探偵道ヶ森成月の手記

成月/なる

第一話

 事務所兼自室の散らかったマンションの一室は、唯一の光源である北側の窓からの陽光によって、ほのかに照らし出されていた。

 それでも、電球の光量にすら及ばない。電気代節約のために家じゅうの電子機器を止めているのだ。照明器具も例外ではなかった。

 仕事が来ない。もともと安定した職ではないにせよ、さすがに世の中が平和すぎる。浮気専門の探偵というわけではないのに、猫探しの依頼すらこない状況が、五月に入ってからすでに二週間続いていた。

 助手くんに支払う給料があるはずもなく、彼にはしかたなく別の仕事に就いてもらうことにした。もしかしたら帰ってこないかもしれないが、まあ、構わない。

 片手間にやっているアフィリエイト広告と、副業のイラストの仕事で何とか家賃もろもろ必要なぶんは支払えているが、このままでは普通に定職につかないとまずいことになる。

 父の事務所を興味九割自立心一割で継いだはいいが、もとより地域と交流もなく、人見知りも激しかった(今はそうではないと思っているが)私は、あまり人に信用されているわけではないらしく、所長が私になったとたん、今までのような客足はぱったり途絶えてしまった。

 向いていないと言われればそれまでだが、父の財産を私がみすみすつぶしてしまうのもしのびなかったし、店じまいできないままなのだ。

 いつもの難題に直面し、人前に出しても恥ずかしくない部屋着のまま、事務所の机でうーうーうなっていると、古いインターホンが鳴った。そういえば、インターホンだけは電源を切っていなかったことをぼんやり思い出す。

 宅配ではない。頼んだ覚えがないからだ。となると、宗教勧誘か、ともすれば来客か。

 恐る恐る私がドアを開けると、立っていたのは三十代くらいの女性だった。

 きれいな人だった。じっと見ていられないほどのまぶしい美貌に、こっぱずかしくなって、私は目をそらしてしまった。何日もしゃべっていなかったせいでかすれてしまった声で応対する。

「……どちら様で?」

「あら……すみません、ここって道ヶ森探偵事務所で合ってるわよね? 所長さん――道ヶ森悠一さん、いらっしゃるかしら?」

 女性は、部屋から顔を出した部屋着の私と、真っ暗な部屋を見て怪訝そうに眉を顰め、言った。

 父を知っているらしい。何か比べられているようで、私はすこしむっとしながら早口で返す。

「父は今ここにはいません。戻っても来ません。引退いたしましたので。今の所長は私です。御用なら父に取り次ぎますが」

 私の剣幕に、女性は当惑したらしく、疑惑の表情から混乱の混じったあいまいな笑顔に変わった。私も呼吸と心のコンディションを整えることにした。落ち着いて、対応することにしよう。

「ごめんなさいね、女の子が出てきたのが意外だったから。所長さん……ああ、悠一さんの娘さん?」

「ええ、そうです。あの、父に何か? ご依頼であれば、よろしければ私がお受けしますが」

 私がそういうと、女性はしばらく逡巡したあと、軽くうなずく。

「じゃあ、お願いしようかしら。……この手帳の持ち主を探してほしいの」

 そういうと、女性は手に持った小さなバッグからビニールに包まれた黒い手帳を取り出した。

 女性は真城まき廸子ゆずこさんと言うそうだ。年齢は四十歳。だいぶ若く見えるし、服からしても見た目には結構気を遣うほうらしい。部屋着で応対している私は……あまり考えないことにしよう。勤め先は都内某所のスーパーで、パート勤務。美しい以外は、特にこれといった特徴のない主婦だった。

 私も自分の名を名乗る。いい名前ね、と言われた。世渡りのうまそうな人だった。

 依頼内容は、いなくなった夫を探してほしい、というものだった。

「で、人探しですか」

 冷やしてあった麦茶を出しながら、私は切り出した。

「そうなのよ。……この手帳、夫が持っていたものなんだけどね。私に『あとで見せてあげるよ』って言って見せてくれて」

「それで?」

「待ち合わせをすることにしたの。何せ、まだ仕事が終わってなくてね。で、終わって待ち合わせ場所にいったら、この手帳が落ちてて、夫の姿はどこにもなかったというわけ」

 なるほど。少し珍しいような気もするが、まあ一般的な失踪事件だろう。手帳と一緒に受け取った、失踪した旦那さんの写真や名刺なんかを見ながら、私は気になったことをぽつぽつと質問する。

「警察に届けは出したんですか?」

「あぁ……その、まだなのよ。出そうと思っているんだけど、どう言ったらいいのかわからなくて……あの、あなたのお父さんには、以前お世話になったことがあったから、また頼もうかと思ってここに来たのよ」

「へぇ、そうなんですか」と私は気のない返事をした。届を出す出さないは当人の自由だ。警察はほかの仕事で忙しいとふんで、暇な探偵に頼む気持ちもわからなくはない。

「いなくなったのはいつです?」

「昨日よ、昨日の午後十時くらいかしら。確証はないけど……」

「場所は?」

「新宿の、えっと、ここね」

 差し出されたレシートを見ると、私も知っているファミレスの住所が書いてあった。

「ここの、横に入ったところに狭い路地があるんだけど、そこで、って言ってたのよ。いつまで経っても来ないから、会計を済ませて出たら……」

 そこまで言って、廸子さんは困ったような顔をした。それが若干の悲しみを帯びているのに気づくのに、少し時間がかかった。

「わかりました。見つけられるように、できる限り努力いたします」と、私。正直、猫よりも難易度は高そうだった。あまり自信はないので、思わず言葉を濁してしまった。

 廸子さんははかなげに笑って、

「見つからないかもしれないのね」

 といった。

「まあ、そういう可能性もあります。あまり遠くにいかれると、個人の捜査力では限界がありますし……」

 いいわけがましくなってしまったが、事実である。この事務所には、今私しか所属していない。助手くんを呼び戻してもいいが、それでも二人だけだ。

「わかったわ。夫の、そうね、痕跡だけでも見つけてほしいわ。何かあったら連絡してちょうだい」

 私はしっかりとうなずいた。

「いちおう、毎日定時に連絡いたします。午後七時くらいでいいですか」

「なら、そうね。それで構わないわ」

 連絡先を聞き、前金と一日当たりの手数料の額の相談をしてから、事務所を去る彼女の寂しげな背中に一礼し、私は奥の寝室に引っ込んだ。

 仕事用の簡素な服に身を包む。学生時代から、出かけるときに愛用していた服だ。父には「野暮ったい、女が着るような服じゃないな」と言われていたが、別にどうだっていい。動きやすいし、私が気に入っているのだ。

「……とりあえず、ここに行ってみますか」

 独りごちて、私も事務所の鉄扉を開けた。こもった空気から解放され、初夏のほんのりとした熱気に包まれる心地いい感覚を数秒堪能してから、実に久しぶりの仕事に、どこか胸を高鳴らせていた。

 事務所は東京郊外の地価が安いところに立っている。苦労して新宿まで行くと、十数分ダンジョンのような駅の中で迷ってから、目的のファミレスまでたどり着く。

 昼時らしく、ファミレスは盛況だった。この分では、ここの店員に話を聞くのは今は難しそうだ。

 聞き込みはあきらめ、私は脇の、言われていた路地に行くことにした。

「うわ、くさ……」

 かなりにおいがきつい。何か腐ったようなにおいをかいで、私は一瞬、死体が腐ったときの腐乱臭か、などと身構えてしまうが、それは杞憂だとすぐにわかった。どうやら、残飯がそのまま放置されて腐っているだけらしい。

「ここでいなくなったのよね」

 こんなところで待ち合わせなんて、なかなかにクレイジーな夫妻だ。においに耐えながら、足跡か何かないか、と地面を凝視してみる。

「……あれ?」

 何かが変だった。路地全体の地面の色は、黒々とした道路のアスファルトとは反対に、白みがかっているのだ。

 思い出されたのは、小学校の校庭によく引かれていた白線だ。ちょうど、あれに使う石灰やらをアスファルトの上にぶちまければ、こんな感じになるんじゃなかろうか。

「……持って帰って調べてみるか」

 石灰かそうでないかはすぐにわかる。

 私は、探偵らしく持ち歩いている手のひらサイズのジップロックに粉を一生懸命拾い集めて入れると、いろいろな店をはしごして目的のブツを手に入れ、結局日が暮れてしまったので帰ることにした。

 まあ、初日にしてはそこそこの収穫だったんじゃなかろうか。前金五万、一日一万の契約には見合うものと信じたい。

 この白い粉が、待ち合わせしたときに撒かれていたかどうか、廸子さんに聞いてみた。

『……確かに、撒かれていたような気がするわ。暗かったけど、そこだけ白かったもの』

「ありがとうございます」

 これが失踪にかかわっているかもしれない。私はかなりわくわくしながら、事務所に戻った。

 そういえば、手帳の中身を見ていなかったな、と思い立って、ソファに腰掛けて手帳を取り出してみる。

「……?」

 妙に、埃っぽかった。受け取ったときはこんなに埃が積もっているということはなかったはずだ。

 十年ほど放置すれば、これくらいの埃は積もるかもしれない。黒かった装丁が灰色になるほどの埃が、受け取ってから八時間程度でへばりついていた。

 ともあれ、手帳の中身を見てみることにした。

 私は愕然とした。手帳の中身は、まるで意味のない文字の羅列に見えた。

 なんというか、文章、というよりは画像としてしか認識できない。エジプトの象形文字に似た、ミミズが百匹くらいのたくったような筆の運びは、一種の芸術のようにも感じられた。

 しかし、私はそれをいつまでも見ていることはできなかった。落ち着かなくなる。言い知れぬ恐怖を感じて、私はその手帳を閉じ、鍵のかかる引き出しにしまい込んだ。

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