第二話

 奇妙な夢を見た。普段なら、そんな程度の認識で済ませられるのだろうが、今回はそうもいかなかった。その夢を見た時、私は例の手帳を見た時と同じような感覚に襲われたからだ。

 悪夢、というわけではない。夢の内容は、それほど大したことはなかった。

 霧に包まれた洋館の入り口に、うずくまるなにかが鎮座している。引き寄せられるように、私はその塊へ近づいていった。

 それは、非常に言い表しにくい物体だった。物体、という表現は正しくないかもしれない。

 あえて言葉にするなら、というのが、私が今まで見てきた中でそれを形容するのに最も近しい表現だと思う。

 それに触れようとした時、誰かの声に呼び止められ、振り向いたところで目を覚ました。

 私はめったに寝汗をかかないタイプなのだが、今日は珍しく、パジャマもシーツもぐっしょりと濡れていた。

 着替えて出勤――といっても生活スペースから出るだけでいいのだが――すると、応接用のソファに見慣れた人物が腰掛けていた。

 助手くん、本名を名護なご誠司せいじという。私が事務所を継いだ時、父に師事していたという変わり者の少年だ。

「おはようございます、所長」

「ああ、うん、おはよう。なんで戻ってきたの?」

 最初に記した通り、助手くん(呼びなれているので、そう呼ばせてもらうことにする)には給料が払えないため、五月の頭から解雇して、別の仕事をしてもらっていたはずだった。

 私がそう問いかけると、助手くんはにんまり笑って、

「そろそろ所長が困っているころだと思って」

と言った。

「困ってないといえば嘘になるけどさ、解雇された仕事場に無断で顔を出すのは、あんまり褒められたものじゃないなぁ」

 と、私はコーヒーを淹れながら冗談めかして言った。今の仕事が終わっても、多分満足な給料は出せない。タダ働きさせるのは気がひけるので、できれば今回の件は、私だけで済ませたかった。

「確かにそうですね。今度から連絡するようにします」

「そういうことじゃないんだけどなぁ」

 言いながら、私は二杯のコーヒーを持って、助手くんと向かい合うように座る。一杯を助手くんの前に置き、もう一杯をぐっと半分ほど一気に飲み干した。急速な覚醒を体感しながら、二週間ぶりの会話を楽しむことにした。

「最近は、仕事はどうなの?」

「ライン工って言うのもなかなか楽しいものですよ。頭脳労働だけじゃなく、肉体労働にも対応できるようにしておかないと。このさき何があるかわかりませんからね」

「ごもっとも、だね」

 頭脳労働に甘えた結果が現状の私の事務所である。営業なくしてビジネスは成り立たないのだ。

 この事件が片付いたら、営業にも力を入れようと誓うのであった。

「所長の方こそ、どうなんです? 探偵でやっていけそうなんですか」

「うーん……」痛いところをついてきた。やっていけるかと言われると断言することはできない。

「まあ、今は一応、行方調査の依頼があるのよね。手帳を残して失踪した夫を探してほしいんだって」

「へぇ、うまくいけばミステリーですよ、それ」

「こら、人が困ってるんだから、そんなこと言わないの。それに、多分大したことないと思うよ。あ、そうだ。確かめたいことがあったんだけど、見ていく?」

 話しているうちに、昨日の粉のことを思い出したのだ。

 助手くんは首肯した。私は昨日の買い物袋から、小さい箱を取り出す。

 デジタル顕微鏡だ。パソコンにつないで、ものを拡大して見ることができるというやつ。

 さっそく昨日の粉を薬包紙の上に撒いて、顕微鏡を使って見てみた。

「うーん……」

 いまいちよくわからない。助手くんは、しばらく画面に出された画像とにらめっこしていたが、首を横に振った。

「なんの変哲もないですね。この粉は麻薬とかじゃないと思います」

 興ざめだ。麻薬取引の痕跡かと思ったのに、どうやらそうではないらしい。まだわからないが、失踪の手がかりにはならなさそうだ。

「どちらかというと、これはただの……灰ですね。風化したなにかだと思います」

「風化?」

 何かがひっかかった。風化、という言葉に込められた多角的な意味のうちの一つが、昨日の段階で私が体験した事象のどこかに当てはまるような気がしたからだ。

「ええ、何かがもろくなって崩れて、細かくなったといいますか」

「それは、その。時間が経ったから、ってこと?」

「あ、そうです。長年経過して、ボロボロになって崩れ去ったみたいな」

 思い出した。

 時間の経過。何年も放置したかのように積もった埃。

 私は鍵のかかった引き出しから、慌てて手帳を取り出した。

 やはり、その表面には分厚く埃が積もっている。いや、これは埃とも言いづらい。見れば、木製の引き出しの中は侵食され、一センチはあったであろう側板は内側から削り取られ、引き出しの中には灰のようなものが積もっていた。

「な、なんですか、これ」

 助手くんが私の懐を覗き込み、そして怯えるように言った。底知れない恐怖が芽生えた。この手帳は危険だ。

「読んじゃだめ。これは依頼人の持ち物なんだから。今は職員じゃないでしょう?」

 そうごまかそうとしたが、激しく老朽化した引き出しと、異常に堆積した塵を見られては、言い逃れはできない。

 結局、助手くんも手帳の中身を見ることになってしまった。

 目を通してすぐ、彼はそれを閉じ、私に突き返してきた。

「すみません、それ、よく読めましたね。僕には到底ムリですよ」

 私もすべてを読んだわけではない。数ページめくって、この手帳の謎めいた恐怖を体感しただけだ。なんとなくきまずい雰囲気になり、私は助手くんを半ば追い出すように帰し、本日の調査へと出向くことにした。

 今はまだ九時ごろだった。この分なら、例のファミレスの店員にも聞き込みができるかもしれない。

 苦労して新宿駅から脱出し、件のファミレスに来てみれば、さすがに昼時ではないからかずいぶんと空いていた。

 中に入ると、一人の小柄な男性店員が駆け寄ってくる。高校生だろう。平日のこんな時間からバイトに精をだしているのもどうかと思うが、年下で助かった。

「いらっしゃいませ、一名様でよろしいですか」

「ええ。あの、ちょっと聞きたいんですけど、いいですか」

 案内しようとする足が止まる。戸惑っているようだ。

「すみません。私、こういうもので」

 使う機会がないと思っていた名刺を出して、渡す。店員は、それを見てどう返せばいいのかわからなくなっているようだった。

「おとといの夜に、この写真の男を見ませんでしたか。似ているとかでも構わないんですが」

「え、な、なんですか、警察ですか」

 探偵と名刺に書いてあるだろうに。

「いいえ、私は探偵です。人探しをしているんですよ」

「は、はぁ……自分は見ていませんが。そもそも自分、おとといはシフト入ってないんで……」

 そうですか、ありがとう、とお礼を言って、私は席に座った。それから、注文を取りに来た店員にも聞いて、その店員の気配りで店長にも会わせてもらえることになった。

 イタリアンが中心の店だ。せっかくなので、朝から贅沢にいかせてもらおう。

 今日の食費はこれでパーだな、というネガティブな気分を抑え込んで、私はエスカルゴとマルゲリータピザとチキンとジンジャエールを注文した。

 豪華な昼食が終わると、先程の店員の案内で、控えていた店長に会った。優しそうな初老の男だ。身につけているシェフのせいたか帽子が、洒落た雰囲気を倍増させていた。

「すみません、突然電話もなしに」

 アポを取っておけばよかった、と思ったのは、さっき入り口でアルバイトの店員に声をかけてからだった。

「いえいえ、構いませんよ。この時間は退屈ですから」

「そう言っていただけるとありがたいです。ところで……」私は懐から名刺と写真を取り出し、両方ともを見せる。店長はそれを手にとって、名刺を懐にしまい、写真をまじまじと見つめた。

「この写真の男を、おととい見かけませんでしたか」

「……はて」

 そう言ったのち、店長は考え込んでいる様子だった。

 しばらくして、店長が再び口を開く。

「見ましたね。私がちょうど、ほら、横手に路地があるでしょう。あそこはゴミ捨て場になっているんですが、そこに行ったときに。路地の前で、呆然と立っていたんですよ。何かブツブツ言いながら。気味が悪かったのでそのまま放っておいたんですが。夜の八時くらいですかねぇ」

「……路地の前で、ですね。ありがとうございました」

「あの、この人がなにか」

 当然の問いかけだろう。しかし、あまり仕事のことを他人に言いふらすべきではないような気がした。

「いえ、仕事で頼まれているだけで。申し訳ありませんが、この写真のことは内密にお願いします」

 そう言いおいて、私はそのファミレスを出た。会計は千○二七円だった。

 いよいよここら一帯が怪しくなってきた。私はその路地が見通せる範囲にある店を徹底的に調べ上げ、聞き込みを実行することに決めた。

 通りには、タバコ屋、本屋、教会、そしてコンビニとがある。一番手っ取り早いのはコンビニだろうと踏んで、聞き込みを実行したのだが、運の悪いことに当日シフトに入っていた店員は、今日出勤していないそうだ。

 次に向かったのは本屋である。どうやら個人経営らしく、気難しそうなおじいさんにびくびくしながら話しかけたが、その甲斐はなかった。お詫びの気持ちも込めて、前々から欲しかった推理小説(もちろん探偵が主人公のものだ)を一冊購入し、急ぎ足で店を出た。

 タバコ屋の店主は気さくな人だった。しかし、どうやら人の話を聞くのが苦手なようで、ひとしきり自分の話をしたあとで、私の写真を見て「知らねーなー」とそっけない返事をした挙げ句、一パック四百円のたばこを押し売りしてきそうだったので、隣の教会へ駆け込んだ。

 何事か、と教会の人にじろじろ見られたが、そんな視線に臆している場合ではない。とりあえず、祈っている人、暇そうにしている人に話を聞いてみると、ここにきてようやくあたりクジを引いたようだ。

「見た見た、見たよこのおっさん」

 そう言ってくれたのは、若い男性だった。私より少し年上くらいだろうか。こんなチャラい見た目でも神の御心が分かるのか、はなはだ疑問だった。私のような品行方正な人間にもさっぱりというのに。

 何にせよ、その証言は興味深いものだった。

「なんかね、消えたんだよ、この人。いきなりさ」

「消えた? 失礼ですが、酔っていらっしゃったわけではないんですよね」

「おうおう、俺は酒は飲まないからね。この人、俺が外の空気吸いたいなーと思って外出たら、そこのファミレスのところの路地に立ってたんだよ。時間はだいたい八時くらい。で、俺が一瞬目を離したら、もういないの。めっちゃ足が早いか、路地の中に駆け込んだかどっちかだね」

「ちなみに、目を離したのはどれくらいの時間ですか」

「えー? ちょっと猫が目に入ってそっち見ただけだし、一秒もないんじゃね?」

「……そうですか。ありがとうございます」

「ねぇねぇ、ところでさ。ちょっと連絡先、教えてくれない? 俺、キミみたいな女の子と遊んでみたいなって思ってたんだよね」

 たばこの押し売りよりたちが悪かった。私は別段男に興味はないので、丁重にお断りして教会を出た。

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