第九話

 地下を抜け、再び屋敷へと舞い戻る。

 初めて入った時の恐怖感はすでに薄れ、今はどちらかといえば、興奮と期待の入り混じった感情で、私は扉を押し開けた。

 変わらず、ホールはそこにあった。

「ここの調度品、すべて十五世紀のものなんですよ。不思議ですよねぇ、まるでそこから時間が流れていないみたいだ」

 と、そういうものに精通しているらしい伸行さんが言った。

 食堂、応接室、そしてミロの部屋にはもう用事はない。厨房のゾンビが気になるが、中を覗く気にはならなかった。

 二階へ続く階段を登る。明かりはなく、窓にも鎧戸が降ろされているせいで天然の光も入ってこなかった。ランタンを掲げ(すでにろうそくは二本目だ)、私達は階段を登りきった。

 しかし、そこから先に行くことはできなかった。目の前には暗い廊下が広がっているのに、そこに壁があるのだ。

 透明な壁。試しに押してみたが、全く動く気配はない。マスケット銃をぶちかましてみるが、弾丸は壁に阻まれ、地面へ落ちた。

「通れないんですか?」

 伸行さんは、突然の発砲に怯えた様子で聞いてきた。

「ええ、そうみたいです」

 彼はそれを聞いて、そこに向かって思いっきり体当たりをした。特に何も起こらなかった。彼は跳ね返され、その場に尻もちをついた。

「本当だ。……これくらいじゃ、もう驚けませんね」

「嫌なものになれちゃいましたね」

 そういって苦笑いする私達を、ミロが不思議そうに見ていた。

 これが、《透明な壁》という魔術なのだろう。私は、《BOOK OF EIBON》の切れ端を取り出す。壁を弱体化させるための手順が書いてあるものだ。

 覚えているのだが、これがあったほうが確実だろうと思った。逐一確認しながら、《透明な壁の弱体》という魔術を行使する。

 明確なレスポンスがあった。壁のあるだろう場所が光り輝き、数秒の後に、ガラスの砕けるような音が、静寂が支配する廊下に響き渡った。

 手を伸ばすと、透明な壁はすでに無くなっていた。これでは弱体ではなく破壊のような気がするが、通れるようになった今、そんなことはどうでもよかった。

 あっけにとられた顔で、伸行さんが私を見ていた。だが、私がちょっと説明してやると、「おかしなこともあるもんだなぁ」と、妙に納得した顔でしきりに頷いていた。私がおかしな人間に見られているようで、あまりいい気持ちはしなかった。

 廊下を進むと、横手に扉があった。

「……ここ、お母さんの部屋です」

 ミロはそういった。私は扉に手をかけたが、どうやらその扉には鍵がかかっているらしい。ノブは回らず、押しても引いても動く様子はなかった。

 さらに奥へと進むと、この屋敷のどの扉とも違う、荘厳な装飾の鉄扉が、私達を待ち構えていた。

 グロテスクな模様が刻まれたノブを掴む。冷たい金属の感触と、不均衡で不快感を煽られる凹凸によって、私の脊髄にいやな信号が走るのを感じた。

 部屋の中は、まるで別の場所のようだった。

 全体が青空のもとにあるように明るく、地面は無数の赤茶けた模様に埋め尽くされていた。積み上げられた書架には、数千を超える書物が収められているように見え、その周りには数個の麻袋があった。

 部屋の中央には謎めいた彫刻の施された玉座があり、そこに醜く背骨の曲がった男が腰掛けていたのである。

 その醜悪な魔術師ジョージ・バレシュは静かに語った。

「二階には上がってくるな、と忠告したはずだがね」

 それは私がこの館に入る前聞いた、しわがれた声だった。

 肉声を聞けば聞くほど、人間本来の生理的嫌悪が増大し、吐き気を催すほどだった。醜悪かつ残忍な笑みを浮かべ、老人は言う。

「あなたは《神々への誓約》を読んだようだね。すでに目が据わっている。私の理想を読んでどう思ったかな」

「……暴力と洗脳で絶対的な栄華を得るための手段が書かれていましたね。私は、そうまでして得たものに何の意味があるのか、さっぱり分かりませんでしたが」

 その老人へ、私は憎悪と怒りの目線を投げかける。久々だ。ここまでの怒りを感じたのは。

「はは、そうかね。……莫迦め。愚鈍な人間よ。権力とは、矮小な生物でしかない我々人類の一握りにのみ赦された《自由》なのだぞ。自由こそが、我々の生きる糧なのだ」

 老人は声を荒らげて言う。

「権力は自由ではありませんよ。束縛でしかない。……そんなことはどうでもいいんです」

「……何を言っても無駄なようだな。……失せろ、雌豚」

 老人は、唸るような声で吠え、私達に背を向け、消滅した。

 声に呼応するように、麻袋が激しくのたうちまわる。その様子を見て、ミロはどこからか取り出したナイフを構え、伸行さんは大きな悲鳴を上げ、扉にすがりついた。

 私はといえば、引っ提げていたマスケット銃にたどたどしい手付きで弾を込め、麻袋の中――すでに袋を破り、半身が外に出てきている生命に対する冒涜的存在、ゾンビに対峙する覚悟を決めていた。

「あがくな、楽に死ね」

 ジョージのしゃがれた哄笑を意識の外に追いやり、銃を構えた。

 最初に動いたのは、ミロだった。私を刺したあのナイフを、今度はゾンビの腹に突き立てる。

「気持ち悪い、です!」

 ゾンビは回避することを知らない。直進してきたそれは、ミロのナイフに触れたところからドロドロと溶け出していった。

「成月さん。ゾンビって言うのは――」

 何かを言いかけたところで、別の方向からゾンビがミロに襲いかかった。私は銃を振り上げ、そのゾンビに向かって思いっきり振り下ろす。みしり、と骨の砕ける音がして、ゾンビはその場にくずおれた。ミロはといえば、先に刺したゾンビの流動する残骸を振り払い、私が殴り倒したゾンビに、同じようにそのナイフを突き立てた。ゾンビは流動体へと変貌する。

「ミロ。私が戦うから」

 彼女を、こんなところで怪我させたくはなかった。死ぬ、死なないの話ではなく、純粋に彼女に危害が加わることが嫌だった。

 しかし、彼女は気丈にも首を横に振り、こう断言した。

「私は戦いなれてますから、大丈夫です。……成月さん。ゾンビに対しては、そんなものはあまり意味がないです。塩か、銀。これで、ゾンビはあるべき姿に戻るんです」

 彼女は、長年この屋敷で遭遇してきたゾンビという怪物に対する対処法を十分に心得ていた。

 そう言っている間に襲いかかってきたゾンビを、こんどは発砲して吹き飛ばす。グロテスクに飛び散った血肉の一部が伸行さんに飛び、野太く短い悲鳴が上がった。

「な、なん」

「伸行さんは見ないでください」

 と言いおいて、私はポケットを弄る。

 そうだ。扉に縋る彼を見たときに思い出した。最初の屋敷の扉に打ち付けられていた紙片は、釘で止められていたのだ。

「銀……?」

 釘を取り出し、無残な姿になりながらも未だうごめくゾンビへそれを突き刺した。

 声のないまま、ゾンビは流動体へと変化する。

 私とミロは大いに奮闘し、私はいくつかの些細な傷を負ったが、ミロは無傷ですべての動く死体を、物言わぬ物体に変貌させることに成功した。

 肩で息をする私の前に現れたのは、ジョージ・バレシュだった。

「あがくか、雌豚。……娘ともずいぶん仲が良さそうに見えるが……何を吹き込んだ? 私のかわいい娘に」

「今さら白々しいですよクソジジイ。自分勝手な都合で娘を不老不死に仕立て上げた挙げ句にこの仕打ですか。人間のやることとは思えませんね」

 私は啖呵を切って、その老いぼれに向かってマスケット銃を突き出した。そのストックは間違いなくそのしわくちゃになった皮膚に覆われた頭蓋を砕く勢いがあったはずだが、しかしそれは叶わなかった。

 ジョージ・バレシュは再びその邪悪な声で高笑いすると、朗々と話しだした。

「私の娘もそうだが、私も同様に不老不死の存在なのだ。分かるかね、永遠の絶頂を望む私は、この幻夢境で数百年もの間、現世に干渉するための策を思案していた。手帳はそのための布石だ。かの神クァチル=ウタウスの加護と呪いを受けた手帳を送り込み、読んだものをこの屋敷へ招くための。おかげでかなり研究ははかどった。ここ百年の間、私が現世で生きていたころには書かれていないいくつかの貴重な魔導書を集めることができたし、眷属としてのゾンビどもも供給できた。そして、私の研究はあともう少しで完成するのだよ。ようやく、私は現世に舞い降り、進化した文明をこの手中に収め、絶対的な権力を永遠のものとするのだ。……何を呆けた顔で聞いているのだ、娘よ。お前は、私のこの考えが分かるだろう?」

 ジョージは、その生気のない顔をミロに向けた。彼女はその顔を睨み返し、言った。

「……どうでもいいことじゃない。お母さんは? お母さんを返してよ」

 魔術師は、思わぬ娘の反抗に、多少なりともうろたえたようだったが、それはすぐに叱責へと変わった。

「今なんと言った? どうでもいいだと? 私に共感できないと? ――娘の分際で親に逆らうんじゃないッ!」

 いったいその細い体のどこに、それだけの声を出す力があるというのか。その怒号は、毅然と返したミロですら、思わず体を縮み上がらせるほどの迫力と恐ろしさがあった。

「お前も、あの女、勝手に最大の財産である命を断った、私の金だけが目当てだったわが妻ラクシェも! なぜ私に歯向かうようなことばかりするのだ! 家族というものは肯定するために存在する唯一の社会集団なのだぞ。私は絶対だ、家族の中で最も力を持っている。なぜ、なぜ、なぜお前らのような存在に否定され冒涜されなければならないのだ! 娘よ! お前は私の子種から生まれた高貴なる存在のはずなのに、このようなみすぼらしい下等生物に毒されるんじゃあないッ! 肯定しろ! お前を生んでやったのは私だぞ!? 永遠の命を与えてやったのも私だぞ! 分かるか、お前は頭脳だけが取り柄だったのだから分かるだろう!?」

 罵倒の嵐をミロに浴びせる魔術師を、私はもはや何の感情もなく殴り飛ばした。

 不老不死であろうと、痛覚は明確に存在していることは、反応からして明白だった。

「……お前みたいな救いようのない馬鹿野郎は、もう家族なんかじゃないよ。ミロは私に言ったんだ。『お母さんのカタキウチがしたい』って。本心がどうか知らないけどさ。やっぱり、私はお前が間違ってると思うよ。――力でできた家族なんて、家族じゃないから」

 倒れた男の上にまたがり、私は銃床を振り下ろす。老いたどうしようもない屑に向かって。腕に、胸に、顔面に、頭蓋に、喉に、足に、体のあらゆる部位に向かって、何度となく叩きつけた。マスケット銃はすでにバレルが湾曲し、とても撃てる状態にはなかったが、私はこのジョージ・バレシュという男を粛清することができればそれでよかったのである。

 だが、それだけの傷を与えても、なおもジョージ・バレシュは、すでに原型のなくなった唇をゆがめて不敵に笑っていた。

「《萎縮》せよ」

 程度の低い罵倒かと、私は最初思っていた。

 ジョージは、まっすぐに、潰れた目で私の心臓を射抜いた。

 何かが、私の胸を貫いた。一瞬の感覚のあと、私はあまりの激痛に絶叫し、胸を抑えてうずくまる。人生で味わったことのない最大の痛みにぼやける視界は、外面にはどこにも傷がないことを伝えていた。

 生暖かいものが、喉を伝って痛みで半開きになっていた口からぼたぼたとたれた。鉄臭い味が口腔に広がり、私が自らの喀血でできた血溜まりに沈み目を閉じる前、最後に見たものは魔術師に抱きつくミロの姿と、

「exklopios Quachil Uttaus!」

 という彼女の絶叫だった。

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