第五話
激痛と、ぼやける景色の中で、私はある意味の安堵を覚えていた。
このまま気を失ってしまえば、きっと目が覚める。この薄気味悪い夢からようやく抜け出せる。
そう思って、私は抵抗もせず、薄れゆく意識を維持するような努力も放棄して、ただ流れのままに視界と思考を手放した。目覚めた時、天井が自分の見知ったものであることを祈って。
淡い期待を込めて目を開けると、知らない天井だった。
夢から逃れることに失敗したようだ。深い失望に沈みながら、私は体を起こした。
ここ最近目にすることのなかった人工的な照明に、私は目を向ける。人工的と言っても、ただろうそくに火を灯しただけだが、それでも明るいことに違いなかった。
目を慣らし、二、三度まばたきをすると、ようやく視界がクリアになった。
申し訳なさそうに座る少女の姿を、私はまず目にした。
「ごめんなさい!」
彼女は開口一番にそう言った。床には血塗られた包丁が落ちている。私を刺した凶器はあれらしい。
そうだ、私は刺されたのだ。しかし痛みはなく、傷口に目を落とすと、傷はもう完治してしまっていた。裂けた服が空虚だった。
夢だから、で片付けてしまうには、あの刺されたときの痛みは尋常ではなかったし、流れる血の温もりも、私の脳が作り出した感覚ではないと断言できるほどに現実味を帯びていた。
傷が治ったのは、もしかしたらこの少女のおかげかもしれない。そんな馬鹿げた考えが、まことしやかに私の思考に浸透していた。
「その、人が来るとは思えなくて、えっと、それで、その、ゾンビかと思って……ほんとうにごめんなさい!」
彼女は必死に謝っていた。私も別に刺されたことに怒る気にはならなかった。傷はなく、裂けた服もすでに塵で汚れている。腹が立たないのは、失ったものがないからかもしれないし、彼女が純粋に庇護欲というか、私の母性本能をくすぐる容姿をしていたから、怒る気力を削がれたのかもしれない。
「もういいよ。そんなに謝られると私も困るし」
私がそう言ってやると、彼女はほうけた顔で私を見たあと、わっと泣き出してしまった。
困った。子どもが泣いているのを見ると、意味もなく罪悪感にさいなまれるのが嫌だった。
泣き止むのを待つこと数分、だいぶ落ち着いてきたようで、話ができる状態になった。
「ねえ、あなたの名前は?」
私は自分の名前を名乗ってから、少女にそれを聞いた。
「ミロ、です」
「何歳?」
「わかりません」
「わかりませんって、どういうこと? 自分が何歳かわからないの?」
ある程度成長すればそれもうなずける。私も高校、大学と自分の誕生日を忘れていたし、留年などしていたら、年齢がわからなくなっていたかもしれない。
しかし、ミロという少女は、そう年をとっている風ではなかった。まだ誕生日を楽しみにしていてもおかしくない年齢に見える。
「……そうなんです。もう、どれくらいここにいるのかわかりません」
「閉じ込められてるの?」
「はい。お父さんに」
複雑な家庭事情のある子のようだった。夢であるとは思えないほどのリアリティだ。
私は、彼女になんとか年齢を思い出させようとした。しかし、それが私の認識をさらに混乱させる原因となった。
「生年月日は?」
「年はわかりません。……たしか、四月の二十七日だったと思います」
「うーん……じゃあ、覚えてる中で一番古い、大きな出来事ってなにかな。ほら、オリンピックとか」
「おりん……? えっと、大きな出来事、ですか? ……クリストファー・コロンブスという人が、新しい陸地を発見した、って、大人はみんな騒いでたのを覚えています」
我が耳を疑った。記憶が確かなら、それは十五世紀末の出来事だったはずだ。
ミロが嘘をついているようには見えなかった。こんなに小さな子どもが、疑り深い私にそんな疑念を与えさせないということは、つまり嘘をついておらず、本当のことを言っているか、あるいは相当に演技に熟達しているかのどちらかだ。
私はひとまず、その納得し難い発言を真実として受け入れることにした。
「あの、今って何年の、何月ですか」
ミロに問い返され、私は眠りに落ちた日の日付を伝えた。
「そ、そんなに……」
少女はその小さな目を見開き、わなわなと震え始めた。なにかに耐えるような苦悶の表情を浮かべたあと、私に向き直って、私がなんとなく予想していたことを、かすれた声で告げた。
「私、年を取らないんです」
吐露された驚くべき真実は、身構えていた私にも、得体の知れない悲しみと非現実感を芽生えさせた。
ミロ――この幼い少女は、刺激も何もなく、何百年も変わりばえしない部屋の中に幽閉されていたのである。
その孤独と絶望は、人並みに家族に愛され、人並みに人間関係を持っていた私には、絶対に想像できないものだ。
同情の言葉も共感の言葉も慰めの言葉もかけられず、私はただミロの手を握って聞いていた。
「ねぇ、ここから出たい?」
その問いは彼女に大きな衝撃を与えたらしく、彼女ははっとした表情をすると、目を泳がせながらこう答えた。
「……わからない、です。外に出たら、私は年をとるようになりますか」
彼女は、すがるような目で、私に質問を返してきたのだった。
この少女は死にたがっている。私の直感はそう告げていた。
永遠の時を変化しないまま生き続ければ、やがて精神が死んでしまう。ゆっくりと心が壊れていく恐怖なら、たった数年ではあるが、私も一度味わったことがある。私はこの少女にそのような思いをさせたいとは全くもって思わなかった。
「きっと、ね」
口をついて出た言葉は、無責任な虚偽の楽観論に準ずるものだったが、私はこの夢のようで夢ではない世界に、このミロという少女を救うための手段があると信じて疑わなかった。
「少し……考えさせてください」と、ミロは部屋の外へ出ていった。心配だったが、私がついていってはプレッシャーになるかもしれない。
あくまで、彼女を助けたいというのは私のエゴだ。求められれば助けるだろうが、無理矢理にここから彼女を連れ出して、悪感情に満ちた現代で生かすのは私の良心が赦さなかった。
しばらくは戻ってこないだろうと踏んで、私は彼女の部屋を探索することに決めた。
さっきまで私が眠っていたベッドは簡素な作りで、特に装飾などはない。ベッドの下にはいくつか引き出しがあったが、そこに入っていたのは取りざたすることもないガラクタばかりだった。少なくとも、私の目には価値のあるものにも実用性のあるものにも映らなかった。
ベッドと反対の壁には、数冊の本が入っている本棚があった。
私はそのうちの一冊を手にとってみる。表紙には、『NAMELESS CULTS』と英語の金文字の刺繍で記されていた。
ぱらぱらとめくると、あの手帳を初めて読んだときのような言いしれぬ恐怖が私に襲いかかり、さらには目の奥がちりちりと痛む謎めいた現象に見舞われ、私は解読を断念した。
一瞬目に入った英文の一節は、私の記憶に深く刻み込まれることとなる。
<大いなる無貌の神に出会い、我々は常人に引き出し得ない異郷の知識と法則を習得した。この禁断の知識を用いれば、我々の権勢は揺らぐことはない。"the True Sacred Flame">
おそらく、この記述は私が今ある状況においてなんの意味も為さないだろう。しかし、私は夢中で持ち込んだメモ帳にそれを書き写し、我に返って本を閉じた。
他の本は、他愛もない童話に見えた。気味の悪い文様が表紙になっている『the King in Yellow』という演劇の台本のようなもの以外は、特に違和感なくするすると読めたが、その本だけは最後まで読もうとは思えず、また、手遅れかもしれないが、こんなものをミロに見せたくなかったので、それを本棚の裏に隠しておいた。
そうこうしているうちに、かなりの時間が経っていたらしい。廊下から足音が聞こえ、遠慮がちに扉が開いた。
入ってきたのはミロだった。
「あの……私、外に出たい、です」
ミロは私の目を見て、確かにそう言った。
「そか。……わかった。私についてきなよ」
本当に出られるかは分からないが、ここから脱出しなくてはいけないのは確かなのだ。かりに、脱出できるのであれば、人数に制限などあるまい。このたちの悪い夢は、ただ目覚めれば終わるちゃちなものではなく、まぎれもない別世界なのだ。そうであれば、一時的にこの世界の住人と化した私が抜け出せるように、彼女もまた、この忌まわしい世界から抜け出せるはずだ。
ミロは安心したように、私の手をにぎる。それを固く握り返し、私は脱出のために部屋のドアを開けた。
扉を抜け、塵に覆われた廊下を歩いているときに、ふとミロの部屋が塵に覆われていなかったことに気づいた。
そこでくらしていたようなので当たり前ではあるのだが、少しおかしい気もする。
「ねぇ、ミロ。なんであなたの部屋は、この廊下みたいに汚れてないの? 掃除が好き?」
「お掃除は、とっても昔にお母さんを手伝ってやったくらいです。……この塵はよくわかりません。なんで私の部屋が汚れていないのかも」
彼女は何も知らないらしかった。ただ、私は今まで巡った部屋と、ミロの部屋を比べて、異なる点がもう一つあることに気づいたのだ。
彼女の部屋の、ありとあらゆる家具や調度品は、それが購入されたばかりのもののように新品同然で残っていた。
掃除もせず、当然手入れもしていないだろうに、まるで時が止まったかのように新しいままだった。
そして、時が止まっていたといえば、厨房にあった食材も、腐っている様子はなかった。
「厨房の野菜って、あれはいつ買ってきたの?」
「……お母さんが死んだのが、一五二二年なので、だいたいそれくらいだと思います。お母さんが死んじゃって、お料理を作れるのが私しかいなかったので」
「召使いさんとかは」
「……すみません。覚えていないんです。いたとは思うんですけど、食材を買った日には、もういなかったんです」
「……お母さんが亡くなった理由は?」
問いかけに、ミロの足が止まった。
「……あれ? ……思い出せない」
肉親の死因を忘れてしまったショックからか、ミロは今にも泣き出そうとしていた。慌てて私は謝り、今の話はつとめて忘れるように言い聞かせた。
しかし、奇妙な話だ。私は五百年も生きた経験はないから判断できかねるが、変化のない五百年間で、楽しかった思い出がこうも都合よく抜け落ちるものだろうか。
反芻し、想起し、楽しかったころの気分を少しでも長持ちさせようとするのではないか。
先ほど彼女の部屋で読んだ奇怪な表紙のお芝居を思い出す。
あの台本を読んだ時、私は見えざるなにかに、心がどこかに誘われるような気分でいた。
彼女にも、そういうたぐいの外的な悪意のある"何か"に、記憶を抜き取られているのではないか、という、平素の私であれば絶対にしない飛躍的な推論が浮かび上がってきた。
ここは私の常識が通用しない異世界である、ということを前提に思考し、記憶の欠損はそういうものによるという可能性が捨てきれないことを、私は理解した。
ひとまずその問題を置いておくことにして、私は次なる脱出への手がかりを探そうと思い、ホールから三つの扉と、脇にある二つの階段を視界に入れた。
「二階に何があるか知ってる?」
ミロに問うと、すらすらと、さっきまでの問答の詰まり方が嘘のように答えてくれた。
「二階にはお父さんの研究室と、お母さんの部屋があります。入れませんけど」
「入れない?」
「信じられないかもしれませんけど、透明な壁があるんです。それで……」
今さら、その程度の怪現象が信じられないはずがなかった。ゾンビに不老不死とくれば、それくらいはあってもおかしくないだろう。
「他に、このフロア以外で行けるところはある?」
なければ、正直に言って手詰まりだった。一度屋敷を出て、周辺を探索して歩こうと思っていたところだったが、ミロの返答はそこまで絶望的なものではなかった。
「えっと、玄関を表から見て右に行くと小屋があります。そこから地下室に行けるんです」
行けるのであれば、行ってみない手はない。玄関の扉を開け、塵の舞うテラスへ出て、屋敷に向かって右方向へ向かう。そこには小屋こそ朽ち果ててしまってなかったものの、地下への階段がぽっかりと口を開けていた。
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