「はい、そうです」
マリアさんはぎりっと唇を噛み締めた。
怒らせるほど、私の歌は酷かったんだろうか。
青ざめていると、ぽんとマリアさんの手が肩におかれた。
「……お陰で目が覚めましたわ。二週間後の国立劇場での公演に是非いらして。本当のわたくし、マリア・クロウの歌を聴かせて差し上げてよ」
マジか!?ラッキー!
でも、私の歌が酷かったから、お手本を見せてあげるってことだよね。
ちょっと眉毛を下げると、マリアさんは首を横に振った。
「貴方の歌は聴いたことのない曲でしたが……悪くはありませんでしたわ」
「そう、ですか?」
「ええ、胸を張るといいわ。わたくしは滅多に人を誉めたりしないのよ」
きりっとした凛凛しいお顔に、窓から差した光があたって、とても神聖なものに見える。
それを見ているとヴィクトルさんが、口の端を上げた。
「良い顔になったね、マリア嬢。良いよ、今の君になら喜んでレッスンしてあげる」
「本当ですの!?」
「ああ、明日から本番までみっちりしごいてあげるよ」
何か良く分かんないけど、雨降って地固まったようだ。
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