第9話 きらびやかな花園について
父と母が帰ってくるのが明日に迫った日の朝。
私は日課の散歩に出ていた。
ロッテンマイヤーさんからはお話もなく、普段通りに私の時間は過ぎていく。
そりゃそうだ。
両親が帰ってくるので忙しくなるのは屋敷にお勤めの皆さんであって、私ではない。
部屋やら寝具に食事の準備、更には両親の護衛として着いてくる人たちのお宿に食事。一切の準備がロッテンマイヤーさんたちにかかってくるのだから。
大人で何だかんだ変わりがないのはロマノフ先生くらいで、相変わらず飄々とロッテンマイヤーさんのお手伝いを買って出たりしてくれていた。
私は今日も今日とて百華公主とお歌の練習。
ここ二~三日で増えた、狸や狐、兎や小鳥のギャラリーに囲まれて、本日のお歌はクラシックから。
「えーっと、今日は好いたの腫れたのが良いとのことですので、『ハバネラ』を歌います」
「ふむ、よし。聞いてやるゆえ、はよ」
すぅっと深く息を吸い込んで、腹筋に力をいれる。いつも言われているように魔素神経を意識しながら。
『ハバネラ』とはビゼー作のオペラ・カルメンでヒロインがドン・ホセを誘うために歌うラブソングで、本来は成熟した女性の歌う歌だった筈。
私のまだ未成熟な男女どちらともつかない声で歌えば、色気もへったくれもないのだが、好いた腫れたで『俺』が好んでいた曲がこれだった。
好きだから異国の言語であっても、生まれ変わっても、心にこびりついて離れないほどに覚えていたらしい。
ふっと息を切って歌い終えると、腕を胸に当ててお辞儀する。
と、公主がずいっと近づいてきた。
「『オペラ』とはなんじゃ?」
「『オペラ』ですか?」
「うむ。それにこの間、そなたの家庭教師とやらのお陰で聞きそびれた『菫の園の歌劇』だの『みゅーじかる』だのと、一体どう言うものなのじゃ。説明致せ!」
「あ、は、はい!」
と言っても私も厳密には分からないんだけど。
とりあえず、『俺』の記憶をほじくりおこす。
「『オペラ』と言うのはお芝居に、華やかな楽団の音楽と歌手の歌や躍りを取り入れたもので、『ミュージカル』と言うのは、それをもうちょっと庶民的にしたような?」
「ふむ、芝居に歌と躍りがついてくる……とな」
「それで『菫の園の歌劇』と言うのは、『歌劇』はミュージカルのことなんですが、『菫の園』と言うのが演者が女性だけの劇団のことをさしていまして。男性の役も勿論女性が演じる、華やかで独特で美しい劇団なんです」
彼処に関しては言葉が追い付かないんだよねー。
私も記憶の中にしかないから、上手く伝えられないんだけど、華やかで美しく、それでいて艶やかなダンディズム漂う男役さんたちと、しなやかで気品漂う優雅で清楚、それでいて芯の強さを感じる娘役さんたちの織り成す舞台は、姿かたちの麗しさだけでなく、美声で高らかに歌い上げる素晴らしい曲や、緻密で精巧な衣装や舞台装置・小物類までもが芸術的なのだ。
うーむ、私の頭の中にある記憶をお見せしたいね!
「なるほど、では見せて貰おうかの」
「はへ?」
言うやいなや、私の顔の真正面に姫君がいきなり屈んで。しかも、おでこをコツンとあわせたりなんかしてくるから!
牡丹色のけぶるような髪が更々と揺れ、小さな唇は艶やかな桃色。頬は薔薇のように紅く、睫毛は瞬きする度に音がしそうなくらい長い。
姫君が動く度にさやかな衣擦れとともに、香り高い花の匂いがふわふわと私を包んで、それはもう心地良い。
あーああーあー!困ります、姫君様ー!お顔が近すぎておめめがチカチカしますー!あーああーあー!姫君様困りますー!!
あまりの姫君様の美しさに眼を回していると、パシリと団扇で頭を叩かれた。
「やかましい!そなたの記憶を今覗いておるのじゃ、集中せい!」
「ひゃい!」
と言う訳なので、姫君のお顔を見ないように眼を瞑ると、一生懸命前の記憶を掘り出す。
キラキラ煌めく華やかな舞台で演じられるのは、男装の麗人の愛と青春と祖国の革命と。
見守る幼なじみの男が彼女に抱く恋心の切なさや、彼女が仕える幼い王妃の道ならぬ恋と哀しみ。そのどれもが美しい歌声と台詞で彩られ、感動の嵐を巻き起こす。
「なんと……異世界にはこのようなきらびやかな世界があるのか……!?」
「ふぁい!わらしも、よく、しりましぇんが!」
つか、姫君のお顔も同じくらいきらびやかで、白豚はおめめが痛いです。
ふらふらと眼を回して姫君から離れると、とさりと尻餅を着く。お尻の痛さで正気に戻ると、ころころと姫君が笑った。
「そなたは存外良い拾い物であるなぁ。これから時折、そなたの記憶を見せよ。これは褒美じゃ」
受けとれと放り投げられたのは、私の顔くらいの大きさの桃で、それだけでお腹が一杯になりそうなほど甘い香りを漂わせていた。
「ありがとうございます、凄く美味しそう……!」
「うむ、味は妾が保証してやろう」
そう仰ると、姫君は満足そうに姿を薄れさせて、風にふわりと溶けてしまわれた。
今日はもう満足したと言うことだろう。
貰った桃を腰に着けていた、ロマノフ先生に魔改造して貰ったウェストポーチにいれると、私も屋敷に向かって歩きだす。
ギャラリーの動物たちも、のそのそと植え込みに姿を消していく。彼らは本当に歌を聞きに来ているみたいで、庭を荒らして帰ったりしない。
屋敷までの道のりを走ったり歩いたりはもう、誰の目にも当たり前の光景になったのか、屋敷で働く人たちは見かけると挨拶はするけれど、驚いたりすることはなくなっていた。
白塗りの重たい扉を開ける。
屋敷は二階建てで玄関を開けると直ぐにホールと二階へ続く階段があった。私の部屋は二階だから、階段をあがろうとすると、呼び止められた。
「若様、お話がございます」
苦り切った顔のロマノフ先生と、やっぱり眉を八の字に下げたロッテンマイヤーさんだった。
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