第10話 菊乃井さんちの家庭の事情
昔、男ありけり。
いや、ぶっちゃけ、そんな昔でもなく、遡ること六~七年前。
とある貴族の邸宅でのパーティーで、とある男と女が出会った。
男は確かに貴族ではあるが貧乏貴族の次男坊で、明日の食事にも事欠くような有様で、女は帝国でも裕福な家柄の出。
本来なら男はパーティーになど出る立場ではなかったが、たまたまパーティーを開いた貴族が直属の上司で眼をかけられていたがために、出席せざるをえなかったのだ。
そんな男に一目で心奪われた裕福な家柄の女は、あの手この手で男に迫るが、男は一向に靡かない。
それもその筈、男には将来を誓いあった相手がいたのだ。
女は激怒した。
伯爵家に生まれついた女は、それまで思い通りにならぬものも、男から拒まれることもなく、全てを恣にしてきたのに。
なのに男はそんな女に見向きもせず、ただただ誓いあった相手を慈しんでいた。
女にはそれは到底許せるものでなく。
男の両親と兄に金をちらつかせると、三人は喜んで男を女に差し出そうとした。
しかしそれならばと男は家を捨て、誓いあった相手の家に身を寄せた。
意のままにならぬ男に可愛さ余って憎さ百倍。女はとうとう、男の大切な相手の家に圧力をかけたのだ。
男の大切な相手の家も、貴族とは名ばかりの家。伯爵家を敵に回して、帝国で生きていける筈もない。
結果、男は大切な相手を守るため、女の家に婿養子に。
男は女を憎んでいたが、翌年男児を儲ける。
帝国の法律では、嫡男を儲けた貴族は決して離婚が出来ないようになっていた。
女は全て自分の良いようになったと思っていた。しかし、嗤ったのは男も同じで。
離縁出来ないことを逆手に、男は妻となった女を省みず、裏切る形になった相手を側室に迎え、別邸へと去っていったのだった。
「…………この話の男が父で、女が母なんですね?」
「左様に御座います」
「つまり、私は二人が離縁出来ない原因の嫡男……」
おうふ、詰んだ。
ロッテンマイヤーさんとロマノフ先生を正面に、応接室で面談なう。
ついつい調子が軽くなるのは、現実から逃げたい一心で、本当にふざけてるわけじゃない。
頭痛が痛い。それが本音だった。
けれど精神衛生に良くないことはこれだけじゃないらしい。
「手紙には、先頃別邸のお方が流行病でお亡くなりに、遺された三歳のお子を此方に伴うので養育の準備をするように……と」
「はぁ!?お子って、え?妹だか弟だかがいるんですか!?」
「……弟様だそうです。お世話係のメイドも一人、此方に移す予定だそうで」
「うぇえ!?なんでまた!?ここ、ド田舎ですけど、伯爵家の本邸ですよ!?」
「その……それは……」
これはあれか、私に廃嫡の可能性が出てきたってことなんだろうか。
ヤバい、手に職着けてて良かった!
でも五歳だ、放り出されて行くとこなんてあるんだろうか。
じっとテーブルを見ていると、ロマノフ先生が逡巡しつつ口を開いた。
「大丈夫です、鳳蝶君が思ってるようなことにはなりませんよ。婿養子が妾に産ませた子供に、養子に入った家の跡を継がせることは国法で禁じられていますし、何より乗っ取りと見なされて社交界から総スカンを食いますから」
ある意味、見栄と誇りを糧に生きているような貴族が、そんな社交界から弾き出されるような真似をするのは、自死に等しいらしい。
じゃあ、その目がないとなるとなんだ。
母親を無くした年端もいかない子供を、住み慣れた思い出の沢山ある屋敷から引き離すとか、正直正気を疑う。
しかも、憎い女の本拠地だ。
『虐待で死んだらどうする!』と、私の中で『俺』が叫ぶ。
「恐らく、狙いは私ですね」
「は?」
少しばかり思考が『俺』に乗っ取られかけていたのを、ロマノフ先生の思いがけない言葉が現実に引き戻す。
顔を上げてロマノフ先生を見ると、そこには苦い笑みが浮かんでいた。
隣のロッテンマイヤーさんも同じような表情で。
「いやー、鳳蝶君は知らないことでしょうけど、私、こう見えて結構有名人なんですよね。個人としても教育者としても」
「えー……そうなんですか?」
「そうなんですよ。鳳蝶君は本当に知ってることと知らないことの落差が激しくて。私、鳳蝶君に会うまでエルフで冒険者の『アレクセイ・ロマノフ』を知らない子供がいるとか、思ってもみませんでした。慢心はいけませんね」
「あー……なんか……ゴメンナサイ」
ぺこりと下げた頭の旋毛をぐりぐりと指で押される。頭をあげると、ロマノフ先生の優しい微笑みがあった。
「最初は君の家庭教師も断ろうと思ったんです。ロッテンマイヤーさんから事情は聞いていましたが、余り興味をそそられなかったものですから。でも実物の君は不思議な子で……、今は君以外の先生になるのはちょっと考え付かないんですが」
「旦那様のお手紙には、そのお子様────レグルス様と仰るのですが─────の、家庭教師にロマノフ先生をお望みだそうです」
先生の気持ちは嬉しいし、ありがたい。でも伯爵家の婿養子とは言え当主の望みを、雇われている側の人が退けられる筈がない。
私は弟と一緒に机を並べて勉強しているのを想像してみる。気不味い。絶対に気不味い。しかし、私は知らなかったとは言え『お兄ちゃん』なのだ。
『お兄ちゃん』は『弟』の面倒を見るものだと、『俺』が心の隅っこで訴える。
と言うか、『弟』の話が出てからこちら、私には今起こっていることが、どうにも他人事のように思えてならない。
いや、違う。『俺』の感覚に侵食されている気がするのだ。
これは何か、良くないような。
くらくらと目が回るような感じがする。少しでも遠ざかる感覚を引き戻すべく、もう1つ気になることをロッテンマイヤーさんに尋ねた。
「あの……父が私を嫌うのは何となく解りました。じゃあ、母は?母は私をどう思ってるんですか?」
「奥様は……やはり、旦那様と似たり寄ったりで……」
「離縁出来ない原因だから、ですか?」
「それもありますが……、妊娠中にその時のメイド長がお止めしたのですが、旅行に行こうとなさって。それが元で早産の危機に陥られ、一時は母子ともにお命が危うく……」
「……死にかけたのは私のせいだと思っている、と」
「…………左様に御座います」
ああ、やっぱりどう考えても詰んでる。
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