10.『一二月、夜と螺旋と投身と、僕と君で先輩と後輩で。』


 行く当てもないまま、ふらふらと。何かに憑りつかれたように、もしくは自身が憑き物となったように、夜の街をさまよい歩く。体感一〇分に一回は、スマートフォンを開いて、通知を確認していた。もちろん、後輩からの。体感だから、実際の時間間隔とはズレが生じている。特に人間は一般的に、辛苦に堪えている時間は長く感じられ、僕はその一般から外れていなかった。一〇分どころか、一分に一回は確認していたかもしれない。自室を飛び出して一時間を超えたあたりでそれが自傷行為だと気づくと、頻度はぐっと下がった。生傷を自らナイフで敷衍するのも馬鹿馬鹿しいし、胸が詰まって息苦しくなるだけだった。ナイフで刺しているのに窒息死してしまうなんて、笑えない冗句だ。


 通知を待っているだけでは何も始まらないので、こちらからも五件だけ、間引きして言葉を植えた。五件の未読が連なっている。メッセージ画面上部で固定された後輩の本名。三年、きっと短くはない期間――僕らは互いを先輩、後輩と呼び合った。裏を返せば、一度も本名に触れたことはない。だって、都合のいい友達だったから。そういう名義があるんですね、そうですか。――ただ、それくらいの興味なさげのスタンスで向き合っていた。利害関係で成り立っていたんだから、双方における個人情報への反応なんてそんなものだろう。どうでもよかった。


 どうでも、よかったけれど。どうでもよく、なくなりそうだ。


 通知欄は相変わらずつっけんどんな態度で素知らぬふりをしてくる。未読の先頭一文字がすり替わることは、簡単な作業のはずなのに一向に機械は無視をする。機械のせいにしてしまう自分がまた、憎かった。彼らは画面越しに結果を表示するだけに過ぎないのだから。


 ふらっと、前触れもなくスマートフォンから通知音があればいい。あればいいという期待は、時が経てば経つほど僕の心を重くする。通知欄は期待を裏切って、しんと静まり返っている。心が鉛だった。道路のアスファルトにサンダルを穿いた足が飲み込まれてしまいそうで、怖くなって近くにあった公園へと逃げ込んだ。


 住宅街の一角、孤島のようにぽつんとあったその児童公園には、クジラのようでところどころクジラっぽくない、なんというか曖昧な怪獣の遊具が孤島に形成された湖に取り残されたかのように設けられていた。昼でこそ、その大柄なフォルムやビビットな色が子供たちの遊び場の中心になっているんだろうが、真夜中の遊具は別物だ。僕の目の前で大口を開いているさまは、獲物を発見して目を血走らせている肉食獣だった。獣の視界からそそくさと逃れるとさすがに目線でこちらを追ってくることはなかった。たかが一遊具だな、ちょっと……ほんのちょっとだけひっくり返りそうになった足で砂を散らし、悪態をつく。安心しきったところで自分の足がガッチガチに固まっていることに気づいた。


 公園の入り口横に申し訳程度に置かれたプラスチックのベンチに腰を掛ける。色褪せたコカ・コーラの広告が背もたれに印刷されている剥げた赤色のそれは、一昔前からそこにあるような佇まいをしていた。座ったら、どっと疲れが湧き出てきて、尻が前に滑ってだらけた座り方になった。両手を放り投げて、心もついでにぶっきらぼうに放り投げようとして、隣にあった黒い布地と触れる。「きゃ」と僅かな悲鳴。僕は慌てて居住まいを正す。ベンチの左端に先客がいた。人の形をしている。深くフードを被った顔は小さく、リップが塗られていない、乾いた唇だけが外界を覗いていた。


「あなたは」


 黒いパーカーから乗り出した唇が声を発する。若くて、やや高めの整った女の声だ。


「夜が好きでこんなところを徘徊しているんですか? 私と同じように」

「……ただ、夜が好きだったらこんなところには来ないだろうし、そもそも僕は夜が嫌いだ」

「じゃあ、どうして?」

「途方もない探し物に疲れて、何もかもがどうでもよくなっているだけだ」

「果報は寝て待て、ってよく言うじゃないですか」


 左右の足を交互にぷらぷらと揺らしながら、パーカーの少女(暫定的に少女としておく)は気ままな提案をしてきた。


「案外、探し物って身の回りに転がっているものですし」

「今すぐに必要なモノなんだ。一刻を争うほどに」

「……そう、ですか。だとしたら、休んでいる暇はなさそうですね。さっさと探しに行ってらっしゃい、します」

「必要な、モノ……、いや」


 言葉は一歩間違えれば凶器だ。間違った言葉は間違っていない意思をも曲解させて伝達させてしまうのだから、難儀だ。


「――必要な、“人”だ。大切だったことに今更、気づいたんだ」


 今頃、後輩は――僕の探し人は、父親と新しい母親の間で温かい家庭に包まれて、父子の間で失われていた月日を取り戻しているのだろう。僕に向けて作っていた家庭料理を家族にもてなし、大学の話や友達の話、好きな人の話、綺麗に満ちた彼女の周囲のお話を楽しげに話しているのだろう。もちろん、その対象は家族であり、当然僕は含まれない。今まで僕に向けていた幸せな日常が、ある日突然ぱたりと止む。後輩の幸せそうな顔を横で眺めて心の底から笑えていた日々がセピア色を帯びていく。僕と後輩の関係性は表面上こそ恋人並みに濃く見えるけれど、実際のところ、コンドームの薄っぺらなゴムよりも希薄だったのかもしれない。肯定したくはない、でも肯定せざるを得ない。彼女の居場所が家族だったとしても、僕らはいつだってばったり落ち合える可能性を秘めていた。だけど、あの日、一一月一二日、江ノ島から帰って二人で眠りに落ちた後から一向に連絡が取れないし、取ろうともしなかったのだから。僕らはなあなあに日々をすり潰して、その関係の終わりさえも有耶無耶にした。


 暗闇に両目が順応する。茫洋としていた少女の輪郭が際立っていく。身体の起伏が少なく、座高も低い。高校生やひょっとしたら中学生に見紛うかもしれない。彼女の羽織っていたパーカーは存外にオーバーサイズだったようで、両手は袖からちょこんとはみ出た指先以外はすっぽりと布地に覆われていた。両の五指の先だけ、忙しなく乾布摩擦で温めていた。ただでさえ小柄だというのに、うなだれた背中は悪事がバレて反省を強いられている犬猫のような愛くるしさを包含していて、僕は思わずさすってやりたくなる気持ちを押しとどめるのに必死だった。


 一二月も終わりが近づいていて、冬は猛威を振るい始めていた。パーカーだけじゃ体が冷えてしまうことだろう。パーカーの裾から生えた太ももやふくらはぎは一枚のタイツすらも穿いていない。無防備で外気に曝された両足には鳥肌が立っていて、なんともいたたまれない気持ちになる。


「そのままじゃ、風邪引いちゃうんじゃないかな。足、寒そうだよ?」

「お気になさらないでください。パーカーの裏地にはカイロ貼っていますし、それに綺麗な脚は見せつけてこそ、ですから」


 存外口は強がりだった。脚はがたがた震えていて正直ものなんだけどな。少女の小さい口がむすっと『へ』の字で結ばれていた。何じろじろ見ているんですか、と謗りたいところなんだろう。口先だけしか覗かせないのに、コロコロ積み木が転がるように表情を変える少女が滑稽で、思わず鎌をかけてみたくなった。


「カイロ貼っているんじゃ火傷しちゃうんじゃないのかな、低音火傷」

「……それだと、パーカーの下に何も着ていないように聞こえるんですが。貼るカイロは衣服の上から貼れば、火傷になりにくいですよ?」

「ハハ、確かに。目ざといね、君は」

「笑い事じゃありませんよ、ワタシじゃなかったらセクハラの容疑で現行犯逮捕。裁判所は満場一致で終身刑を執行しますから。拘置所で退屈な余生を過ごすがいいんです」

「わ、分かった分かった悪かった。悪かったから、ポケットから防犯ブザーを出すな、紐を引こうとするな!」


 ――僕の抵抗もむなしく、ブザーの紐は鳴らされ、思わず耳を塞ぎ、ベンチの上で体を丸めて縮こまる。


「なーんて、冗談ですよ。次はないですからね」


 耳元で囁かれて目を見開く。耳を塞いでいた両手を離す。公園は先程通り、しんと静まり返っていて、怪獣の滑り台が異界から召喚された獣のような未知の異彩を放っていた。緊張が解けるとベンチの上を尻が滑り、背もたれにだらしなく身を預けた。


「どうです、驚きました?」

「ああ、最悪だよ」


 癪に障った。ムキになって追撃する。


「――で、実際は裸パーカーなんだよね?」

「今度は追放って」

「声色が狼狽えているね、もしかしたら図星だった?」

「図星じゃ……!」

「だったら、僕に一度指摘されたときに否定をしているんじゃないかな、おまけに冷たい目線を送ってもいい。でも、君は狼狽えるだけ狼狽えて、真実はそっちのけじゃないか」


 相手を将棋盤の隅に追いやった王将の気分に浸る。どうだ、黒パーカーの先客よ、八方塞がりだろう? しどろもどろになりながら、少女は思考をフル回転させ反駁意見を述べようとしたらしいが、次の瞬間、ベンチの左端からこちらへと身を乗り出し、キッと鋭く睨みながら幸福宣言をした。案外チョロい。


「パーカーの舞台裏はあなたのご想像にお任せしますから、あほ、ばか、まぬけ、女たらし」


 酷い言われように苦い顔を隠せなかった。


 少女は立ち上がると、つま先立ちで目一杯背伸びした。「んーっ」と気持ちよさそうな嬌声を漏らす。くびれた腰からパキパキと関節が鳴る音が連なる。相当長い時間、同じ場所で座り続けていたのだろう。


「座りっぱなしってなかなかどうして疲れるんですよね。いつも通りだったら渋々帰ってしまうんですが、せっかく話し相手がいることですし……。どうです、私に付き合ってくれますか?」

「……ああ、そうだね。どうせ、今夜はこのまま歩いて帰る予定だったから。付き合ってあげる」


 僕らは怪獣スライダーの公園から抜け出した。幾ばくも無いところで図書館が見えてくる。僕と後輩が通っている大学に併設された施設。洋風のレンガ壁が近づくにつれて、黒パーカーの背中の動きがどっと遅くなる。そして図書館の入口を前にして、ついにその足は静止した。首を上げ、フード越しに建物を見つめている。


 瞳が何を映しているのか分からない。だから、浮かべている表情がほとんど読み取れない。目は口ほどものを言うとはよく言うけど、横に並んだその口元は『へ』の字で固まっているし、いっそフードを脱がしてしまいたい衝動に駆られていた。やらないけど。


「空蝉って」

「空っぽの蝉で、この世の人間だったよな」


 自分でも自然なくらいに唇が先走った。さすが、物知りですね――少女は素直に感服しているようだった。八月の一幕を思い出す。わざわざ分厚い大辞林を引いた単語だ、そうそう忘れない。でも、蛇足は口に出せば冗長だ。僕は潔さを演出するためにあえて、当然だろう? ――と、虚勢を張った。嘘だ、全部後輩の受け売り。脳髄までも侵食して、離してくれないあいつのせいで、おかげで。言葉で膿んだ罪悪感を、また言葉にしてしまえば蛇足になる。膿は酷くなる。わざとらしく唇の端を吊り上げ、無理矢理その場を繋ぐ言葉を吐き出す。


「まるで、今の僕にぴったりの言葉だよな、空蝉って」


 その発言が冗長であることは明白で、内心後ろめたい気分に陥り、唇を噛んだ。お前、それじゃあ同情を求めているのと変わらないだろう。自分可哀そうなんですアピールか? そうですね。辛いですね。って声をかけてもらいたいだけなんだろう? 被害者気取りもいい加減に、


「半分は正しくて、半分は違いますね」


 自分への悪態が混濁を極めてきたところで、少女の言葉が一条の光となって僕を現世に引っ張り上げる。


 ふふ、と可愛らしい微笑が漏れる。快い笑われ方だなと思った。


「セミの抜け殻っていう意味もあるんですよ、空蝉って。でも、今のあなたはこの世の人間よりかは、魂だけが独り歩きしてる空っぽな抜け殻みたい」

「……ハハっ、酷い言い草だな」


 皮肉のような、しかし正鵠を得た回答に僕は思わず噴き出した、笑い飛ばした。たがが外れたように笑って、笑って、堪えようとして、やっぱり無理で笑って、笑って、体力のない五臓六腑五体が笑い疲れると心から鉛のような重さがなくなって、軽く弾んでいるような気分になった。酸欠になった身体を深呼吸して、リフレッシュさせていたら、パーカーの背中が再びゆっくりと歩きだす。二歩、三歩。


「あ、そういえば喉が渇きました」


 彼女は振り向きざまに口元を緩めてそう言った。それ以上もそれ以下もなく、ただそれだけ。まったく厚かましいやつだとぶつぶつ愚痴を言いつつ、首は近くの自販機の方を向いていた。


 コーラを二本、三〇〇円。がしゃこん、がしゃこんと連続してボトルが打ち付けられ、取り出し口が静かになる。規則的に移り変わる自販機の電飾に照らされて、僕らはボトルに口を付けた。濁流の勢いでのどを潤していく炭酸の痛さと、甘ったるさが心地いい。でも、


「冬の飲み物ではないですね……くしゅん!」

「温かいの飲みなおす?」

「いや、いいですけど……どうして、真冬にコーラなんですか」

「なんとなく」

「テキトーですね……」


 なんとなく? こちらもまた嘘だ。図書館に通りかかったからに他ならない。八月の夏日、自室の節電を兼ねて図書館に赴いたはいいけど、課題は長続きしない。勉強に飽きたら館内ロビーで炭酸飲料を飲み干し、暫くうたた寝する。絵に描いたような、怠惰極まりないキャンパスライフに呆れてしまう。直す気もなかったけど。


 少女は結局その場で飲み終えて、空のボトルをゴミ箱に投げ捨てた。僕はというと、飲むのが遅いので半分残したまま、キャップを締めた。僕の飲食スピードを顧みない黒パーカーはすたすたと先を行く。僕は、ボトルの首根っこを人差し指と中指で挟んで、ただ無心についていく。


 大学前の飲み屋街を通り抜け、最寄り駅に到着すると今度は線路に沿って下っていく。ここら辺一帯は駅と駅の間隔が狭いため、一駅や二駅程度だったら、終電の後でも歩いて帰れる。幸い、少女の向かう方向へずっと歩いていけば、一時間以内に僕の部屋の最寄り駅まで着く。終電を終えた線路横に二人分の足音だけが跳ね返る。大学から線路沿い、下りに一駅分は僕と後輩にとって、思い出で飽和した道だった。


 時刻は午前一時半を回っていた。イブは終わっていた。一二月二五日、サンタクロースは子供にしかプレゼントを送らない。僕はもう、子供というには大人に近すぎる。


 大学生同士のクリスマスは、お互いがお互いのサンタになってプレゼント交換したり、普段より背伸びしてお高めの夕食で特別な日を演出したり様々だが、僕と後輩が行き着く先は性行為だった。セフレ様様である。聖夜ならぬ性夜とか、性の六時間とかスラングで揶揄されるけど、僕らのセックスに特別感はないし、いつも通り夜通し凹凸を擦って気持ちよくなるだけだ。イチャイチャだらだらゆっくりと挿して抜くこともあれば、獣のような激しい交尾を重ねることもある。その日の気分で行為を切り替えて、夜通し二人分の欲望を消費する。


 後輩はイチャイチャの方が好きで、ここ半年で激しい交尾は片手で数えるくらいしか行っていなかった。それより前はもっと激しかったかもしれない。若さの衰えか。まだ二〇代前半だけど。


 駅と駅を結ぶ線路の中間地点あたりで唐突に道が開ける。線路の反対側にコンクリ打ち放しの建物がそびえたつ。街の文化会館だ。誰でも使える多目的ホール。通称があった気がするが憶えていない。夏の暑い日に涼みに来たことがあった気がするが、それ以外では施設自体を使ったことはない。だけど、ここは僕のお気に入りの場所の一つだった。ビルのようなつまらない外観ではない。有名な建築集団に設計を依頼したらしく、シンプルだけど目を引くデザインの建物は大学近辺でもそこそこ名の知れたスポットとなっていた。


 コンクリの建物は四階、屋上まで含めて五階層あり、横に曲線を描いて長く伸びている。その両端には緊急時の避難経路にもなり得る螺旋階段が取り付けられていた。

 螺旋階段は螺旋階段でもこの螺旋階段こそが、僕と後輩の出会った場所だった。螺旋階段という『聖地概念』ではなく、正真正銘の『聖地』。僕ら生誕の地。


「なあ」

「なんですか」

「ちょっと寄っていいか?」

「……名案ですね」


 片言のキャッチボール。僕らはその螺旋階段を上る。たん、たんと足裏がコンクリートをたたく音が反響して耳朶に触れ、鼓膜にこびりつく。あの日、白昼のさなかに思いをはせる。当時の恋人から解放され、独り身になった日。僕はお気に入りの風景をぼぅ、と眺めるためにこの場に立ち寄った。夕方だった。雲量は二か、三か。快晴に限りなく近い晴れの、青空から夜空へと生え変わる瞬間の空のおかげで過去を綺麗に洗い流したつもりになった僕は、帰り際に目じりを赤く腫らした後輩と出会った。


 反響が途絶える。陰っていた視界が一斉に開ける。回想に耽溺しているうちに屋上に到着していた。真夜中の濃密な藍色を凝縮した空には雲一つなく、夜空への干渉を一切受け付けない澄んだ空気が渦を巻いて吹き付ける。  


 しかし、満天の星空を望むには、ここらじゃ明るすぎた。


「ここ、好きなんですよね、私」

「奇遇だね、僕もだ。でも、深夜に来るべきではなかったなあ。あんまり面白みがないし」

「面白み?」

「人が少ないし、点いてるものって電灯がほとんどじゃん。人の営みが感じられないというか。単純に夕景が好きなだけかもしれない」

「面白みがない、つまらない。……確かにその通りかもしれませんね。こんな闇の中じゃ、人の顔がよく見えない。表情はぼやけるし、それに」


 首がこちらへと振り返る。順応した両の瞳でもフード奥に描かれた点と線を映すことはできない。三次元世界なんだから点と線だけでモノが形作られているわけじゃないのは重々承知だが、どんな器官も構造も、遠目で見れば点と線で構成された二次元の産物と大差ない。


 大差ない、はずなのに。


「それに――涙はきっと光に照らされてこそ、その真価を発揮したんでしょうから」


 少女の、筋の整った鼻の上で宝石のような二対がきらめいて、こぼれたように見えた。


 刹那。渦巻いていた空気が上昇気流を巻き起こす。ぶかぶかな黒パーカーのフードが顔を隠すのを諦め、静かにはためいて、揺らぐ。浮つく。脱ぎ捨てられて空転し、背中へと戻っていく。


 真っ白な月明りを遮るものが一切なかったのは僥倖だったが、この先僕は一生月明りを憎みそうだった。


 かつて、と言っても一か月前までは艶めいていたアッシュグレーの髪がきしんでいて、清濁を構わず飲み込む闇のように深く色づいていた。前髪も切っていないのだろう。睫毛にかかるくらいに伸びていた。黒い瞳からは生気が失われ、ひと夏を乗り切れなかった蝉の死骸を思わせた。


「先輩」


 懐かしい響きだった、たった一か月聞かなかっただけなのに。声を上げようとして、喉は震え掠れていて使い物にならない。そんな事情はお構いなしに、パーカーの少女は――後輩は言葉を続けた。


「日記、送れなくてごめんなさい」

「僕も送っていなかったし、おあいこだ」

「なんだ、そうだったんですね。てっきり私が恋しくなって毎日毎時間毎分毎秒送ってくるかと思っていましたよ」

「僕のキャラではないだろ、それ」

「えへへ、そういえばそうでしたね。愛を向けるのも向けられるのも嫌いでしたもんね」

「……、」


 優しい言葉尻にどことなく棘を感じ取る。被害妄想だ。悪い夢を見た気になっているだけだ。


「髪、前のようにつやつやじゃなくなっちゃいました。伸ばしっぱなしになっちゃいました」

「……明日、というか今日か、切りに行こうか」

「先輩とですか?」

「僕は伸ばしているからいいかな。君が綺麗になるのを待ってる」

「ふふ、お世辞でもありがとうございます。先輩のために綺麗になれるのなら、私、頑張っちゃいますよ」


 まあ、もう頑張れるか分からないんですけどね。


 独り言のように、寂しく呟かれた一言は諦念に満ち、鬱々としたトーンで放たれた。


 後輩は屋上のフェンスに近づいた。鉄格子を両手で掴み、頭を擦りつける。「ああ、ああ……ああ」と、悲壮を嘆息交じりに吐露しながら。快活で、小悪魔で、僕を包んでくれた強い後輩はこの場にいなくて、ただそれだけの理想が胸を激しく蝕んで、呼吸するのも苦しくて、目頭が熱くなっていくのをたたたた忘れたかった。だから、彼女の華奢な肩を引いて、こちらへと寄せた。かつて、後輩が僕にしてくれたように僕は、彼女の近くでいることを選ぶ。きっと僕の選択はエゴに満ちていて、正解か不正解かの二択じゃ、どちらを選んでも不正解だった。選ぶのが遅すぎた。制限時間を超えてテストに答えを書き連ねることが不正行為のように、僕が解答を放つ前にタイムはオーバーした。ゲームもオーバーして、今この瞬間はアディショナルタイムというよりはペナルティに近い。


 選択をしなかった代償。愚か者に提示される罰のかたち。


「この一か月、何があったのか言ってみてくれないか?」

「嫌です」


 即断、息を吞む。

 小柄な体躯から放たれる希薄に気圧されそうになりながらも、僕は次の言葉を繋げる。


「どうして?」

「言ったらきっと先輩は同情するだろうから。仮初めの優しさで言い繕って、今だったら私の言うわがままを何でも聞いてくれるような気がしているからです。オマケのように願いを叶えてほしくないんです。そんなの、長続きしないに決まってる、そうでしょう?」


 違いなかった。いや、違いないというのは『オマケのように願いを叶えてほしくないんです』という言葉への肯定だ。僕だって、妥協で君の夢を叶えてやるつもりはないし、僕は君の夢を叶える前に、僕の願望を果たさねばならない。僕が君の先輩だからって、いや先輩だからこそ、譲れないものはある。


「同情も何もなしだ。僕は話を聞くだけ、だったら事実が転がっているだけだ。貴も賤も、良し悪しも天秤の上で吊り合わせるより先に、天秤ごと一切合切燃やしてしまおうか」

「――それ、かっこつけたつもりですか?」

「ちょっとでもかっこつけたと思わせられたら勝ちだね」

「何も勝負していませんけどね、先輩」

「ほら、あれだよ。試合に負けて勝負に勝つって。あれ、おかしいな。試合も勝負もしてないな」

「ふふっ」


 ぎこちなく固まっていた後輩の表情がようやっとほころぶ。


「不戦敗、不戦勝。そういうことでいいと思います。いや、何が?」

「何なんだろうな、どうでもいいや」

「至極、どうでもいいですね、ほんと。先輩は先輩なんですから、もっとしっかりしてくれないと、後輩である私に示しがつきませんよ?」

「重々理解してるよ、もうとっくに示しがついてないことくらい」


 冗談はここまでにしようと、線引きを決めて僕は自分の顔が引き締まるのを肌で感じていた。表情菌がピンと張って強張るんじゃなくて、わざと力を入れて真剣な顔を演出する。


「なあ、後輩。本当のことをありのまま、誇張も虚偽も被害者面も偏見も先入観も、マイナスとプラスを介入させる余地もなく、ありったけに事実を話してくれないか?」


 逡巡はない。僕の愛すべき後輩は首を縦に振った。


「私が日記を送れなかった理由、そして電話が繋がらなかった理由。――それは」


 綴られるのは惨たらしい現実だった。

 彼女は実家に帰るとすぐに父親からスマートフォンを奪われてしまったらしい。


 最後のメールは帰宅直前に送信したものだった。その時点で後輩は新しい家族に対する期待に溢れていたように見えた。少なくとも、文面は。


 でも、実家に着けば前々から話が進んでいた父親の愛人は実家にいない。買い物に出かけているのか、と問えば首を振られたとのことだ。愛人との交際は、どこかで襤褸が出たらしくおじゃんになったらしい。最近ではなく、ずっとずっと前にはもうとっくに。ここ数か月、後輩は僕の部屋に入り浸っていたし、実家との連絡もほとんどしていなかったため気づけなかったのだろう。


 ではなぜ、彼女が実家に召集されたのか。この時点で、薄々悪い方向へ展開が進んでいることは察していたし、せめて僕の考えた最悪の結末に至らねばいいと切に願っていた。


「ところで先輩、今更ですがパーカーの内側見てみますか?」

「……っ」


 呼吸が苦しくなる。虚数空間からぶん殴られたような不可解でずどんと重い衝撃で平衡感覚が狂いそうになる。利き足で踏ん張り事なきを得るも、僕は胸をまさぐり、気分の悪さを押さえつけんとしたまま動けない。俯いたまま、至近距離でギリギリ聞こえるくらいのか細い声が喉の奥から這い出る。


「み、……見る。じゃなきゃ、分からないことだからね」

「別に、見なくてもいいんですよ。私は事実を淡々と述べればいいだけなんですから。むしろ、そっちの方が好都合ですかね、先輩にとって。偏見がなくなるので」

「見ないわけがないだろう、馬鹿」

「へへっ、馬鹿がお互い様ですよ、お互い様」


 軽口をたたきながら、彼女はパーカーの胸部でぷらぷら揺られるファスナーに手を掛けた。そして、布地を引っ掛けないように、恐る恐る開ける。胸元が輝かしき月光でくっきりと浮かび上がった。ああ、最悪だ。確かにそこに描かれた絵図は、偏見に満ちた目で凝視してしまいそうだったし、最悪で凶悪なことに、僕の創造した最低最悪の展開に至ってしまった。胸が激しくざわつく。後悔の雨が瞼を流れたい衝動を訴えてくる。僕はそのエゴイズムと自分勝手を寸前でひねりつぶして、涙を振り切った。


 後悔した、は死んでも言っちゃいけないし、言いたくもなかった。


「どうですか、先輩。……今にも泣いちゃいそうですね」


 文化会館の屋上、僕と彼女の至近距離を邪魔する者は一切存在しない。だからこそ、彼女の腹部にできた真一文字のミミズ腫れを嫌なくらい目に焼き付けた、焼き付いてしまった。やがて、パーカーの袖からするりと、腕が抜けだす。鼠径部には青あざがちらほらと浮かぶ。丁寧に剃られた股には布一枚すら隔てる壁がない。太ももを、真新しいドロドロとした液体がほろ、と垂れていく。一気に吐き気が込み上げてきて、僕はその場で膝を崩した。喉の奥から酸の匂いが迸る。吐き散らす。昼から食にありついていなかったのは不幸中の幸いか。少量の胃酸がコンクリの床を汚す。えずいたら、内臓を麻縄できつく縛られているかのような鋭い痛みに見舞われる。呼吸が浅く、速く繰り返し、僕の映す世界はスロー再生を余儀なくされた。


 ――後輩は上下一式、下着を身につけていなかった。要は裸パーカー。字面は甘美だし、去年や一昨年の冬も、彼女は同じような服装をしてくれた。もちろん、寒空の下ではなく暖房の効いた僕の部屋の中という条件付きだが。


「ねえ、先輩。直視できませんか?」


 何も答えられないでいると、彼女は悲しそうに笑った。


「できませんよね。そりゃあ、あんな可愛らしく先輩の上で腰を振っていた女の子が別の男の――それも実の父親に汚されちゃったんですし」

「……ちが、う」

「それじゃあ、後悔、ですか? 先輩は自責の念を感じているんですか? 『僕が後輩の愛情をまっすぐに受け止めていればこんなことにはならなかったはず』とか」

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………、」


 沈黙。次に繋ぐ言葉を見失い、思考は路頭をさまよっていた。地面についた両腕は寒さと非力のせいで小刻みに震えていたし、嘔吐のせいで体内の温度調節がすこぶる下手になっている。


 息を吸う、音。

 感情が吐き出される、叫び。


「笑わせないでくださいよ。先輩が斜に構えているか否かなんてどうでもいいんです、どうでもよかったんです! 私が勝手に父親に騙されただけ。私、ちょっと期待しちゃっていたんですよ普通の家庭に。温かくて明るい家族ってやつに! 母さんは遥か昔に私を置いていなくなっちゃって、残されたのは母さんに捨てられた酒癖の悪い父親とまだ幼かった私だけ。毎日夜になったら、酒の匂いをぷんぷんと臭わせたあの男が帰ってきて、家事雑事、一つでも欠けていたらぶん殴られて、あざはいっぱいできて。逃げようとしても捕まるし、児相は使い物にならないし、学校では怪我のせいでいじめられるし、教員は真実を隠し通して上っ面の正義アピール。散々でした、最悪でした。だから、独り立ちできる瞬間までじっとじっと我慢して、大学生になってすぐ、家を抜け出しました。自分だけのお金じゃ、ずっと遠くの大学に行くには金が足りないから、実家から遠く離れることはできませんでしたし、アパートに住む資金を繰り出すためにはまだまだお金が足りない。だから、すぐに一人暮らしをしている男の子と付き合って、そこに入り浸るようにしたんです。元彼氏の話です」

「――で、セックスができなかったせいで元彼氏に振られた。ちょうどそこで通りかかったのが僕だったんだろ? 知ってるさ、大体は」


 虚偽の誇張だった。大体? 大嘘だよ僕は表面的にしか知り得ないし、知る意欲もなかった。だからたった今、後輩に鼻で笑われるんだ。巨大な巨大な侮蔑の意を投げつけられて、押し潰されそうなんだ。


「私が元彼氏に振られたのは、セックスができなかったから。確かにそうです、腐るほど先輩の耳には捻じ込みましたし。じゃあ、私がセックスできない理由は? 処女だったから? ただそれだけだと思いますか?」

「それだけじゃ、ないのかよ」

「知らないですよね、だって教えていませんし」


 僕と後輩の関係性は、都合がよければそれ以上も以下もない。都合が悪いことに目を瞑るのは双方お得意のようだった。全知全能の予感に浸っている無知無能×二。教えていること以上の詮索はしなかった、曖昧な関係のツケが回ってきたのだ。


「私がセックスできなかったのは、そもそも私が彼にこの身体を見せられなかったからですよ」

「……確かに、言っていないな」


 言わずもがなだったから。虐待で生まれた心理的外傷は気付くのに遅くなる、あるいは気付かずに見過ごすかもしれない。が、肉体的外傷ならば傷が失せない限りは証拠が肌に刻まれている。そして、ここ三年、すなわち僕と同棲を始めたあたりから彼女の身体から傷が癒されていった。それはもう奇跡的なくらいに跡形もなく。


 だから、忘れていた。『よくある複雑な家庭環境』と一言で片づけていた。愛人を実家に呼び寄せて、娘への応対をおろそかにする父親。ただのバツイチ子持ち父親だったら後輩はわざわざ一人暮らしの大学の男の家に泊まってでも、実家に帰らないことはなかっただろう。つまり、複雑な家庭環境で括っていたものの中身が想像以上に悲惨だったに違いない。


 後輩は僕との都合のいい関係性を利用して処女を喪失し、その応酬として自分の逃げ場を作ることができたのかもしれない。自由を手に入れる賭けに貞操をベットする後輩は、冷静に考えなくとも狂っている。でも、ひとたび逃げ場を手に入れることで身体の傷を無くして、再び元彼氏の前に臆面もなく踏み込むことができる。


「なるほど、僕は今の今まで道具だったんだな」


 独り言のつもりだった。僕は口を拭って、いい加減立ち上がることにした。吐瀉物の先にあった黒パーカーを掴み、振り上げる。肩に吊るした。ふわり、と凍てつく風に紛れて後輩の体臭が香る。ああ、たった一か月なのに遠く昔の記憶になってしまったかのようだ。ただそれだけの事実が胸中に木枯らしを吹かせた。


「私が元彼氏にモノのように扱われちゃったのは、先輩をモノ扱いしていた罰、なのかもしれないですね」


 返答が得られたことで、独り言は独り言じゃなくなった。


 罰。その解釈はすんなり受け付けられた。互いに銃口を突き付けあって、罪を懺悔しているんだ。

 終わってしまったことを悔いても、その場で足踏みするだけなのに。


 僕らは愚かを極めていて。だからこそ、この曖昧な関係は長続きしてしまったのかもしれない。


「私の伝える事実はここまでです。父親がとうとう私を慰み者にしちゃいました。私は抵抗できないように拘束されて、為すすべなく実家に監禁されていました。だから、大学にも一切行けていません。……これじゃあ、先輩のように留年してしまいますね、えへへ」


 口だけの平坦な笑い声は憔悴しきっていて、いつ意識を失ってもおかしくないような儚さを孕んでいた。


 裸体を空っ風に曝した後輩は、フェンスにもたれかかる。身体が縮こまっていたので黒パーカーを放り投げた。すかさず彼女は手に取り、羽織ってほっとした顔を見せた。


「でも、監禁されていたんだう? なんで今日は外に?」

「計画犯行ですよ、もちろん。父親が用事で長い時間、家を空けざるを得ない日を狙ったんです。私を監禁してから一か月近く、彼は家をほとんど留守にしませんでしたから。今のご時世、ネットで金を稼ぐことも、金を費やすこともできるから、かえって私が抜け出す暇はないんですよ」


 親子って、こんなに歪んだものなのだろうか。知らないし知りたくもない世界に、ぶわっ、と全身の毛が総立ちする。


「床下の地下部屋に閉じ込められて、朝昼晩の食事を与えられ、その場で犯される。猿轡のせいで悲鳴や嬌声を上げることはできませんでしたし、外に助けを求めるのは不可能でした。――地下部屋を塞ぐ蓋に穴がぽつぽつ開いていなければ、私はきっと泣き寝入りしていたでしょう。外の音が聞こえたおかげで、父親が不在になる時間を把握できたんです」


 あとは、家に人の気配が亡くなった瞬間、光のほとんど届かない地下部屋で拘束具を壊して、空間を閉ざしていた蓋を破った。しかし、自分の衣服は父親の手によってどこかに隠されていた。仕方なく、手近にあった黒い大き目のパーカーだけを羽織って、家を飛び出し、今に至るという。


「逃げ出したはいいけど、この先どうするつもりだよ」

「あはは、全然考えていませんでした」


 無機質な笑い。


「もう、私は疲れましたよ」


 彼女は。頭一つ分高い鉄格子のフェンスをよじ登り、飛び越えて、その先に着地した。

 手すりに捕まったまま、右足を宙に伸ばし、踏み出すふりをする。もちろん、足の

先には地面が見られない。


「泣いても笑ってもこれが最後です、先輩」

「何、を」


 死が一歩先に横たえているにもかかわらず、彼女は平静を崩さない。

 とっくに平静じゃないのかもしれない。

 諦めた表情の後輩は、今すぐにも生きることを丸ごと放り投げてしまいそうだった。


「二人一緒に溺れましょう? 先輩にその気が少しでもあるんだったらきっとそれはウィンウィンな関係なので。だって、私たちは最初から都合のいい関係だったんですから」


 そうだ、都合のいい関係なんだ。その先に進もうとしなかったのだ。頷くしかないのだ。


 でも。僕の身体は事実を頑なに否定しようとする。首を振る。我を忘れて首を振っていると、苦しさが一気に涙腺を滅茶苦茶にした。


「え、違うのですか? 何で首を振るんですか、泣いているんですか。泣きたいのはこっちです」

「ごめん、ごめん……」


 訳も分からず許しを請う。悪いことをしたわけでもないのに。失われようとしているものへの恐怖。


 生きるのを諦めて、僕の前から一生失われる、大事な大事な後輩。


「先輩がずっとずっと斜に構えて、いいや、ビクビクして恋愛はできない恋愛はできないってほざいていたから苦しかったんですよ?」

「い、……いつから、だって、君は、元彼氏のことが」

「私だって知りませんよばーか。いつの間にか先輩が好きだったんですよ、理論も論理も介在できないんです。私だっていつから好きだったのかはわかりません。元彼氏なんかそっちのけでこんな、大きな気持ちを持ったのは、初めてだったんです」


 ああ、罪だ。愛を受け止めきれず潰れた後悔をいつまでも背負って、時にはトラウマを盾にして、彼女の本意を蔑ろにしてきた罰だ。


「苦しかったんです。泣きたかったんです。でも泣いたら先輩はもっと離れてしまうでしょう。面倒くさいのが嫌いで重いのが怖いんですから。だから、仮面を貼り付けて満面の笑みで友人を装っていようって。でも、いつかボロが出るってわかっていて、ボロが出て、想像通りの反応をされて、傷ついて、ここには居られないから」


 僕は。


「…………なあ、後輩」


 涙が依然とめどなく溢れる。馬鹿みたいに泣きじゃくる。嗚咽も混じるし、先輩以前に男としてみっともないと謗られてしまいそうだ。でも、それでも。視界が涙の雫で激しく歪んでいても、手を伸ばす選択をしたことはこの先決して間違いではなかったと、自信を持って口にしたかった。


 やせ細った後輩の腕を絶対に話さないように力強く掴む。


「僕は今更、君に好きだとか愛しているだとか薄っぺらい言葉で告白をするつもりもないし、その資格はないと思っている。僕が君にもっと早く居場所をあげればよかったんだ、とか、君の移り変わった思いを自分のエゴで拒否するんじゃなかった、って一生後悔して生きていくんだろうなと思っているっ!」


 ああもう、告白なんて一度も二度もするものじゃない。できればしたくない。


「でも……、それでもっ!」


 まーた馬鹿を見るかもしれないんだぞ。心の中で過去の僕がニタニタと下衆な嘲笑を浮かべていた。


 知るかよ。それでも、いいんだ。


「僕は君と一緒にいたい。一緒にいなきゃ、狂ってしまいそうだ。君がいなかった一か月で、もうとっくに狂ってしまったけどなぁ! 元彼女とセックスしたって埋められるようなものじゃなかったんだよ、君がいなきゃ嫌だ。先輩だから、先輩なりに後輩に指図してやる、ずっとずっと隣にいてくれっ、いや、一緒にいろっっ!!」

「先輩」


 彼女は、一歩前に踏み出した。






「そんなわがまま、今更遅いですよ、ばーか」






 振り向きざまに映った悪戯っ子の笑みに心が底冷えしていく。

 僕の手は容易に振りほどかれ、後輩はコンクリ打ち放しの建物から垂直落下し――。



















「一緒にいたい、じゃないでしょう? 愛すべき後輩は、弱気だと愛想つかしちゃいますよ?」
















 腕を掴まれた。半分、宙に投げ出されながら、後輩は僕の腕をしっかりと握っていた。そこそこ力があるし、現状、彼女の全体重は僕の右腕に集中しているため、おい待てもげるもげるもげる! 


 痛みで訳が分からないまま、少女の身体を引っ張り上げる。後輩は再び、フェンスの鉄格子を掴むと、腕一本を支えにし飛び越えた。バランスを崩した僕はというと、コンクリ床に尻もちをつく。べしゃり、と着地点で液体が跳ねる音があった。うっ、これはもしかしなくても。僕が先程吐き散らした胃液の残骸だった。


 意気消沈し呆然となりながら、地面に身体を預けた僕の頭上、しゃがんだ後輩がにこにこにやにや不敵な笑みを浮かべていた。その黒い綺麗な目には一か月前と同じような輝きが取り戻されている。


「ねえ先輩。ここで問題なんですけど、私が今一番言ってほしい言葉ってなんでしょう?」

「……へ?」

「惚けないでくださいよ、それとも難問ですか? 確かに難問かもしれませんね先輩には」

「あの、もしかして怒ってる?」

「さあ、どうでしょう? 解答次第では許してあげなくもないです」

「…………大好きとか、愛してるはナシな? さっき散々、言えないって断言したから」

「ちぇっ。ちょっと期待してたのに」

「期待してたのか」

「当然ですよ、だって好きなんですもん」

「好きなの、隠さないんだ」

「何を今更。それに、私たちの仲じゃないですか」

「ただの都合のいい友達では、なくなっちゃったけどな」

「それでいいんです、それがよかったんです」


 ふへへ、と気が緩んだ笑みを向けられて、ドキリとする。

 ああもう。

 本当に。

 我が愛すべき後輩には、全くもって敵わないなあ。先輩の面目丸潰れだ。


「なあ、後輩」

「なんですか、先輩」


 深呼吸。熱く火照った顔を冷ましながら、一か月前からずっと言えなかった合言葉を、紡ぐ。


「おかえり。そして、ずっと一緒にいてくれ、……居てくれないか?」

「ただいま帰りました。――完璧です。後輩の私に免じて、ずっと一緒にいることを許しましょう」


 彼女の手を取って、僕は起き上がった。

 目じりに残った涙を拭いて、僕らは再び歩き出す。




 帰ろうか、二人一緒で、あの部屋へ。

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