第十話

 すすり泣きが聞こえた。

 気づけば、私はどこかに立っていた。その鳴き声はどこから聞こえるでもなく、言うなれば環境音のようなもので、嫌になって耳をふさごうが、移動しようがまとわりついてくるのだった。

 昏い場所だった。地面は石でできているらしく、足音は硬かったが、反響しないところを見ると、相当に広い空間であることは分かった。

 私は、死んだのだろうか。

 何をされたのか、全くわからないまま、激痛に気絶せられ、今はこんな場所にいる。またここからも脱出しなくてはいけないのだろうか。それとも、ここから出て現世に帰ることはできないのだろうか。

 疑問がどっと湧いてくる。

「それが重要かね、道ヶ森成月くん」

 気づけば、そこに一人。

 私は名前を呼ばれ、とっさに振り返った。

 その声は、男のようにも女のようにも聞こえたが、外見からもその性別は判断できなかった。顔らしき箇所には寒色のヴェールを纏っており、四肢に該当する部位があるようにも見え、大きさは私の身長の半分と言ったところだった。

 そんな人間のような何かに私は心当たりはなく、当然名前など知られていないはずだった。

「君はここに到達するにはまだ性急というものだね。そもそも入場資格を持っていないのに、なぜこの場に立ち入れるのかはなはだ疑問だが。いや、疑問ではないな。答えは分かっているが、かなりの異例なのだよ。分かるかな。ああ、答える必要はない。分かっていないね」

 一人で、その何かは喋っていた。私の心を逐一読み、私に喋らせようとしていないのが見て取れた。私は何か言葉を発しようとしたが、喉はかすれ、思ったとおりに声が出ることはなかった。

「ああ、声を出すな。ここに馴染まれてしまうと、僕としても困るんだ。規格外の存在は我々にとっても好ましくないからね。そうだな、送り返すことにしようか。あの館までで良かったかな。いやはや、仕事を増やさないでほしいものだ」

 そう言うと、何かは私の方に近寄ってきた。容姿は至って普通なのに、その存在があること自体を拒否しているような根源的恐怖が襲いかかってきたが、私の足は根を張ったように動かなかった。――老化した右半身は、いつの間にか元に戻されていた。

「では、もう二度と会うことがないように。我々の気まぐれではあるが」

 あざ笑うかのようなけたたましい笑い声とともに、私の視界は切り替わった。

 すすり泣きが聞こえた。

 この声は、ミロのものだろうか。全身にまとわりつく倦怠感を振り払い、私は重いまぶたを開く。

「成月、さん……?」

「お、起きたのかい……?」

 目を赤くしたミロと、心配そうにこちらの顔を覗き込む伸行さんの姿があった。

 口の中に残る鉄錆色の液体を、体を起こして吐き出し、ようやく私は声を発する。

「生きてる……?」

 確実な生の実感があった。致命傷を負ったのは血溜まりの大きさからして間違いなかったようだが、心臓は拍動し、四肢は動き、思考は巡っている。確かに生き延びたのだ。

 安堵から、私はまた地面に倒れ込む。

「だ、大丈夫ですか? 無理はしないで……」

「ああ、ミロ、大丈夫。……なんとか生きてるみたい。ありがとうね」

 立ち上がり、血糊でべとべとになった服を見てため息をついた。ひどい有様だ。自分の血だから幾分かましだが。

「いや、すみません。僕何もできずに……謝ってどうなるわけでもないかもしれませんが」

 伸行さんは、どうやら何もできなかったことを後ろめたく思っているようだった。

「……構いませんよ。別に、私だって何かできたわけではないですし。それよりミロにお礼はしましたか。一番活躍したのは彼女ですよ」

「ああ……まだでした」

 ミロのそばに近づき、彼は短い謝礼を述べる。ミロは照れたように笑っていた。

「そういえば、ジョージはどこに?」

 部屋の様相が変わっていることに、私は今気づいたのである。入ってきた時とはまるで間取りが違う。部屋は狭くなり、中世の屋敷にふさわしい内装に変わっていた。

「そこです」と、ミロが指差す先には、二つのくぼみが刻まれた灰の塊が落ちていた。

「……そう」

 ミロはいっそ清々しい顔をしていた。私は、虚無感に襲われながら、その塵に近づいた。

 塵の中に、何か硬いものがあった。取り出してみると、それは何かの鍵のようだった。

 鍵、と聞いて、私は開かなかった二階の扉を思い出す。ミロの母親の部屋だ。

「ミロ。……これ、たぶんお母さんの部屋の」

 と、私が鍵を差し出すと、ミロはそれを受け取ってしげしげと眺めたあと、それを私に返してきた。

「……大丈夫です、もう。もう踏ん切りがつきました」

「そっか。……脱出、する?」

 私がそう言うと、ミロは小さく頷いた。

 伸行さんはよく分からない、といった顔つきだったが、私はお構いなしに、《門》を創造するための儀式を始めた。思ったよりも手間取り、数度の失敗のあと、不定形の非物質的な門が顕現し、私のさびれた事務所の風景が、向こう側に投影された。

 念のため、ミロに私の事務所の住所を書き記したメモ帳のページを渡しておいた。さて、踏み出そうとすると、近くに伸行さんがいないことがわかった。

 後ろで、部屋の調度品をいろいろと漁っている姿が目に入った。

「な、なにやってるんですか?」

「すみません、この部屋にあるものはどれも史料集では見たことがないものばかりで……いやはや、興味深い。この彫刻はなんだ……見たことがないな、似たものならアメリカで見たことがあるが……」

 彼はなかなかそこから離れようとはしなかった。「ちょっと待ってください」だの「もう少しだけ」とごね続けるので、しびれを切らして私は行ってしまおうかと思い、

「あの、終わったらこの門を――」

 と言いかけたところで、異変に気付いた。

 彼は、一巻きの巻物を凝視していた。

「こ、これ、外側と内側でひどく劣化の仕方が違う……どういう技術なんだ、これは、」

 と、夢中になって読んでいる彼の髪が、若々しかった黒い髪が、じょじょに白くなっていくのだ。そして、その周囲の家具や調度品も、心なしか古びているようにも見えた。

「ちょ、ちょっと、伸行さん」

 私はミロをそこで待たせ、その巻物を取り上げようと、彼に近づいた。

 突然、彼の姿が光に包まれる。光柱の色はくすんだ灰色で、それは私にも痛烈な記憶を与えているものだった。

 時の神クァチル=ウタウスが顕現するとき、このような光の柱が現れなかったか。

「伸行さん!」

 声は聞こえない。すでに手遅れかもしれないが、私はミロに「先に行って!」と叫び、光の中へ腕を突っ込んだ。すぐに、何かが指に触れた。

 それを光から引き出すと、幸いまだ伸行さんは、ひどい老化の最初の段階にあるようだった。すでに若い肉体は見る影もないが、私の時ほど年は取っていない。そのことを素早く確認し、私たちは逃げるように、《門》へと身を投げた。

 

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