第八話

《BOOK OF EIBON》を、私は手に取った。広辞苑ほどの分厚い本だったが、見かけによらず、それはずいぶんと軽かった。

 恐る恐る開いてみる。次にあの神と出会うことがあれば、私はもう助からないだろうから。

 内容に目を通す。ほとんどのページはインクのかすれやにじみのせいで判読不能だった上に、破かれたページが多すぎた。そのせいで、厚みのわりに軽かったようだ。

 ふと、ポケットにしまいこんだ紙片のことを思い出す。あの手帳の間から落ちてきたものだ。

 もしやと思い、破かれたページに一つ一つ、その紙片をあてがってみる。

 果たして、それは正解だったらしい。ちょうど、この本のある項目について記されたページから破かれたものだったからだ。

 項目名、《即発的な転移魔術の起動》。

 また、裏面は《透明な壁の弱体》について書かれていた。

 ――脱出のビジョンが見えてきた。つまりは、この破かれたページに書かれたとおりにすれば、信じがたいことではあるが、転移魔術というものが起動する。説明書きによれば、思い描いたところすべてに、どこからでも、どこへでも行ける、ということらしい。

 覚醒しないのであれば、この世界から、無理やり事務所に戻るほかない。一抹の不安が残るが、目覚められない以上はこれしか方法がなかったし、この方法でしか、ミロを外に連れ出せないと思った。

 さっそく、私はその項目のとおりタスクをこなした。即発的とだけあって、手順は非常に簡易的だったが、何度か急激に心臓が締め付けられるようなおぞましい感覚に襲われた。そう何度も使いたいものではなかった。

 手順をすべてこなすと、そこには観音開きの扉ができあがった。物質的なものではないことはすぐに分かった。ゆらゆらと、その輪郭が揺らいでいたからだ。

 私はその不定形の門に手を伸ばした。ゆっくりと、それを押し開ける。私の見慣れた事務所の殺風景な内装が、開け放った扉の向こうに広がっていた。

「え、な、なんですか、これ」

 ミロはひどく当惑していたが、私が手を握って歩き出すと、何も言わずについてきた。

「ここが、外だよ」と、私は優しく彼女に語りかけた。

 ああ、とうとう目が覚めるのだ。この悪夢から解放されたい一心で、門を潜ろうとした。

 しかし、私達は向こうに征くことはできなかった。

 土の壁に阻まれたからである。傍から見れば、私は壁に向かって歩いている変人でしかなかったのだ。

 幻覚ではないと信じたかったが、とにかく、すでにそこに光の門はなかったのだ。

 ミロが呆然として、私の顔を見つめた。私はどうすることもできず、ただ「ごめん」と謝った。

 失敗した。脱出は叶わなかったのである。

 門が出現した場所に、紙が落ちていた。拾い上げ、私はそれを怒りにまかせて引き裂いてやろうかとまで思った。


 <私の世界から逃れることは赦されない。

  逃げたいか? 無駄だよ、愚かな人間め。私の傑作であるこの幻夢境ドリームランドから逃れられると思わないほうがいい。

  手記にも書いたとおり、莫迦には私を理解できないし、私にまさることもできないのだからな。>


 このメッセージは、ジョージ・バレシュという男が書いたもののようだった。ミロの、父親である。

 ……この痰壺以下の老害野郎が、妻子をないがしろにし、自分のことしか考えていなかったから、ミロがこうなり、ミロの母親がああなったのだと思うと、無性に腹が立つ。

 どうせなら、私はこのどうしようもない屑の気狂いに、何か報復をしてやりたかった。

 二階の研究室だ。おそらくそこに、この男はいるのだ。

 私は、《BOOK OF EIBON》の破れたページに再び目を落とす。

「ねぇ、ミロ。透明な壁があるせいで、二階には上がれなかったんだよね」

「……そう、です。あの、成月さん。……どうしてそんなことを聞くんですか」

 静かな怒りは、完全ではないものの、ミロにも伝わってしまっていたらしい。「なんでもないよ」とごまかすと、私は《透明な壁の弱体》という――の手順を必死に覚えようとしていた。

 だいぶ手順も、いわゆる『呪文』というやつも、体に馴染んできた頃、ミロがそろそろ別の場所に行こう、と言い出した。

 それもそうである。ずいぶんと長い間、この部屋にこもってしまっていた。

 ミロがどこからともなく取り出した替えのランタンとろうそく、マッチを持って部屋を出ると、冷たい空気が肌を刺す。脂汗でじっとりと濡れていたためか、余計に寒く感じられた。

 そして、向かい側にある扉を見て、私はもうひとつの地下室の存在を思い出した。すでに私の心は、脱出からジョージ・バレシュに一矢報いることに傾きかけていたため、私はその部屋を探索する意義を見出だせなかったが、一応中を改めるくらいはしておこうと扉を開けた。

 一見してなにもないように見えた。

 だが、そこに予想外のものが転がっているのをランタンの明かりが照らし出した時、私ははっとした。

 うずくまっていたのは、一人の男だった。しかも、私が間接的にではあるがよく見知っている男だ。

 男の名前を、私は知っている。

「真城……さん?」

 真木廸子という女性から、私が受け取っていた写真。それと、同じ顔だったのだ。

 失踪した夫が、いったいなぜ、ここに丸まっているのだろうか。

「な、なんだ、なんだ、おまえら、おい、とまれ、く、くるな、くるな!」

 私が声をかけると、彼は全身を震わせて、大音声でこちらを威嚇してきた。ミロの体がびくりと跳ねた。驚いたのだろう。

 彼も、この屋敷で、私と同じような目にあったのかもしれないし、それ以上に悲惨な光景を目にしてしまったのかもしれない。

 ともあれ、私はこの失踪した男も、現世に連れて帰るべきだと考えた。ようやく落ち着いた頃には、ろうそくは半分以上溶けてしまっていた。

 名刺を差し出し、彼の前に座り込む。隣にミロも座った。

「す、すまない。情けない姿を見せてしまって。……君は、探偵さんかい」

「ええ、そうです。……不思議な格好をしてると思いましたか?」

 右半身が異常に年を取っている私の体も、彼の精神を落ち着かせるのを妨げたものの一つだった。今は、彼に気を遣わせてしまうくらいの、ただの迷惑な身体的特徴だ。

「いや、もうその程度では驚かないよ。……家内かな、君を雇ったのは」

「ええ。失礼ですが、お名前は? 廸子さん――奥様から聞きそびれてしまって」

 本当は、名刺を見せてもらったような気もするが、あまり特徴的でなかったので忘れてしまったのだ、なんて言えなかったので、そういうことにしておいた。この分は割引しておこうと思う。

「ああ、そうか。家内はそういうところがあるからな……僕は真城まき伸行のぶゆきだ。真城廸子の夫だよ。……探しに来てくれた、というのも変かもしれないが……なにより、ありがとう。救われたよ、君が来てくれなかったら、どうなっていたか」

 伸行さんは大きくため息をついて、体の力を抜いた。場の空気が心なしか和んだような気がした。

 彼は、私より少し前にここに来たようだった。私と同じように考えたのか、屋敷を探索してどうにか脱出しようとしたらしい。その過程で、彼はミロに会うことはなかった。厨房や二階のゾンビや、薄暗い中でうごめく何か透明なものにおびえて、この地下に飛び込み、そして死体を見て今に至る、ということだった。

 僕は臆病なんだ、と彼は笑う。

「あの、すみません。伸行さんは、ここに来る直前、どこにいらっしゃいましたか?」

「……家内と待ち合わせをしていたんだ。ファミレスでね。僕もあいつも、大学からの付き合いでね。民俗学を専攻してたんだ。だから、あの手帳を見せてやりたくて」

「あの手帳――あの象形文字だけで書かれた手帳ですか」

「あ……知っているのかい。そうだ。ここに来た時僕はあれを持っていなかったし、落としてきたのかな」

 ははは、と彼は笑っていたが、私には何かひっかかることがあった。

 ――そういえば、「伸行さんが失踪した」として、探すように依頼が来たのだった。

 仮にここが夢の世界だとするなら、眠っている本体が現世に残るはずなのだ。

 残っておらず、いなくなった。

 すなわち、ここにいる私も、今は現世にいない、ということなのではないだろうか。

「……そうか」

 気づけば私は口に出していた。

 覚醒は脱出の手段などではなかった。なぜなら、『私』は今ここにいる私のみなのだから。

 二階へ赴く必要があった。ジョージ・バレシュをなんとかして――すでに暴力に訴える道を、私の中の悪魔は訴えていたが――ここからあの《門》を使って脱出するしかないようだった。

「行きましょう、伸行さん。二階です。帰るにはそれしかないんですよ」

「え、えぇ? ど、どういうことかな、それに僕はもう二階には……あの紙にだって、ほら、二階に来てはいけないって」

「どうでもいいんですよそんなこと。私は外に出たい。あなたも外に出たい。そしてこの子も外に出たい。なら取るべき手段は一つでしょう。黒幕をぶっ倒すんですよ」

 ぶっ倒す前提になっているのは言葉の綾だ。

「え、あ、……そうか。確かに、そうかもしれないな」

 物分りのいい人で助かった。ここでごねられても、どうしようもならない。

 そして、ミロはそんな私と伸行さんとを交互に見て、不安そうな顔をしていた。

「……成月さん。お父さんを……どうするんですか」

「……っ」

 ……私には、あの手記を読んだ今、彼女の父親がまともであるとは思えなかった。

 だが、まともでなくても、自分を軟禁した張本人だとしても、ミロにとって、ジョージ・バレシュは父親であって、唯一の肉親という事実は変わりようがない。愛着やためらいがあってもおかしい話ではないだろう。

「……ごめん。ひどいこと、するかもしれない」

 できるかどうかはさておいて、私はそうするつもりだった。

「そうですか……。……うん、行きましょう!」

「あれ? あの、お父さんだよね?」

 顔を上げたミロは、満面の笑みを浮かべていた。

「別に、顔もよく覚えてないですし、お母さんがお父さんのせいで死んじゃったなら関係ないです。カタキウチがしたいです!」

「あ、うん、そっか……」

 やはり、彼女もまた少し、常人と感性が違うのかもしれない。

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