第六話
地下へと続く階段は、不思議なことにろうそくに火が灯されていた。私がこれまでこの屋敷で見てきたなかで、ろうそくに火をつけられそうな知性のある生物は、私かミロくらいしかいないと思っていたのだが、もしかすると地下にはまた別の人間、あるいはそれに準ずる知的生命体がいるのかもしれないと考えると、それはあまり喜ばしいことではなかった。
ミロは錯乱して私へ襲いかかってきたものの、治療してくれたおかげで大事にはならなかった(刺されただけでも十分大事かもしれない)。しかし、次に会う人間が、腹部をナイフで突き刺すだけの簡単な攻撃で済んでくれるとは限らない。いかに何百年と生きているとはいえ、ミロが傷ついた私を安全なところまで運び治療を施せるほどの体力があるとは思えなかったし、何より彼女を危険な目に合わせたくなかった。
「ミロ、私の後ろについてきて」
人の先頭に立つのは得意ではないが、子どもに先を行かせるほど冷徹にもなれない。恐怖心を押し殺し、平然を装って私は地下へと降りていった。
石造りの階段にも、屋敷やテラスのほとんどの部分と同じく、灰色の塵が薄く堆積していた。この塵が単なる何百年もの時の経過によるものではないことはもはや明白だった。
「地下って、どうなってるの?」
後ろを歩くミロに問う。階段は思った以上に長く、先に何があるのか、わからないままでは恐怖をせき止める堤防が決壊しそうだったからだ。
「部屋が二つあります。一つは倉庫で、もう一つはお父さんの私室です……研究室の他に、自分の部屋も作ってたんですよ。……お母さんが死んでからは、こっちにくることもめっきりなくなったんですけどね」
「そうなんだ」
反響する足音に、私の精神の安寧は徐々に崩されていった。
階段を下りきると、地下の湿った空間に明かりはなかった。濃厚な圧迫感を与える闇が、そこに広がっていた。
足を踏み出すのを躊躇する。私の服の裾を握るミロの小さな手を感じ、それに背中を押されて、闇の中へと歩んだ。
手探りで二つの扉を探り当てる。メモを取り出し、階段の入り口まで戻って簡単な見取り図を描く。
廊下がまっすぐに伸びており、突き当りの左右に扉があるようだった。
「右が、お父さんの部屋です。左は倉庫……だったと思います。すみません、自信がなくて」
手元を覗き込んだミロの言う通りに、図に書き入れる。もしもの時に備え、屋敷の一階の見取り図も、別のページに描いておいた。
まず、倉庫から探索を始めることにした。闇の中というのは、視覚が奪われたせいだろうか、妙に聴覚が鮮明になったような気がした。部屋の中からは何も聞こえない。用心して、薄く扉を開き、隙間から中も覗いてみるが、暗くてよく見えなかった。
自らの聴覚に全幅の信頼を置いて、中へ踏み入った。
だんだんと目が慣れてきて、物の輪郭はつかめるようになった。
書架が並んでいた。床は廊下もそうだったが、土が丸出しになっていた。明るければ、それは雰囲気のある図書館のような内装をしていたのかもしれない。書架に収納されているのは、どうやら本だけではないらしく、壺や箱のようなシルエットが散見された。
「あの、成月さん。マッチと、ろうそくがありました」
背後から突然聞こえてきたミロの声に、びくりと体を震わせてしまった。
彼女が差し出してきたのは古めかしいランタンと、しけたマッチだった。何本かめげずにこすっていると、幸いにも一本のマッチに小さな火がともる。電熱線とダイオードの発する明かりよりも、それは頼りになるような気がした。
「うわ……」
しかし、私は明かりをつけてしまったことを、照らし出された部屋の全体を見て後悔した。さりげなくミロの前に立って、視界を遮る。
そこに転がっていたのは、吊り下がる白骨死体だった。髪はまばらに残っているのみだったが、まとっている衣服から、それがかろうじて女性の死体だとわかった。倒れた丸椅子は何も語らず、死体はまるで、私の侵入を拒むような視線を、その虚ろな二つの穴から送ってきていた。
「ど、どうしたんですか……?」
ミロが心配そうな声を上げた。
「……見たいというなら、見てもいいけど。私はおすすめしないよ」
「……見ます」
彼女の意志を尊重し、私は死体の方へと明かりをかざした。
「ひぅ!? ――ッ!」
声にならない悲鳴を上げ、ミロはその場に倒れこんだ。駆け寄って助け起こすと、気を失っているわけではないようだった。
全身が小刻みに震えている。そのせいか、声は出せないようだったが、しきりに死体を指さして、私に何かを伝えようとしていた。
明かりを彼女のそばに置いて、死体を丁寧に地面へ寝かす。骨が軽いというのは本当だったらしく、難なく降ろすことができた。一応手を合わせておいた。
素人目に見ても、亡くなったのは一五二二年八月六日というのが分かった。ワンピースだったらしい布切れのポケットに入っていた手記の最後の日付と内容を合わせれば、誰にでも察しのつく話ではあったが。
手記は英語で書かれた、この女性の日記のようなものらしかった。最初のページは、娘が生まれた、という喜びに満ちた内容だった。娘の名前も、丁寧に記してあった。
――ミロ・バレシュ。偶然だろうか。いや、きっとそうではあるまい。
<初めての娘が生まれた。かわいい娘だ。夫と一日中話しあって、名前を決めた。ミロという名前だ。ミロ・バレシュ。本当にいい名前かはわからないけれど、私は好き。私のミロ。大事に育てようと思う。>
その日付――四月二十七日。西暦は一四七八年となっていた。これでミロの生年月日はわかった。逆算すると、すでに彼女は五三〇年以上は生きていることになる。コロンブスの大陸発見の時には、十五歳くらいだろうか。それくらいにも見えたし、それより前に成長が止まっているようにも見えた。
このことを彼女に伝えようかとランタンの方を見たが、彼女はまだ、この事実を受け止められるほどショックから立ち直っているようには見えなかったので、やめておくことにした。解読を続ける。
しばらくは仲睦まじい夫婦と娘の生活のハイライトがつらつらとつづられているだけだった。中には読んでいる私が恥ずかしくなるような赤裸々な告白やのろけも書かれていた。
しかし、その手帳の雰囲気は五年後に一変した。
原因は些細なことだった。宮廷につかえていた占い師だった夫の仕事が、立ち行かなくなったそうだ。そこから、幸せな生活は徐々に崩壊していった。
夫はふさぎ込み、部屋から出てこなくなった。一家の生活は激変し、十数人いた使用人は一人を除いて全員解雇したそうだ。この女性――ミロの母親は、一人娘を必死に育てようと、働きに出るようになった。具体的には、この頃ある意味でメジャーだった娼婦として、という内容が、直接書かれているわけではなかったものの、婉曲的に描かれていた。かなり参っていたのか、自責の言葉が多かった。
陰惨な生活だった。父からも母からもかまってもらえず、六歳だったミロは年老いた召使いに面倒を見てもらっていたらしい。そんな生活が何年も続いた。
しかし、そのような生活は、父の研究成果が、何やら素性の知れぬ団体に高額で買われるようになってから多少はましになったらしい。かつての栄華こそないが、一般的な水準に戻ってくることができた、と書かれている。
<あの人が"真の聖火"という宗教的な団体に所属した、と言っていた。ここのところ帰ってくるのがとても遅い。ミロには私がいるからまだいいかもしれない、でも私にはミロだけじゃなくて、あの人が必要なのに。
それに、気味の悪い本を二階にため込むようになった。たまには、私の部屋や、食堂や、あの人の書斎でゆっくりとしてほしい>
<あの人が出かけている間、研究室を覗いてみた。机の上に置かれていた本には、何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。研究に打ち込むのは許せなくはないけれど、内容くらい打ち明けてくれてもいいじゃない>
<家に、団体の人が数人やってきた。研究室に入って、何やら話し込んでいる風だった。私がお茶を運んでいくと、烈火のごとく怒り、私を部屋から追い出した。なぜ? どうして教えてくれないのかしら>
苦悩している心境が、日々めちゃくちゃに吐露されていた。文字は震え、涙を落としたあともある。
そして、決定的な出来事が書いてあった。
<あの人は言った。「これで、私の栄華は永久だ」と。
私には、その言葉の意味は分からなかったけれど、あの人が何かめちゃくちゃにまくしたてると、私たちのお屋敷の前に灰色の光線が降り注いで、そこから先はよく覚えていない。
残っていたのは、灰にまみれたテラスと、ぼろぼろになったお屋敷と、背骨の曲がった見る影もないあの人と、呆然と立つ娘と私だった。
あの人は、私たちを倉庫に連れていって、よくわからない手帳と巻物を見せて、「これをお前たちは読んではいけない。死への欲望を持つ低俗な人類は、この文章に目を触れてはいけない」と言った。何がなんだかわからない。どうすればいいの>
ミロが不老不死になったとすれば、まず間違いなくこの出来事が原因だろうと思った。一四八八年の出来事だった。
そこからは、短文で日々の様子が短く記されているだけだった。
一四九〇年に、夫により娘が軟禁されたと書いてある。
この女性はその後、おおよそ人間味のない生活を送るようになり、年を取らない娘を案じながら、一五二二年、
<私は、結局あの人の思想は理解できなかった。あの日から、必要最低限のことしか娘にしてやれなかった。背も伸びず、年も取らず、本当に全く変わっていない娘。私には、もうどうすればいいのかわからない。>
と書き残した。手記はそこで終わっている。これが、ミロの母親の最期の言葉だった。
読み終えて、ミロの方を見ると、震えも収まり、荒かった呼吸も落ち着ているようだった。疲れたのか、うとうととまどろんでいた。私にも声をかけてこなかったのは、どうやらそのせいらしかった。
「ねぇ、大丈夫?」
ミロを揺り起こすと、彼女は私の顔を見て、大きく息を吐きだした。
「あの……えっと……ごめんなさい。びっくりしちゃって」
「そりゃ、そうなるよ。私だってびっくりしたもの」
「で、でも、私より全然落ち着いてて……」
「……それは」
私のほうが年上だから、と続けようとして、私はためらった。
「私は、驚かないタイプだから」
「ほんとですか?」
嘘である。
「ねぇ、今から大事な話をしたいんだけど、大丈夫かな。それとも、聞きたくない?」
私は努めて優しく問いかけた。聞かせるべきだろうが、聞かせたくないという思いも、私の中に共存していた。
「……大丈夫、だと思います。あの、またびっくりしちゃったら、ごめんなさい」
「怖かったり、いやだったりしたら、ちゃんと言ってね。話すのやめるから」
そう前置きして、私は死体の正体と、手記について話して聞かせた。
死体は彼女の母親であること、手記の中に、赤裸々に母の思いが書き綴られていたこと、父親の怪しげな研究のこと、とにかく私が得た情報を、一通り話した。
彼女は初めのうちは多大なショックを受けていたようだが、話が進むにつれて、真剣に私の話に耳を傾けてくれるようになった。
すべてを話し終えると、ミロは何も言わなくなった。
沈黙が私たちを支配する。
やがて、重苦しい雰囲気を破って、彼女は口を開いた。
「思い出しました。お母さん、地下にいったきり帰ってこないから、心配になって見に行ったんです。そしたら、天井から、ぶら下がってて。……どうにもできなくて、ずっと泣いてて、そしたらお父さんが、知らない人を連れてきて。友達だ、いっしょに料理でもするといいって、いって、それであの、キッチンにある食材を買いに出かけて、でも、その人も、いつの間にかいなくなって。私はまた一人ぼっちで」
その料理人はたぶんあのゾンビコックだろう。何かミロの父の逆鱗に触れてあんな姿になってしまったのか。
独白した彼女は、噴出する行き場のない感情を、どうすればいいのかわからないようだった。
「……今は、私がいるじゃない」なんて、きざったらしいセリフを言うのが、人付き合いが不得手な私の最大限の気遣いだった。
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