第三話

 その日はそれ以上の成果は挙げられなかった。

 廸子さんと定時連絡を済ませ、身支度を整えて寝る。空腹のときはコーヒーを飲むといいらしいが、カフェインで眠りを阻害されたくなかったので、夕食を抜いた空腹に耐えながら床についた。

 そんな折、夢を見た。

 また同じ洋館だった。昨日のものと同じだ。

 私はその洋館を、今度こそじっと観察した。

 ときの頃は、だいたい十四世紀だろうか。作られた建築様式や、劣化の度合いから考えれば、それくらいが妥当だと思われた。

 蔦に覆われ、一部の窓だけが開放されている。それらはすべて一階の窓で、三階建てのうち、二階と三階の窓には鎧戸が降りていた。

 私はそこに入ることはできない。昨日と変わらずそこにうずくまっている、胎児のようなものを乗り越えてまで洋館に立ち入ろうと思う気概を、たかだか一般人の私が持ち合わせているはずもなく、そのまま目が覚めるのを洋館の門の前で待ち、しっとりと小雨が降り始めたように感じられたあたりで、自分の汗が気持ち悪いほどになって目が覚めた。

 あの手帳に関わってからだ、と直感が告げていた。私の直感はそれほど当たるものではないが、まず間違いなく、今回に限ってはそれが正しいと断言できた。

 月光すら届かない丑三つ時に、私は暗い事務所へ出ることさえ億劫に思われたが、勇気を振り絞ってドアを開け、鍵のかかった引き出しから、例の手帳を取り出した。すでに老朽化は引き出しの外まで影響を及ぼしており、美しかった塗装は剥げ、鍵も腐り落ちて意味をなしていなかった。

 取り出すと、不思議と安堵の気持ちが押し寄せてきた。

 私の命は、今この小さな手帳が風化し、灰となったときに尽きてしまうのだ、といったような不気味な錯覚に陥った。

 一ページ、慎重にめくると、そこには変わらずミミズののたくったような象形文字が並んでいた。

 しかし、不可解なことが一つあった。私は、以前この文字列を見たときに、それを画像としか認識できなかったはずなのだ。

 今、私はこの文字列が何を表現しようとしているか、声に出して音読することも、人語に翻訳して書き写すこともできる。

 習得した覚えはないのに、この言語を解読できるようになっているのである。

「……ここに示すのは、神々への誓約である」

 一ページ目に書かれていたのは、どうやら表題のようだった。

 私は次のページをめくりたくなる誘惑に必死にあらがい、その手帳をもう一度、同じ引き出しにしまって、逃げるように寝室に飛び込み、掛け布団を被って眠りにつこうと努力した。

 結果的に、眠ることには成功したらしい。というのも、私は再び、例の洋館の前に立っていたからだ。

 今夜訪れるのは二度目の洋館を、なんともなしに眺めながら、私はあの手帳について考えた。

 いったい、あれはどういうものなのだろうか。あるだけで、時の進行を早めてしまうらしいことはなんとなく理解した。納得はしていないが、現に目の前で起こっているのだから、認めざるを得まい。

 そうなると、誰がどうやってあの手帳のような装置を作り出したのか、気になるのが人間のさがというものである。とうてい今の人類の技術力では作れるようなものではない。

 そんなものを、廸子さんの失踪した夫は持っていたのだ。

 もしかしたら、失踪した彼も、同じような夢を見ていたのでは、という想像に絡め取られ、私は洋館をじっと見つめることしかできなかった。

 声が聞こえた。しわがれた、ひどく不快な声だった。その声は、どうやら私に友好的らしかった。

「のう、そこの物珍しげなお嬢さん。わしと語らうつもりはないか。あなたもあの誓約を持っているのだろう? 我が信奉する永久の命の神についてだ」

 その声には、どこか哀願するような雰囲気があった。

 私は無意識にこう答えていた。

「いいでしょう。明日、館へ向かいます」

 言ってから、私は自らの放った言葉を反芻し、狼狽した。言おうと思って言った言葉ではない。言わされたような感覚に近い。

 しかし、しわがれ声はそんなことはつゆ知らず、私の返答に満足げに笑うと、そのまま聞こえなくなった。そして、私は再び全身にびっしりと汗をかいた状態で目を覚ました。時計を見ると、眠っていたのはほんの一時間程度のことだった。

 眠れない時間をコーヒーでごまかし、多少は明るい気分になれるように楽観的な娯楽作品に身をやつしてから、私は本日の業務を始めることにした。

 今日一番最初に確かめなければならないのは、廸子さんが私のような夢を見ていたかどうかだった。

 もし、この手帳の知覚にあるだけで例の夢を見るなら、彼女もまた見ていたはずだからだ。

 朝早いにも関わらず、廸子さんはすぐに電話に出てくれた。

「もしもし、道ヶ森です。お聞きしたいことがあるんですが」

『ええ、いいけれど。何かしら』

「夢を見ましたか。あの手帳を持っている間」

 私がそう聞くと、廸子さんが息を吸い込む音がスピーカー越しに聞こえてきた。深呼吸かなにかしているらしい。

『見たわ。……変な夢をね』

 廸子さんの見た夢は、概ね私が見たものと同じだった。

 あの手帳に関わるのは、よくない。

 そう思った私は、廸子さんに手帳はしばらく預からせてもらうと断って通話を終了し、昨晩しまいこんだ引き出しから、また手帳を取り出した。

 表題の書いてあるページをめくり、そして、解読できるようになった今、何が書いてあるか分かるであろう、本文の最初のページに目を通そうと、指を滑らせた。

 刹那、割れるような頭痛とともに、視界が暗転する。

 ささやくような声が、ありとあらゆる方向から私の精神へどす黒い悪意を流し込んでいるような感触に、たまらず私は絶叫した。

 ようやく視界が戻ってきたとき、私はありえるはずのない現象を体感していた。

 さっきまでいた事務所ではなく、そこは小雨で湿った石畳だった。

 地面には塵のようなものが薄く積もっており、倒れた私の野暮な服は、その灰色の塵にまみれて汚れてしまっていた。

 手には、さっきまで持っていたはずの手帳はなかった。

 今日、私は三度、この夢の館に来訪することになったのだった。

 夢で見たとおりなら、ここはあの中絶胎児のうずくまっていた門を超えたテラスだろう。眼前には、何度となく見せられた洋館が佇んでいた。

 ふと気になって、ポケットに手を伸ばす。

 一応探偵という職業柄、紙とペンは常に持ち歩こうとポケットに入れてあった。

 探ると、そこにはいつもつかっているメモ帳とシャーペンが入っていた。

 どうやらあの手帳以外の持ち物は持ち込めたようだ。しかし、スマートフォンの電源は切れていた。しっかり充電していた覚えがあったのだが。

「……どうしよう」

 誰に言うでもなく、私はそうつぶやいた。途方に暮れた時の私の癖だった。

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