第十一話

 ひどく地面に打ち付けられる。感触が事務所のフローリングでないことに少し戸惑ったが、そこがあの埃だらけの屋敷の木造の床ではないこと、遠くではあるが聞こえる電車の音、差してくる陽光、何とも知れない鳥の鳴き声に、私は元の世界に戻ってきたことを痛感した。

 しかし、近くに伸行さんの姿はないし、ミロの姿もない。そして、ここがどこかもわからなかった。スマホを取り出してみるが、電池が切れていたようだった。

「……スカイツリーが見える」

 群を抜けて高い電波塔が、しばらく歩いて開けた場所から見えたランドマークだった。ここが関東であることはわかったし、帰るまでそう苦労はしなさそうだった。

 問題は財布がないことだったが、歩いて帰ればいい話だし、あの屋敷での出来事に比べたら、そんなものは大した苦痛でもなかった。

 体は疲れを訴えてはいなかった。どちらかと言えば、精神的疲労の方が大きい。何もしていないのに、じっとりと脂汗が額に浮かんできた。

 ひとまずは山頂へと登ることにし、傾斜の緩そうな場所を探り探り上へと登っていく。途端に疲れてきて、結局山の上、神社や茶屋などの人工物が立ち並ぶところへとたどり着いたのは、日が傾いてきたころだった。

 無料でサービスされている水を飲み、つかの間の安らかな休息のあと、山を下る家族連れや老夫婦やらとともに、下山道を歩き、すっかり日も暮れ、街灯なしでは数メートル先も見通せないほど暗くなったあたりで現れる東京の喧騒とLEDのまぶしい光は、私には日常への帰還を果たした証として十分すぎる安心感を与えた。

 幸いにも、その場所から事務所はしごく近く、開けっ放しになっていた事務所のドアを開け、相変わらず明かりのつかない中で、何とか探り当てた目覚まし時計は、午後十時ごろを指していた。

 日付は、私があの世界に旅立った日から、すでに三日が経過していた。……廸子さんへの連絡はどうしようか。心配されているかもしれないし、怒っているかもしれない。明日にしようとは思ったが、それを考えると憂鬱だった。

 服を脱ぎ捨て、下着だけになる。服はなぜか血も埃も一切ついてはいなかったし、ミロに刺されて切れた箇所も、跡はどこにも残っていなかったが、さすがに今日はもう、この服を着ていようとは思わなかった。

 とにもかくにも生き延びたのだ。そう思ってベッドへ沈み込むと、眠気はすぐにやってきた。ミロのことも探さなくてはいけない。明日のためにも、しっかりと眠っておこう。

 目を閉じ、眠りへと入ろうとすると、部屋に据え置いている電話がけたたましく鳴った。

 たたき起こされた私は、若干不機嫌になりながら電話に出る。

「あい、道ヶ森探偵事務所です」

『ああぁ、ようやく出たよ。もしもし? 自分××署の刑事で夜祓よばらいっていうんですがね。あのー、なんか、あなたのところの住所が書いた紙を持った外国人の女の子が預けられてるんだけど。知ってる?』

 近所の交番からの電話だった。眠気は吹き飛んだ。思わず大きな声で、

「名前は!?」

 と聞いていた。

『えぇ? あぁ……ちょっと待ってね、あーっと、わっといずゆあねーむ?』

 へたくそな夜祓とかいう警官の英語は、かろうじてミロ――と思しき少女にも通じたらしく、返答が返ってきているのが聞こえた。声は小さく、何と言っているかは聞き取れなかったが。

『ミロ・バレシュっていうそうだけど――』

「すぐに行きます。すみません、ありがとうございました!」

『あ、ちょっ』

 ガシャン! と受話器をたたきつけ、脱ぎ捨てた服を着なおし、放置してあった財布をひっつかんで事務所を飛び出した。

 その交番までは走れば五分とかからない。私はなっていないフォームで全力疾走し、すぐに交番へとたどり着く。汗で前髪がへばりついてひどい状態の私を、警官は引き気味に見ていたが、事情を話すとすぐに裏からその子を連れてきてくれた。

 間違いなく、ミロだった。特徴のある青色の瞳と目元は、あの屋敷でずっと見ていたものだ。

「……ミロ?」

 と私が言えば、彼女はそうだと言わんばかりにうなずいた。

「成月さん、ですよね。……よかった……!」

 屋敷の世界とは違い英語ではあったが、そう言っているのが聞き取れた。別に英語くらいなら話せるし、支障はなかった。

 夜祓という警官に詫びを入れ、私はミロとともに事務所に帰った。久々に家の風呂を沸かし、冷蔵庫に残っていたありあわせの食材から軽食を作り、引っ張り出してきた敷布団と毛布を急いで埃をはたき、泥のように眠った。

 翌朝、目が覚めたのは十時頃だった。

 廸子さんに、三日ぶりになる連絡を行うと、廸子さんはすぐに出た。

「もしもし、道ヶ森です。すみません、連絡が――」

『ありがとう! 夫は帰ってきたわ、道ヶ森さんのおかげだって。ありがとうね、ほんとうに!』

 電話に出るなり、彼女は喜びに満ちた声でまくしたてた。しばらくその調子が続き、私はただ相槌を打つだけしかできなかった。

 話を聞けば、私がいない間、二日目にかかってきた電話に助手くんが出ていたらしく、察しのいい(?)助手くんは、私の代わりに当たり障りない日々の連絡をしていてくれたようだ。……私まで失踪したことがばれていたら、あまりいいことにはならなかったかもしれないし、あとで彼にも、報酬のいくらかは渡しておくことにしよう。

 伸行さんとも数分間話したあと、報酬の話をして(あまり活躍もしていないので、少しだけ割引しておいた)、この怪事件は終結した。

 もう二度と、こんな事件にはかかわりたくはなかったが、探偵をやめるという選択肢は、私にはどうしても選ぶことができなかった。

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探偵道ヶ森成月の手記 成月/なる @narutsukinaru

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