第四話

 ひとまず、私は落ち着くことにした。

 体を起こし、手近ないすに腰掛けようとした。

 私が椅子に体重をかけると、椅子は情けない音を立てて崩れてしまった。とんだ欠陥品だった。

「……塵になった」

 椅子は、木片を残すこともなく、細かく崩れて塵と化した。木材がこんなふうになるのに、一体何年の時が経つ必要があるのだろうか。

 と、私が椅子だったものの残骸がかすかな風に飛ばされるのを見ていると、ふと目に留まるものがあった。

 足跡のようなものだった。それは小さなくぼみだったが、うさぎやネズミのような小動物ではないと断定できた。指は五本あり、人間の足の形によく似ていた。

 誰の足跡だろうか。割と最近できたもののようだが、あたりに別の足跡はない。ここから動かずに消滅すれば、こんな足跡を残せるだろうか。

 ふと、さきほど塵になった椅子の残骸を思い浮かべ、もし人間にもあの時間の経過が適用されたなら、どうなるだろうと思い至った。

 首を振ってその想像をかき消し、私は洋館の扉に目を向けた。

 調べるまでもなく、扉には紙が釘で打ち付けてあった。釘は鉄のようだが、鉄よりも光沢がある。……銀、かもしれない。わからないが、一応釘をポケットに入れて、紙を剥がして読んでみる。

 署名はなかった。ミミズののたくったような象形文字で、次のように書かれていた。


 <親愛なる同胞へ。

  私の居城へ招待しよう。永遠の命について語り合おう。

  私は仲間を求めている。もしその気があるのなら、ぜひ中へ入ってほしい。

  私はあなたの味方だ。>


 私の行動が監視されているような気がして、ついカメラを探してしまう。しかし、時代にそぐわないし、まずこの空間に電気が通っているとも思えなかった。

 扉にノブはついていない。あったと思しきところには、ノブが留められていたらしいねじの穴があけられているのみだった。

 しかし、そっと押してみると扉は開いた。

 このままテラスにいてもどうにもなるまい。私は一歩、洋館の中に足を踏み入れた。

 内部は薄暗かった。私の事務所とそこまで変わらない。これが、自然の明るさというものなのだろう。

 入ったところはホールであった。吹き抜けになっていて、二階の廊下からこちらが見下ろせるようになっている。天井からは控えめな大きさのシャンデリアが吊られていた。今にも落ちそうだった。

 シャンデリアの燭台には、一本のろうそくも立てられていなかった。

 紅のじゅうたんが敷かれた床は、相変わらず塵のようなものに覆われていた。もはや、私はそれが埃だとは思えなかった。

 注意深く床を見回していると、紙切れが落ちているのがわかった。拾い上げてみると、積もった塵が宙を舞った。軽くせき込んでから、その紙に目を落とす。

 紙質は、どうやら玄関の扉に打ち付けられていたものと同じもののようだ。コピー用紙ではなく、かといって厚紙とかそういうものでもない。私の二十数年の人生で触った経験は一度もなかった。

 例の文字で、まだインクは新しかった。


 <親愛なる同胞へ

  ようこそ、ここが私の屋敷だ。

  しばらくは、屋敷の中を見て回っていてくれ。二階には上がらないように。>


 この紙を読んで、私は何らかの手段で私の行動が相手方に見られていることを確信した。

 避けられないのであれば、甘んじて受け入れる必要がある。今のところ、二階に上がる必要性も感じられないので、私は一階を歩き回ってみることにした。

 ホールを今一度見てみたが、奇怪な調度品が多いだけで、新しい発見はなかった。どこか古臭い、現代とは遠くかけ離れた時代の印象を受けたが、断定できるようなものもなく、ホールを調べることはあきらめて、前方にある三つの扉へと私は注意を向けた。

 扉は玄関のそれと違い、かなり雑なつくりであることが見て取れた。雑、というより、劣化が激しいというべきだろうか。おかしな話である。外で雨風にさらされたものより、室内のもののほうが劣化しているなどということは、常識的にあり得ることではない。

 ここが夢ということを加味すれば、ありえないことではないのかもしれないが。

 私は、一番左側の扉に手をかけた。

 中はどうやら食堂のようだった。人の気配はない。私がそこに入ると、背後の扉がゆっくりと閉まった。閉じ込められていないか、念のため扉を再び開けてみるが、劣化の度合いにしては滑らかに扉は開いた。

 食堂の机はどれも朽ちており、試しに触れてみた部分から、ぐずぐずと崩れ落ちた。こんな場所で人が暮らしているわけがない。少なくとも、ここにはかつての人間の痕跡しか感じられず、現在も文化的営みが紡がれているとは全く思えなかった。

 机もどきを押しのけ、私はつながっている厨房へと無遠慮に立ち入った。

 厨房、と瞬時に私が判断できたのは、どうやら鍋のようなものが転がっていたためだった。もしそれがなければ、私はここを遺跡の石室か何かと勘違いするところだった。

 中世式の調理場だった。もちろんガスコンロなどというものはなく、かまどとピザ焼きのためのおおがかりなオーブンが設置されていた。炭がまとめて麻縄で縛られて、樽や食材の積もったかごといっしょくたに置かれていた。食材はうず高く積まれており、いまにも崩れてきそうだった。

 テーブルに乗った小さな鍋に目が向く。中に何かが入っているらしい。

 鼻をつまみながらふたを開けると、そこに入っていたのはスープだった。鍋のふたの裏に、また紙が貼りつけられていた。

 

 <よろしければ、召し上がれ>

 

 気になって、懐から先ほどホールで拾ったメモ書きを取り出す。そこに書いてある字が、この紙に書かれているものと筆跡が異なっているような気がした。荒々しく、日本語であれば達筆ともとれるあの字とは違い、こちらは繊細な印象を受ける。

 別人が書いた可能性がある。少なくとも二人に見張られているというのは、なかなかいい気分ではなかった。

 もちろんスープは飲まない。ただ、少し罪悪感を感じて、小声で「ごめんね」と謝っておいた。私は日本語で言ったつもりなので、もしかすると通じてはいないかもしれない。

 それはさておき、私は食材に目を向けた。

「腐ってない……」

 木材があれほど劣化している状況なのに、この食材たち――じゃがいもやらトマトやら人参やら、名前のわからない葉っぱやら――はまだ新鮮なままのように見える。私は手近なじゃがいもを手に取り、感触を確かめてから力を込めて割ってみた。思った以上に、じゃがいもというのは硬いものだ。

 不格好に割れた断面は、どうみても腐っているようには考えられなかった。

 かじる勇気はなく、私はそのままそれをスープの入った鍋の横におく。

 奥の樽を調べようとしたとき、なぜか野菜の山が崩れ落ちた。大きな音がして、思わず肩をすくめてしまった。

 しかし、大音量よりもさらに驚くべきものが崩れた野菜の中から出てきた時、この空間に来て初めて夢が覚めてほしいとせつに願った。

 出てきたのは死体だった。典型的なコックの格好をしていたが、肉体は生前の面影を一切うかがえないひどい状態になっていた。

 全身が震える。歯がガチガチと音を立てる。その音にすら怯え、私は力の入らなくなった腰から下をずるずると引きずりながら後ずさった。まさか、それ以上のことは起こるまいと油断していた私は、次の瞬間に起こった眼前の出来事を見て、完全に硬直してしまった。

 死体がむくり、と起き上がったのだ。

「ひっ!?」

 意図せず、口から短く鋭い悲鳴が漏れた。ぎちぎちと、肉片を垂らしながら、死体がこちらをゆっくりと向いた。

 いっそ飛びかかってきてくれたほうが、恐怖も軽減できたはずだった。だらしなく緩慢な動作で、死体は――いや、ゾンビは、私のほうに向かってきた。

 震えはいよいよ最高潮に達し、ゾンビの歩みよりも遅々としてだが、私は逃げようと必死に這いずり回った。お気に入りの服は塵にまみれて灰色に染まってしまっていたが、そんな些細なことを気に留めている場合ではなかった。

 調味料や食器がしまわれている棚の前で、私はようやく立ち上がった。それでもまだ錯乱していた私は、とっさに手に触れた瓶を、ゾンビめがけて思い切り投てきした。

 小気味いいガラスの割れる音とともに、中身がぶちまけられる。

 白い粉が命中した瞬間、ゾンビの動きが明らかににぶくなった。

 何はともあれ、ここにとどまる理由はない。一心不乱に走り、残骸を蹴り飛ばして、扉を乱雑に開け、勢いよく閉めた。めきりと嫌な音がしたが、とりあえず扉はその役割を果たしてくれた。

 肩で息をしながら、私は汚らしい床にへたりこんだ。自分の見たものが信じられなかった。

 あんなものが存在していいはずがない、と思い、そして直後に、これが夢であることを思い出した。

 リアルな感触や風景のせいで完全に忘れていたが、あくまでこれは夢なのだ。そうに違いない。

 そう自分に言い聞かせると、だいぶ動悸も収まってきた。よろめきながら立ち上がると、隣の部屋へ向かった。

 あれほどの恐怖体験を味わっても、私は結局目を覚ませないままだ。

 この悪夢は簡単に覚めてはくれないらしい。覚醒のため、隣の部屋を探索しなくてはいけない。

 真ん中の扉には、金属のプレートに『応接室』と書かれていた。英語だった。

 不用心に部屋に入ることはもうしたくなかったので、耳を扉に押し当て、中の様子を少しでも探ってみようとした。

 しかし、聞こえてくるのは風が扉の隙間を抜ける音だけだった。

 ノブを回し、私はその隙間から慎重に中を覗き見た。見た限りでは、危険があるように思えなかったので、ゆっくりと扉を開け、私は応接室へと足を踏み入れた。

 ほどほどの大きさの部屋だった。今いるのが扉の前とすれば、向かいの壁が窓になっていた。窓ガラスは割れており、そこから風が吹き込んできていた。窓際には花の植わっていない花瓶がいくつか並んでいた。

 左右の壁は、格調高い調度品が並べられた棚だった。真ん中に小さなテーブルとソファがあり、ここで客と話をしたのだと伺える。

 まず私は、中央のテーブルセットに歩み寄った。予想通り、ぼろぼろに朽ち果てている。原型を保っているのが不思議なくらいだ。

 テーブルの裏に、また一枚の紙が貼り付けられていた。


 <厨房でコックに会ったようだね。

  私の友人だ。ただ、神に従わなかったためにあのような姿にさせてもらった。

  あなたも同じ目に遭いたくなければ、神に背くようなことはしないことだ。

  たとえば、約束を破る、と言ったような。>


 暗に忠告しているようだった。私はまだ二階に行こうとは考えていなかったし、これを見て絶対に一人では二階に立ち入らないことを決めた。

 調度品を見て回ると、何が美しいかも分からず、実用性もなさそうなガラクタの中に、一つだけ使えそうなものがあった。

 歴史の時間に、資料集などで目にしたことがある。確か、マスケット銃というものだ。弾丸もそれが収められていた箱に付属していた。撃てるかどうかは分からないが、劣化しているようには見えず、鈍器としてもなかなかのリーチを誇るそれを、持っていかない手はなかった。健全な日本の小市民である私は他人の家のものを持ち出すことに若干抵抗を覚えたが、よく考えれば、夢の中での窃盗まで咎める人はいまい。私はそれを拝借することにした。

 それなりの重量があるそれをうまいこと肩にかけて、探索を再開した。

 しかし、この部屋にはもはや有用なものや情報は何もなかったので、部屋を出て、三番目の扉へ耳を押し当て、中で動くものがないのを確認してから、今度は勢いよく扉を開けた。

 私が目にしたのは、人型の影だった。その部屋はそれまでの部屋と比べて明るく、私自身が目を細めてしまったのと、逆光になっていたのとで、顔は判別できなかった。

 影が動いたのと、私の腹に鋭い痛みが走ったのが同時だった。

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