並行世界後輩

針手 凡一

並行世界後輩

 面識のない後輩と六畳一間で暮らしていた。

 本来存在しない後輩、と言い換えてもいい。比喩や謎かけではなく、そのままの意味で。

 僕は彼女の先輩になった覚えはないし、また後輩にとって僕は先輩であって先輩ではなかった。

 彼女はこことは違う並行世界からやってきた。

 隣り合う無数の可能性のうちのひとつ。膨大な選択肢から派生した『もしも』の時空、ある意味宇宙よりも遠い彼方から、後輩は身一つで僕の目の前に現れた。

 その世界で僕たちは同じ高校に通っていて、天文部の一員として共に長い時間を過ごしていたそうだ。


「こちらの先輩はどうしてそんな風になってしまったんですか?」


 ことあるごとに、後輩は言った。

 責めるように、呆れるように。心底信じられないと驚くように。


「私の世界の先輩は凄いんですよ。かっこよくて、目がキラキラしてて、頭が切れるのにどこか子供っぽくて。宇宙望遠鏡の研究がしたいんだー、なんて熱く語りながら、毎日毎日必死に勉強してるんです」


 どうやら向こうの僕とこちらの僕とでは、同じ人物でもその器量に天と地ほどの差があるらしかった。


「大学を辞めて就職もせず、夢も希望も目標もない。だらだらとコンビニのバイトで食いつなぐフリーターの先輩とは大違いです。一体どこで道を間違えたんでしょうか」

「さあ。そもそも君は別の世界の、少し過去から来たんだろ? 向こうの僕がこうならないとは断言できないんじゃないか」

「できますよ。たとえ何があったって、私の先輩があなたみたいになるはずありません」

「大した自信だ」

「……ええ。私が好きになった人ですから」


 寂しそうに笑う後輩の瞳は、目の前の僕よりもずっと遠いところを向いていた。





 今日において、並行世界の人間がこちらへ現れるのは珍しいことではない。

 全世界で一年間に五、六人。未報告・未実証の件数も合わせればもっと多く。それくらいの人数が、世界の壁を破ってこちら側に流れ着く。

 漂着者と呼ばれた彼らは世間からセンセーショナルな扱いを受け、数多の研究機関から国賓のような待遇で囲われた。まるで重要文化財や天然記念物のように手厚く、そして厳重に。

 逆にこちらから別の並行世界へ消える人間もいると言われているが、その真偽は定かではない。出現の証明よりも、消失の断定の方が難しい。手がかりのない行方不明事件なんて、それこそ両手の指じゃ追いつかない程に溢れ返っている。

 十二年ほど前、最初の漂着者の存在がオーストリアの北部で確認された時は大騒ぎになった。

 曰く、エヴェレットの多世界解釈が証明されただとか、量子デコヒーレンスの研究が二段飛ばしで進むだとか、物理学の常識がいっぺんに塗り替わるだとか。

 波動関数の収束がお茶の間のワイドニュースで取り上げられるなんて、後にも先にもあの時くらいのものだっただろう。

 とはいえ、当時の僕にはそれがどれだけ衝撃的なことだったのか分からなかったし、ついこの間まで自分には関わりのない出来事だとずっと思っていた。

 別の世界の後輩とやらが漂着者としてやってきて、しかもそれを匿うことになるとは、微塵も想像していなかった。





 後輩が世界の壁を蹴破り、僕の部屋の押し入れから出現したのは、七月二十日の早朝のことだった。


 その朝、僕は深夜帯のバイトを終えて家路につき、木造二階建てアパートの一室へと帰り着いた。乱雑に靴を脱ぎ捨てて自室に踏み込むと、真っ先にクーラーの電源を入れた。風通しの悪い部屋はひどく蒸す。熱帯夜に放置されていた六畳間は不快極まりない室温を保っており、先ほどまでずっとコンビニの店内にいた身としては耐え難かった。

 夕食も食べずに働いていたので胃の中身は空っぽで、しかも不規則な生活習慣のせいかやたらと眠かった。空腹と睡魔、僕はどちらを優先するかしばし悩んだが、冷蔵庫の中に缶ビールと消費期限切れの卵しかないことを思い出して、とっとと寝ることにした。買い物は論外だった。一度帰宅してしまうと、部屋から出るのが億劫で仕方がない。

 僕は座椅子から腰を上げ、布団を取り出そうと押し入れの襖に手をかけた。


 彼女が現れたのはその時である。


 ばったーん、と。僕が手をかけていた襖を内側からぶち倒して、押し入れの中から見知らぬ少女が転がり出てきたのだ。

 咄嗟に身を躱すと、少女は「ぐえっ」という声を漏らしながら畳の上にうつ伏せに倒れ込み、ぐったりと動かなくなった。

 その姿は砂浜に打ち上げられたクジラの死骸を連想させた。

 今にして思えば、あれはまさしく漂着と呼ぶにふさわしい光景だったように思う。

 とはいえ、あまりにも驚いたせいだろう。その時の僕は手を差し伸べることさえできず、しばし目の前の闖入者を呆然と眺めていた。

 彼女が女子高生であることは一目瞭然だった。何せ、制服だ。胸元の赤いリボンが特徴的な、白いブラウス。紺のスカートは膝上だが短すぎるというわけでもなく、黒いハイソックスの先には脱げた革靴が転がっている。

 僕はその制服を知っていた。毎年、難関国立大学の合格者を何人も輩出している、地元で有名な進学校の代物。

 中学生の頃、僕はその高校を受験し、そして落ちた。いまや汚点まみれとなった人生の中でも、一際胸を抉る苦い記憶だ。


「…………先、輩?」


 数分後、幸いにも無事に起き上がった少女は、一畳を挟んで静観していた僕の顔を見て、困ったような顔つきでそう言った。

 とても聡明そうな子だった。黒髪のセミロングで、肌は白く、大した化粧もしていないのに垢抜けて見える。まつ毛は長く、綺麗な二重で、瞳は静かに澄んでいた。これだけ顔が整っていれば、さぞかし周りの女子たちから羨まれるだろうに、自身ではそのことに気づいていないような、そんな印象。

 おそらく、一度会ったら忘れないだろう。だからこそ、間違いなく初対面だった。


「先輩、ですか?」


 けれど、少女は繰り返すようにそう言った。まるで一方的に僕のことを知っているかのように、それでもどこか得心いかないという表情で。

 もちろん、僕は彼女の先輩だった覚えはない。だからゆっくりと首を横に振った。


「違う」

「え…………? いや、でも……」


 僕の反応に納得がいかなかったのか、少女は眉間にしわを寄せて首を捻った。

 困惑しているのはこちらも同様だったので、僕も同じ方向に首を捻った。




 彼女が別の世界の僕の後輩であり、漂着者であることを理解するのに、大した時間はかからなかった。

 何しろ状況が状況だ。

 部屋の鍵も窓の鍵も、確実に掛かっていた。室内は僕が家を出た時の状態そのままだったし、誰かが足を踏み入れた形跡はまるでなかった。後輩がピッキングか何かで鍵を開け、こっそりとうちに侵入して押し入れに忍び込んだ、という説も考えられたが、そうする意味も理由もない。そもそも出現した時、後輩は汗一つかいていなかった。蒸し暑い室内の、狭い押し入れの中に潜んでいたというのなら、そんなことはあり得ない。

 後輩自身、僕の部屋に侵入した記憶はないと断言した。

 日付としては五年前の九月一日。

 夏休み明け、始業式に出るべく学校に向かっていた彼女は、駅のホームで突然意識を失い、気づいたら僕の部屋の中で倒れていたらしい。

 話を聞く限り、嘘を言っているようには思えなかった。

 決め手となったのは、後輩が唯一持っていた携帯電話である。

 その中には後輩と『別の世界の僕』が一緒に映った写真が、何枚も何枚も保存されていた。生活の違いからか、多少顔色は違うようだったけれど、それでも自分の顔を見間違えるはずがないし、捏造にしては手が込み過ぎていた。

 別の世界で別の人生を歩んでいて、まだ高校生の僕がそこにはいた。とても楽しそうな笑みとともに。

 思わず吐き気が込み上げそうになったが、悟られないように抑え、単なる情報として見ることに努めた。

 証拠はそれだけで十分だった。少なくとも、僕にとっては。後輩の個人情報を確認し、この世界にいるであろう彼女の同一人物を見つけることもできただろうが、そうする前に僕は信じた。

 並行世界から誰かがやってくる、という現象は向こうの世界でも起こっているようで、後輩もすんなりと自分の現状を受け止めた。多少の困惑はあったようだが、悲壮感はまるでなかった。家族に会いたいとも、元の世界に帰りたいとも言わなかった。彼女の表情には、どこか深い諦念だけが見受けられた。


「ここに置いてくれませんか。お金はありませんが、家事ならします。何なら身体で払います。私なんかの身体に興味があれば、の話ですけど」


 自嘲気味に笑いながら、後輩は言った。

 誰も知り合いがいない世界で世間に騒がれ、研究機関の厄介になるのは嫌なのだという。どうも後輩の世界では、漂着者の扱いについてあまり良い噂が流れていないらしい。

 正直なところ、大人しくどこかへ引き渡した方がいいのは分かっていた。下手に匿うと、後で面倒な目に遭うかもしれない。嫌いなものはほとんどないが、面倒事は例外だ。

 それでも結局、僕はこう答えた。


「……年上好きだから子供に興味はないんだ。身体は要らない。家事だって別にいい。狭いけど勝手に住めばいい。金にはそんなに困ってないから、食費も出す。好きにすればいい」


 本心から出た言葉だった。後輩を不憫に思ったわけでも、同情したわけでもなく、ただ可能だからそうしても構わない、というだけのこと。僕にとって、それは部屋が少し狭くなるだけの話に過ぎなかった。

 後輩は目を見開いて「……ありがとうございます」と丁寧に頭を下げた後、


「年上好きなのは一緒なんですね」


と小さく呟いた。


「……向こうの僕もそうなのか?」

「はい。あちらの先輩は、ひとつ年上の美人な先輩と付き合っていましたよ。それはもう、仲睦まじいご様子でした」

「へえ。羨ましい限りだな」

「……こちらの先輩には、恋人さんはいらっしゃらないのですか?」

「いたら女子高生を部屋に住まわせようなんて思わないだろう」

「……それもそうですね」


 特に興味もなさそうに頷いた後輩を見て、この少女は思ったより変な子なのかもしれない、と僕は思った。





「……帰った。何か食べるものはある?」

「冷蔵庫にコンビニ弁当がひとつ。幕の内です」

「悪くないな」

「そうでしょうとも」

「やはり君は台所を使わない方がいい」

「すみませんね、料理下手で」

「責めてるつもりはない。手料理なんて端から求めていない」

「はあ。食にこだわりがなさすぎるのもどうかと思いますが……」


 後輩との生活は淡々と過ぎていった。

 最初の数日こそほとんど会話も交わさなかったが、そんな遠慮は必要ない相手だとお互いすぐに理解して、それからはずっと自然体で暮らした。本来存在しえない関係性である分、気楽ですらあった。

 僕の生活自体も、後輩が現れる以前と大して変化しなかった。相変わらず不規則なバイトのシフトに合わせて週五の頻度で出勤していたし、元々金はあまり使わない方なので、生活費が増えても家計が圧迫されることはなかった。

 未成年の女の子を家に住まわせている、というのはそれなりにリスキーな行いではあったが、僕には部屋を訪ねてくる友人なんて一人もいないし、実家だって離れている。隣も空き部屋だ。発覚の可能性は低く、考えるだけ杞憂だった。


 後輩はいつも制服かスウェットを着て、基本的にずっと部屋にいた。買い物のために部屋を出ることはあっても、それは必ず日が落ちてからのことだったし、彼女の白い肌がほんの少しでも焼けることはなかった。

 端的に言うとひきこもりである。暑い夏の一日中、後輩は狭い六畳一間で過ごし、その間大したことは何一つしなかった。

 しなくてもいいと言った掃除と洗濯をこなしてくれた他は、部屋に置いてある本や家庭用のゲーム、インターネットなどで時間を潰し、無為な毎日を送っているようだった。とある日は長編小説のシリーズを読破しようとするも途中で投げ捨て、また別の日には死にゲーとも称されるアクションゲームに苦戦して歯噛みしていた。

 見かけによらず料理はド下手だったので、禁じた。

 僕たちは机を挟んでカップラーメンやコンビニ弁当を食べた。それはこれまで通りのことだったし、不平不満はどこにもなかった。


「なあ、後輩。他に何かすることはないのか?」


 ふと疑問に思って尋ねると、彼女は不貞腐れたように顔をしかめた。


「……何ですか。自分のことを棚に上げて、もっと有意義なことに励めって言うんですか。参考書を買ってきて勉強して、毎日ランニングでもすれば満足ですか」

「いや、そういうつもりはないが」

「……いいんですよ、私はこれで。なんだかもう、どうでも良くなっちゃったんです」


 そんな後輩の唯一のこだわりは、寝る場所くらいのものだった。

 彼女は狭い押し入れの中で寝ることを好んだ。真夏の夜、そんな密閉された空間では寝苦しいだろうに、それでも頑として譲らなかった。新たに買ってきた敷布団と薄手のタオルケット、小型の扇風機だけを持ち込んで、後輩は襖を挟んだ向こう側で就寝した。

 最初は僕の隣で眠りたくないだけなのだろうと思ったが、理由はそのうち判明した。

 夜、後輩は声を抑えてすすり泣いていた。

 僕は聞こえなかったふりをして、それについて一度も言及しなかった。





「先輩は今時珍しいくらいの人格者なんですよ。私、根暗だから友達がいなかったんですけど、屋上で一人寂しくお弁当を食べている時に、先輩が声をかけてくれたんです。しかも『天文部に入らないか?』なんて誘ってくれて。あんな屈託のない笑顔を向けられたの、生まれて初めてでした」


 後輩は口数の多い方ではなかったが、こと『向こうの世界の僕』の話になると、途端に饒舌になった。


「別に星にも宇宙にも興味なんてなかったんですが、先輩が熱っぽく語っているのを聞いていたら、私も段々好きになってきちゃって。月に数回、一緒に天体観測に行くのが一番の楽しみでした。まあ行ったら行ったで先輩は私よりも星の方に夢中になってしまうんですけどね。困った人です」

「へえ、そうか。偏屈な奴だったんじゃないか?」

「そんなことないです。勉強だけでなく運動もできましたし、人付き合いも良かったんですから。クラスの人気者だったんですよ、先輩は。こっちの先輩とは大違いです」

「確かに大違いだ。高校生の頃の僕は、家に帰ってゲームをすることしか考えていなかったからな。まったくもって信じられない」

「同感です」


 正直、もう一人の『上手く生きている自分』の話を聞くのは不快だった。

 どれだけ充実した毎日を送っているとしても、それが他人の話ならば受け流せる。その人が凄かっただけで、僕はどうやったってこうなるしかなかったんだと言い訳ができるからだ。

 ただ、自分自身の話となるとそうはいかない。ほんの少しの選択肢を間違えていなければ、もっと頑張っていれば――そんなもしもの世界が存在することを突き付けられ、その度に胸が締め付けられるように痛む。まるで精神的な拷問だ。

 それでも、その話をしている時の後輩があまりにも楽しそうだったから、僕は平然とした表情を維持して相槌を打った。作り笑いは得意だった。


 それにしても、こちらの僕と向こうの僕では一体何が違ったのだろう。致命的な差があったようには思えない。一番大きな差異としては高校受験の成否が挙げられるが、それだけでこうも変わるものだろうか。進路どころか、性格すらまるで違うように思える。


 星が好きなのは、この僕も同じだ。いや、好きだった、と言う方が正しいか。

 星に興味を持ったきっかけは祖父だった。

 昔から両親が共働きだったので、僕は近所に住んでいる祖父の下へ頻繁に預けられた。祖母は僕が生まれるずっと前に亡くなっていた。

 祖父は厳格な人だった。漫画やゲームを軟弱なものだと忌避し、その類の娯楽用品を決して僕に買い与えてはくれなかった。現代っ子としては、あまり嬉しくない環境だったかもしれない。

 とはいえ学習に役立つと判断したものに対しては気前が良く、ある日祖父は高価な天体望遠鏡をぽんとプレゼントしてくれた。小学三年生の孫に贈るにしては、あまりにもオーバーな代物を。

 僕はその天体望遠鏡をとても喜んで受け取り、使いこなそうと毎晩のように空を見上げた。そして祖父はそんな僕の隣で、嬉しそうに星や宇宙について語った。

 夏のさそり座、冬のオリオン座。太陽系の惑星たちとその特性。流星群の出現する仕組み。赤色巨星と白色矮星の違い。磁気嵐とオゾン層。アポロ計画の達成した偉業。果てしない宇宙の旅を続けているボイジャー探査機について。

 祖父の話は難しかったが、幼い僕は概ね喜んで聞き入った。将来は天文学者になると息巻き、毎日星と星座の図鑑を読みふけった。

 しかしそんな熱意が続いたのも中学校に上がる前までだった。十一歳の頃、祖父が肺ガンで亡くなり、それ以来僕は段々と星への興味を失っていった。

 向こうの僕も同じように祖父を亡くしたらしいが、それでも星に憧憬の念を抱き続けているという。

 そんなに強い自分が存在しえたなんて、僕にはとても信じられない。





「きっと先輩は優しいというより、どうでもいいんですね」


 いつの日だったか、後輩は僕にそう言った。この場合の『先輩』は、言うまでもなくこちらの僕のことである。

 休日。二人でスーパーマーケットに行き、高価なカップアイスを幾つか選んで買ってきて、真っ昼間に食べている時のことだった。


「どういう意味?」


 カップの縁とバニラアイスの隙間にスプーンを突き立てながら、僕は聞き返した。


「そのままの意味です。先輩が何かを肯定するのは、優しいからじゃなくて面倒だからなんです。どうでもいいから『それでいい』と即断するんです」

「……そうかな?」

「ええ。さっきだってそうだったじゃないですか。私が冗談で一番高いアイスを指差したら、特に考えもなくカゴに入れたりして。値段すら見ていませんでしたよ」

「……別のが良かったか?」

「そういうことじゃありません。これはとても美味しいので食べます」


 真顔のまま、後輩はぱくぱくとスプーンを口に運んだ。

 その時、僕の頭の中では、二年ほど前に付き合っていた女性の言葉がリフレインしていた。


『――くんは、優しいんじゃないよね。どうでもいいだけだよね』


 半年ほど交際して、すぐに自然消滅した年上の恋人。別れる少し前、彼女は苛立った表情を隠そうともせずに、語気を強めて言った。

 気のない返事。適当な同調。高価だが、熟考することなく選ばれたプレゼント。

 受け入れているのではなく、受け流しているだけなのだと、彼女は僕のことをそう看破した。

 まさしくその通りだと僕は思ったし、それは今でも変わっていない。

 多分、僕はどうでもいい。何かに熱を持つことができない。


「あなたみたいな人を好きになっていたほうが、きっとまだ楽だったんでしょうね。もちろん、有り得ない仮定ですが」


 アイスを食べ終えて一息ついた後。畳の上にだらりと寝そべって、後輩は呟いた。


「……先輩は、本当に優しかったんです。優し過ぎるくらいに優しかった」

「優し過ぎると何か問題があるのか?」

「ええ、それはもう。こっちの世界に来る前の七月……私は、夏休み前に先輩に告白したんですよ」

「向こうの僕には年上の彼女がいるんじゃなかったっけ?」

「そうです。います。私が入学する前から付き合っていて、美人で、先輩にお似合いなくらい素敵な人が。それでも、我慢できなかったんです。七月の夜、一緒に星を見ている時に、私は口を滑らせました」

「そうか」

「結果は……まあ、言うまでもありませんね」

「ああ。多分、フラれたんだろう? どうしてそれが優しいになるんだ」


 後輩に背を向けて、扇風機の正面にあぐらを掻いて座りながら、僕は彼女の話を聞いていた。カップ一つ分のアイスを食べて身体が冷えた後だったから、クーラーの電源は切っていた。

 少しの沈黙の後、後輩は言った。


「――『ごめん』って断りながら、先輩は泣いたんですよ。本当に悲しいのはこっちのはずなのに、私の気持ちを慮って顔をぐしゃぐしゃにしたんです。信じられないでしょう?」


 僕は目を見開いた。

 聖人か何かか、そいつは。本当に同一人物なのかと疑いたくなってくる。


「泣くくらいなら後輩とも付き合ってやればよかったのに」

「……そんな事を言えてしまうから、あなたと私の先輩は別人なんですよ。先輩はそれくらい優しかったから――私は気を遣わせたくなくて、夏休み中、一度も部に顔を出せませんでした。何もかも、終わったんです」


 それはつまり、失恋した夜以来、後輩が向こうの僕と会っていないことを意味していた。夏休み明け初日に、彼女は世界の壁を飛び越えたのだから。


「……もう一度、会いたくないのか? たかが一回フラれた程度だろ。まだチャンスが消えたわけじゃない」


 僕はそう言ったが、後輩は悟ったような表情で首を横に振った。


「いいんです。あのまま向こうにいたとしても、先輩が私に振り向いてくれることは有り得ません。私には分かります。どうしようもなく、理解できてしまうんです」


 僕はそれに返すべき言葉を見つけられず、会話は自然と途切れた。

 その日はそれ以降、眠るまで一言も喋らなかった。





 こちらの世界にいるもう一人の後輩のことを探し始めたのは、八月の中旬――後輩との生活を始めて三週間以上が経過した時のことだった。

 理由は――何故だろう。自分でもよく分からない。

 後輩は二つの世界の僕の事を知っているのに、僕は一方の後輩の事しか知らない。そのことに不公平さを感じたのか、あるいは単なる好奇心か。

 漂着者であることを疑ってはいなかったけれど、後になって確実な証拠が欲しくなったのかもしれない。

 何にせよ、僕は後輩に悟られぬよう、密かに行動を開始した。


 当初、捜索は難航するかのように思えた。

 何しろ、僕は後輩の名前すら知らなかった。出現した時から一度も、後輩は自分の名字すら口にしなかったし、僕もあえて聞きはしなかった。今にして思えば、わざと伏せていたのだろう。おそらく、僕がこちらの世界の後輩のことを簡単に見つけられないように。

 実際、顔だけでこちらの世界の彼女を見つけ出すことは厳しそうだった。

 ただでさえ、僕には友達がいない。当然、後輩が通っている高校の関係者に知り合いの一人も存在しない。そもそも、こちらの後輩がその高校に通っていたかどうかも定かではなかった。僕と同じように、受験に失敗した可能性すらある。

 その上、後輩は並行世界の五年前の時間軸からやってきたのだ。おそらく、こちらの世界では二十二歳かそこらになっているだろう。高校だって当然卒業している。不審者よろしく校門の前に張り込んで、一人一人顔を確認するなんて手段も使えない。


 しかし、後輩の名前を知る簡単な方法が一つだけあった。

 それはおよそ個人のプライバシーを侵害した行為だったが、僕は僅かな葛藤の後に実行した。

 後輩の携帯電話を盗み見たのだ。

 僕は彼女が眠っている間にこっそりと押し入れの襖を開き、慎重に携帯を抜き取って、そこに保存されている彼女のプロフィールを閲覧した。

 画面のロックは掛けられていたが、ものの数分で解除することができた。

 四桁の暗証番号は僕の――つまり『向こうの僕』の誕生日に設定されていた。

 まったく、笑えもしない。

 僕は罪悪感に蓋をしつつ、後輩の名前を知った。

 平仮名で七文字。漢字なら四文字。それはありふれた名前で、どこかしっくりこなかった。試しにその名前で後輩を呼んでみるところを想像してみたけれど、うまくいかずに霧散した。僕にとって後輩の呼び名は『後輩』だけだった。本当の後輩でもないというのに。

 携帯電話の中身までは警戒していなかったのか、電話帳のプロフィールには名前と一緒に住所まで記載されていた。頭が切れそうに見えて、存外間抜けな奴だった。

 正直探偵か何かを雇う覚悟すらしていたのだが、その必要はなくなった。





「それじゃあ、行ってくる」

「ふぁ~い……」


 八月三十一日。早朝からのバイトだと嘘をついて、僕は午前五時前に家を出た。設定していたアラームのせいで少し目が覚めてしまったのか、押し入れの中からはあくび交じりの返事が返ってきた。

 いつも勤務しているコンビニの前を素通りし、始発の電車に乗り込んだ。

 何度も路線を乗り換え、車窓の外を眺めながら三時間ほど揺られた後、二つ隣の県のとある駅で降車した。

 後輩の家は、僕の実家からそう遠くない距離にあった。大体八キロくらい離れているだけだろうか。向こうの世界では同じ高校に通っていたのだから、当然と言えば当然だ。

 午前八時半過ぎ、僕は小さな丘の上の公園で足を止めた。眼下にはごく普通の住宅が並んでいて、双眼鏡を使うことで後輩の家の玄関先を視認することができた。

 こちらの世界の後輩を探すためにこの近辺にやってきたのはもう三度目で、住宅街の真っ只中で張り込むことの不審さと難しさを僕は理解していた。ほとんどストーカー同然の行為だったが、微塵も気にしなかった。

 後輩の家はとても綺麗な二階建ての一軒家だった。壁は美しい白塗りで、家の前には五人乗りの新車が止まっていた。多分、それなりに裕福なのだろう。いつも部屋でだらけてはいるが、後輩にはどこか育ちの良さを感じさせるところがあった。

 僕は公園の柵にもたれかかり、その家からこちらの世界の後輩が出てくるのを待った。

 これまでの二度の張り込みでは、目的の人物を確認することはできなかった。目にしたのは、父親らしき男性と、母親らしき女性が外出するところだけだ。

 ひょっとしたら、こちらの後輩はもうこの家には住んでいないのかもしれない。

 二十二歳といえば、大学生か、専門学生か、既に働いているか、大体その内のどれかだろう。とっくに家を出て一人暮らしをしているという可能性は十分に考えられる。

 ただ、その時はその時だ。また別の手段を取ればいい。


 結果から言うと、その日の張り込みは完璧に成功した。

 午前十時頃、その家の玄関から一人の若い女性が出てきた。紺のサマーニットに白いロングスカート。髪は黒ではなくダークブラウンに染めてあったし、五年分の差異があちこちにあったが、僕がその顔を見間違えるはずがなかった。

 こちらの世界の後輩がそこにいた。

 僕はあくびを噛み殺して公園から駆け出した。坂を駆け下り、彼女の進行方向を予測して住宅街を慎重に進んだ。八月三十一日の住宅街はそれなりに静かだった。

 運良く、僕は悟られずにこちらの世界の後輩に追いつくことができた。背後から近づき、声をかけようか迷ったが、当初の予定通り尾行することにした。

 こちらの後輩は一体どんな人間なのか。それに興味があった。大体、話しかけたところでどうすればいいのか分からない。


 彼女は僕が数時間前に降りた最寄り駅まで歩き、そこで上りの快速特急に乗った。

 僕はできるだけ彼女の方を見ないようにしながら、同じ車両に離れて乗り込んだ。

 見る限り、こちらの世界の後輩は上機嫌のようだった。平日のこの時間に出掛けられるということは、学生なのだろうか。外見からは判断がつかなかった。

 二十分ほど経った後、彼女はビル街の真ん中にある大きな駅で下車し、冷房の効いた地下街へと歩を進めた。


「ごめんなさい、待ちましたか?」


 広い通路の柱の前に立っていた若い男性を見つけて、こちらの世界の後輩は嬉しそうに話しかけた。同い年か、少し上だろう。清潔感のある、見るからに人のよさそうな男だった。

 男は「いや、全然待ってないよ。それじゃ、行こうか」と笑い、こちらの世界の後輩と手を繋いで歩き始めた。二人が恋人関係にあることは明らかだった。

 僕は決して悟られぬよう、十分な距離を取って二人の後をつけた。

 それはごくごく普通のデートだった。

 二人は幾つかのファッションブランド店を見て回り、洒落たレストランで昼食をとった後、炎天下の街中を通り抜けて大型のショッピングモールに入った。何か音楽でもやっているのか、二人して楽器屋で楽譜を見ている時間が一番長かった。

 傍目から見ても、彼女たちは幸せそうなカップルだった。狭い六畳間で暮らしている方の後輩が持つ憂いや卑屈さを、僕はこちらの世界の後輩に見出すことができなかった。彼女の笑顔には一切の影がなく、それは人として正しいもののように感じられた。

 陽が落ちた後、二人はなにやら言葉少なになって、人通りの少ない方向へと歩き出した。

 途中で察していたが、予想通り、彼女たちが向かったのはホテル街だった。

 僕はさすがにそれ以上追う気になれず、足を止めて二人の影を見送った。

 もう十分だった。

 こちらの世界の後輩を探そう、なんて考えたことを今更ながらに後悔した。

 達成感はなかった。好奇心はどこかへ失せた。それなりの手間と引き換えに得られたものは、何とも形容しがたい倦怠感だけだった。

 僕は何が見たかったのだろう。もっと不幸に生きているこちらの後輩を見て、僕の部屋にいる後輩を励まそうとでも無意識に考えていたのだろうか。

 溜息を吐いて、僕はその街に背を向けた。





「趣味の悪い真似をしてくれましたね、先輩」


 唐突に背後から声を掛けられたのは、駅のホームで帰りの電車に乗り込もうとしていた時のことだった。

 驚いて振り向くと、そこには見慣れない恰好の後輩が立っていた。

 よく分からない模様が入っているだぼだぼの半袖シャツに、安物のスキニージーンズ。セミロングの黒髪をまとめるように野球帽を深く被っていて、一見すると少年のように見えなくもない。

 それは僕の服と帽子だった。押し入れの下段の奥、透明な収納ケースの中にしまい込んだまま、普段ほとんど引っ張り出さない類の代物だ。


「変装のつもりか?」


 思わず苦笑いを漏らしながら尋ねると、後輩は少しだけ得意気に微笑んだ。


「ええ、まあ。サイズが合わないのは当然として、どうにか着られるものを探すのは大変でした」

「革靴だけがアンバランスだな」

「足の大きさだけはどうにもなりませんから。大体、気づかれなかったんだから問題ないでしょう」

「まったくだ。一瞬たりとも気がつかなかったよ。君はストーキングが上手いな」

「その褒められ方はあまり嬉しくありません」


 どうやら後輩はずっと僕のことを尾行していたらしい。

 そもそも、彼女は僕がこちらの世界の後輩を探していることに気づいていたそうだ。携帯を盗み見たことも知っていたし、バイトに行くと嘘をついて何度か出掛けたことも見抜かれていた。

 後輩は警戒を解いてなどいなかったのだ。僕はずっと、彼女に泳がされていた。

 まったく、本当の間抜けはどっちだったのかという話である。


「やっぱり、私が知っていて先輩が知らないのは不公平ですからね。先輩が知りたいのなら、あえて止めるつもりはありませんでした」


 僕の行動を放っておいた理由と聞くと、後輩は怒りもせずに平然と答えた。

 本心だろう。ただ、彼女もこちらの世界の自分がどうしているか知りたかったに違いない。でなければ、わざわざ電車を乗り継いで僕の後をつけたりしないはずだ。

 もっとも、僕が向こうの世界の僕のことを聞くのが不快なように、彼女もまた幸せに生きているもう一人の自分のことを目の当たりにし、複雑な感情を抱いてしまっていたのだと思う。言葉にせずとも、それは顔色から推察できた。


「今日は帰りたくない気分です」


 二人で電車に乗り込み、数十分ほど吊り革に掴まっていると、後輩が不意に言った。


「奇遇だな、僕もだ」


 僕は肩をすくめて同調した。

 身体的に疲れていたわけではなかったけれど、このまま三時間以上電車に揺られることを想像すると、少しばかり陰鬱な気持ちになった。


「良いところを知っています」


 後輩はそう言うと、彼女の家の最寄りから七つ程離れた駅で電車を降りた。

 そこは鈍行列車しか止まらない小さな駅で、トイレの一つも設置されておらず、周りには山ばかりがあった。

 後輩は慣れた様子で改札を出て右に曲がり、僕を先導して細い公道をぐいぐいと進んでいった。周りには木々が生い茂っていて、蝉が喧しく鳴いていた。

 道中、僕は後輩がどこに向かっているのか気づいていたし、後輩も僕が気づいていることを悟っていたと思う。

 一時間ほど歩いて到着したのは、標高たった二百メートルの小さな山の頂だった。

 そこには白い鉄塔と、綺麗な芝の野原があって、近くには向日葵畑が並んでいた。電灯はなく、月明かりの下になびく向日葵は少しだけ不気味なものに思えた。

 僕と後輩は原っぱに腰を下ろし、身体を少しだけ伸ばした。


「ここは天体観測には最高の場所だって、先輩がよく連れてきてくれたんです」

「ああ、知ってる」


 知っていて当然だ。そこは昔、祖父がよく連れてきてくれた場所だった。僕はそこで色んな星や宇宙の話を聞き、空を見上げて夢を見た。

 十年ぶりくらいだろうか。祖父が亡くなって以来、ほとんど足を踏み入れることはなかったけれど、向こうの僕はそうじゃなかったらしい。

 星への憧れを失わなかった僕はここへ通うことを辞めず、天文部の親しい後輩をここへ連れてきた。夜空の下、きっと饒舌に語ったに違いない。孫の前で張り切っていた、あの厳格な祖父のように。


「残念ながら、望遠鏡はないぞ」

「構いません。なくても十分に見えますし、一応双眼鏡だってあるでしょう?」

「……それもそうか」


 持っていた小さな鞄を後輩が指差したので、僕はそこから張り込みのために使っていた双眼鏡を取り出した。漠然と眺めるだけなら、天体観測に望遠鏡は必須じゃない。いつも祖父から貰った望遠鏡を持参していたから、そんなことも忘れていた。

 僕たちは少しだけ間隔を空けて寝そべり、夏の夜空を見上げた。

 満天の星空を視界に入れたのも久しぶりだった。そもそも、ちゃんと夜空を見たのだって何年ぶりか分からない。僕が住んでいるアパートの周りには余分な明かりが多すぎて、まともに星なんて見ることはできなかった。それにずっと、下ばかり向いて歩いてきた。


「何か、話さないんですか?」


 数分ほど無言で星を見つめていると、隣で後輩が呟いた。


「話さないのかって?」

「……先輩は、いつも楽しそうに解説してくれたんですよ。星について。星座の面白さについて。惑星の魅力なんかについても」

「へえ」


 僕は瞬く星のひとつひとつを確認しながら、何か話せるだろうかと考えた。

 しかし、それは無駄に終わった。あれだけ必死に覚えたはずの知識はどこか遠いところに引っ込んでいて、すぐに取り出せるようには思えなかった。


「悪いけど、無理みたいだ。もうさそり座か夏の大三角くらいしか分からない」


 諦めてそう言うと、後輩はこちらを向いて呆れた表情を浮かべた。


「情けないですね。それくらい、小学生だって分かりますよ」

「……まったくもってその通りだ」

「仕方がないから、代わりに私が話しましょう。もちろん、すべて受け売りの知識だという但し書きが付きますが」

「好きにしてくれ」


 大の字に横になった僕の隣で、後輩はゆっくりと語り出した。

 それは知識の披露というより、おとぎ話か童話を語るような口調に近かった。僕は黙ってそれを聞き、時々深く頷いた。向こうの世界の僕が話したことだったからだろう。遠い過去の記憶が掘り返されていくような感覚があった。

 後輩の話はとめどなく、流れるように続いた。星がどれだけ動いたのか、それがはっきりと分かるくらい長く、彼女は口を開いていた。





 いつ眠りについたのか、まるで覚えていなかった。

 目を覚ますと、山頂には強い日差しが降り注いでいて、夜には不気味に見えていた向日葵畑が息を吹き返したように明るく輝いていた。

 九月一日の朝である。

 額に滲んでいた汗を拭うと、僕は隣に目を向けた。


「――そうか」


 なんとなく予期していたことだけれど、そこに後輩の姿はなかった。

 妙に捻じれた芝の上に、安物の双眼鏡がぽつんと転がっていた。


 僕はそれを拾い、一人で電車に乗って、一人でアパートに帰った。


 見慣れた六畳一間に足を踏み入れても、後輩はいなかった。

 箱の中の猫が生きていることを祈るように押し入れの襖を開いたが、そこには敷布団とタオルケット、小型の扇風機、それから丁寧に畳まれた制服だけがあった。

 僕はその日のバイトを無断で休み、押し入れの中で横になってもう一度寝た。

 感傷に浸りたいわけでも、後輩の残り香に包まれたいわけでもなかった。こんな狭いところで眠って、彼女がいつもどんな事を考えていたのか知りたかった。

 押し入れの天井板と壁に無数の点が書かれていることに気づいたのは、夕方、寝苦しさから目覚めた後だった。

 敷布団の下をまさぐると、先端にブラックライトのついた蓄光ペンが一本出てきた。

 どうやら密かに購入して、勝手に落書きしていたらしい。どこかの美少女ゲームの主人公と似たようなことをしている。

 僕は襖をしっかりと閉めて、弱々しいライトで周りを照らした。

 途端、蓄光塗料の点は星となって輝き出した。

 丁寧に描かれたプラネタリウムがそこにはあった。昨夜見たものには及ぶべくもないが、それは紛れもない夏の夜空だった。


「敷金が返ってこなくなるかもしれないだろ、馬鹿」


 もうここにはいない後輩に向かって、僕は呟いた。

 これから毎日、この押し入れの中で眠るだろうなと思いながら。





 きっとあの夜、後輩はまた別の並行世界に跳んだのだと思う。

 九月一日、夏休み明けの朝に彼女はこちらの世界にやってきたと言った。

 多分、あいつは逃げたかったのだ。

 向こうの世界の僕と、どうしても顔を合わせたくなかった。どこか遠い場所へ行ってしまいたいと願い、そしてそれは成功した。彼女は世界の壁を破り、狭い六畳一間と冴えない先輩という逃げ場所を手に入れた。

 けれどあの日、後輩は知ってしまった。この世界に生きるもう一人の彼女は、とても幸せな人生を歩んでいるということを。

 目を背けたかったはずだろう。後輩の口から『向こうの自分』のことを聞いた僕ですら、拷問のように感じたのだ。有り得たはずの幸福な可能性を直視して、耐えられるはずがない。

 だから、彼女はもう一度逃げた。長い夏休みが終わることを拒絶する子供のように、我儘な欲望だけで次元の向こう側へと消えていった。

 漂着者が再び世界を跳ぶことがある、という話は知っていたから、僕は疑いもせずにそう結論付けた。


 呆れはするけれど、同時に大した奴だと思う。

 いくら逃避行に及ぶとしても、並行世界まで消える人間はまずいない。その熱量は尊敬に値した。それが周囲から見てどれだけ愚かな行為だとしても、だ。

 何せ僕は逃げることすらできやしない。

 地球の重力に引っ張られたまま、これからも変わり映えのない毎日を送っていく。日常を突破するだけのエネルギーが、僕の中には存在しなかった。


「こちらの先輩はどうしてそんな風になってしまったんですか?」


 時々そんな幻聴が聞こえたので、「こっちが知りたいよ」と僕は返した。


 押し入れの中のプラネタリウムは一カ月も経たない内に光を失い、やがてまるっきり見えなくなった。

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並行世界後輩 針手 凡一 @bonhari333

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