9.『一二月、いつか、好きだった人。ありがとう、さようなら。』

「ワタシ、好きな男ができたの」

 一二月二三日――クリスマス・イブの前日。唐突に元彼女は切り出した。丸時計はじきに正午を指す。にもかかわらず、カーテンは閉め切っていて薄暗い。暖房で温まった部屋はしかし、乾燥しきっていて肌が潤いを欲していた。


 行為が終わり、ぐったりとベッドでうつ伏せになる。話半分で耳を傾けた。君の恋の話なんて、もうどうでもよかった。過去の人は今のラブドールだった。


「面影が貴方に似ていてね、だけど君よりも小胆じゃない。ワタシの愛を一身に背負ってくれる、そんな気がするの」

「結局、君の中から僕への愛は尽きていないわけだ」

「ふふ、そうかもね。じゃなかったら君に似た男の子を好きになるわけがないもの」

「よく懲りないよね。散々僕に振られた挙句、身体だけを求められているのに」

「それもこれも貴方の顔とスレていなかった頃の性格の賜物でしょうね。DV夫に虐げられる駄目な嫁みたいね」

「違いない。愚かだよ、君は」

「貴方も大概でしょう?」

 

 鼻で笑われた。心外で、思わず眉を顰めた。


「……過ちを繰り返しているそうじゃない」

「後輩の話か? どうして君が知っているんだよ。一言も喋った憶えはないけど」

「貴方のことなら何でも知っているわ」

「そりゃ、君らしいな。新しい男が可哀想じゃないか」

「まだワタシのモノになったわけじゃないからいいの。それよりも後輩ちゃんのことよ。――貴方、またなんかやらかしたの?」


 枕に顔を埋めた。黙秘権を行使。ラブドールには関係ないだろう。黙秘の対価として払われたのは嘆息だった。


「ワタシと同じように扱うのね、新しい女にも。つくづく、性根が腐ってる」

「君がいけないんだろう? 君の愛が重かったから」

「さあ、どうかしらね。世の中の男女はそんなものだと思うけど」

「普通の女は、振られた男の新しい女について詮索しない」

「普通の基準は人それぞれだから」

「目を逸らすなよ」


 僕の苦しみを知らないくせに。背負われる側の気持ちも知らないくせに。おもむろに舌打ちが飛び出した。元彼女は「はいはい、怖い怖い」と無感情に告げる。告げて、僕の髪を手櫛で梳きはじめた。


「背負うのはお互い様なんじゃないの?」

「背負える限度があるだろう? そして、一度キャパオーバーで潰れたら、暫くは懲り懲りになるものだ、そうだろう?」

「さあ?」

「……君への問いとしては野暮だったな。恋に恋して、愛に愛する泥沼の住人」

「酷い言われようね。でも、恋に恋しているわけじゃないわ。だって、ワタシは今も貴方が好きなんですもの」

「……諦めなよ、不幸になる」

「諦めているわよ。だから代替品を探したんじゃない」


 女の心が分からなかった。愛の指向性が複雑に絡み合っていた。無性に口が寂しくなって、僕はベッドのヘッドボードから手探りで電子タバコを見つけ出す。吸った。先端がチカチカ光っている。充電切れらしい。無用の長物となった筒をぶっきらぼうに元の位置へたたきつけて、寝返りを打った。女の乳房が目と鼻の先で垂れていた。


「口が寂しいんでしょう? 吸えばいいじゃない、赤ちゃんのように」


 したり顔が癪に障ったから、僕は大きく実った果実にしゃぶりついた。くたくたな五体を無理に起こすとそのまま女を押し倒す。細長く、男が力をこめれば折れてバラバラに崩れてしまいそうな腕を組み伏せて、逃げ道を無くす。馬乗りになって、女の身体を貪る。まだ、足りない。胸の奥底で埋めく、正体不明の寂しさを埋めるためにはまだまだ全然足りない。


「どうして、そんな顔して迫っているのよ」

「――え」

「貴方、今にも泣きそうよ。そんな気持ちで迫られたってワタシは気持ちよくなれない。きっと、君もそう」


 ぐうの音も出なかった。組み伏せていた腕を離す。女の細腕に男の力で圧迫された跡ができていた。目を逸らす。下半身はたちまち力を失い、僕はベッドの上でくずおれる。マットレスに沈んでいない横顔で、過去の女の厚化粧が塗りたくられた顔が近づくのを呆然と見ていた。女の柔い唇が触れることはなかった。彼女の口腔内からミントの風が吹き付ける。


「寂しいんだ。後輩がこの部屋から出ていってから、寂しさが日に日に増していく」


 返される言葉はなかった。一言や二言の助言はこの際、何もかもが戯言に聞こえてしまうだろう。


 僕が後輩に対して抱いていた感情の正体について、一人になった部屋で何回も何回も考えに耽った。恋愛感情を除外して、友愛と性愛で塗り固めた僕の、都合のいい親友。彼女は僕の中でどんな立ち位置にあったのだろう。セフレだった。セフレ以上恋人未満という常套句、僕の逃げ道。絶対に過ちは繰り返したくなかった。愛の総量を天秤にかけるのが怖かった。だから、なあなあな日常にずぶずぶと沈んでいった。今では、沈んでいったのではなくて、本当は溺れていたんじゃないかと思い直すようになっていた。重い愛を吐き散らした後で、必要だったのはドライな関係、というよりはまず一方通行じゃなくて、かつ軽めの関係だった。恋人じゃなくて、友人がよかった。後輩が求めたものは一に性行為への慣れ、二に自分を一人の女性、一人の人間として見てくれる人間。利害はおおかた一致していたから、僕らは関係を続けることができた。


 利害関係は、破綻した。してしまった。一方通行な感情の芽生え。愛の重さが垣間見えたこと。何より、後輩が本来の居場所に帰れたこと。明るい家庭に戻った彼女は、すぐに僕のことを忘れて、顔がいい男、金を持っている男、性格が整っている男、性欲を充分に満たしてくれる男――何でもいい、誰でも、とっかえひっかえするだろう。後輩の身なりは、僕と釣り合わないくらいに美しく、可憐だったから。


 都合のいい、友達。

 利害関係の一致した共同関係。

 精液と体液で架けられた橋を綱渡りして行き来する関係。


 だから、些細なきっかけでぱったりと途切れてしまう。そんな前提の上で僕らは日々をすり潰していた。因果応報という言葉が実に合う。あるいは。


「大事なものは、失ってから気付くものなんだなあ」


 しみじみと、そんな金言が胸に沁みる。脳裏で回想が処理されていた。後輩と過ごした三年間が、あたかも走馬灯のように。死に瀕したことがないから、当然走馬灯なんてものは口先だけの空想だけれど。それでも、僕は死にそうな目で、死にかけた海馬の海を泳いだ。傍から見たら、代わり映えのない平々凡々な日常の数々。関係を持った日のこと、半同棲を始めて、ずるずると爛れた日常を綴ったこと。デートのようなこともしたし、旅行もした。二人で明かした夜は数えきれない。食卓でくだらない会話をするのが好きだった。しょうもない戯言に突っ込んでもらうのが楽しかった。たまに苦しくなったときに背中をさすってもらって、どれだけ救われたか。


 目の奥の奥から火傷しそうなくらい熱い激情がほとばしる。我慢ならなかった。枕に顔を埋めて、声を殺す。泣いているところだけは昔の女に見られたくなかったし、聞かれたくなかったから。背中を上下に優しくさするその手には、きっと一生敵わないだろうな。


 ――なんて口で言うのは今更、憚られるので言わなかったけれど。


 さめざめと枕に向かって泣きつける。熱い奔流が枯れるまで、彼女だった女は僕の隣で温もりを与えてくれた。そんな些細な気遣いでコロッと心変わりがするわけではなかったが。


「僕はきっと、君を好きになって、君を好かれて幸せだったんだろうな」

「当たり前でしょう? ほんっと、感謝するのが遅すぎる。ずっとずっと、待っていたんだから」


 顔を上げた。無様に目を赤く腫らしているのだろう。彼女は、口に手を当ててお上品に吹き出した。「あらら、不細工な泣き顔ね。少なくとも、ワタシの初めてを奪った男がする顔じゃないわ」と茶々を入れてくる。そこでようやく、僕は顔を綻ばせることができた。肝心なときに不出来な自分を笑い飛ばしてくれる。そういえば、僕はそんな元彼女の一面も好きだったんだろうな、と振り返りつつ。


「ありがとう」


 他愛のない陳腐な感謝はしかし、付き合っている最中は決して言葉にできなかったものだ。僕のことを今も好きでいてくれる女から手向けられた無量の愛情を回顧する。お節介とか有難迷惑とか、マイナスレッテルを張ってしまえばそれまでだ。歪んだ眼鏡で彼女の行為を、好意を受け取ってしまった結果が、今の僕なんだろう。


「ごめん、ごめんね」


 まっすぐに、彼女の愛情と向き合えたなら。面倒臭い女だと一蹴しなければ。きっと、元彼女に元とラベリングを貼ることはなかっただろう。愛の重さへの嫌気はなかっただろうし、純粋に受け取ってそれ相応の対価をあげようとか、もっと、なんか、違う結末が見えたのかもしれない。見えたのかな。もう、分からないや。だって、過ぎてしまった過去なんだから。泣いても、笑っても。


「まだ、やり直せるとは言わないよ。だって、貴方にとってワタシはもう、好きだった人に過ぎないんだから。それに」

「わかっているよ。僕にはやるべきことがある。君のことを前のように好きになることは、できない」

「君のいいところはそういうところだよ。言うときにはきっちり、誤魔化さず吐き出してくれるところ」

「それができれば今頃後輩との関係は違ったものだったんだろうけど」


 できなかったから、セフレなんだ。都合のいいままなんだ。それでいいって甘受していた、諦めていた。斜に構えて、後輩の真っすぐな好意を横目で流していたんだ。でなければ、こんな関係は終わっている――いい方向に転がるか、悪い方向に転がるかは置いておいて。


「振り出しに戻ってみましょうよ。誰とも付き合っていなかった頃の貴方に」

「……戻れないし、戻ったらまた君を好きになるんだろうな。あの頃の僕は馬鹿で純粋だったから」

「ふふ、それは嬉しいけど、今も貴方は馬鹿よ、変わっていない」


 ぽす、と頭を軽くたたかれて、僕は見上げた。昔の女の微笑みがカーテンの向こうからちらと差し込む陽の光のせいで薄暗く撹拌される。綺麗だった、という事実だけが思考回路を焼き尽くす。


「自分だけで背負い込むの、貴方の悪い癖だわ。とても、とても悪い癖」

「僕から向ける恋愛感情の大小は、明らかに僕の問題じゃないか。小さいと言われたからといってすぐに大きくできるわけじゃないし、大きすぎると注意されて縮小できる、そんな融通の利くものじゃないよ。どんなにデートしたって、セックスしたって、喧嘩して仲直りしたって、感情の総量の変化は微々たるものだし、すぐに変動する。どうしようもないじゃないか」


 人の感情とは、かくも面倒臭くて、構造の難しいものだったのか。初めての恋愛で学んだことだ。おまけに、胸が痛くなってどうしようもなくなる。感情を受け止めきれなかった自分の不出来さに何もかも投げやりにしたくなる。それが恋だ愛だと恋愛のハウツー本は訴えてくる……わけもなく。そうしたら、恋愛への興味が他にそれてしまうし。ビジネスなんだから美化するのは当然か。質問サイトに訪ねて悩みを吐き出してみたこともあるが、どれもこれも月並みな回答だし、なんなら僕の姿勢を非難してくる。好きなんだったら、もっと行動で示せよって、うるさいな、恋愛経験皆無かよ、処女か? 童貞か? 夢見がちか? 気持ち悪い。


 お前らと僕は違うし、僕とお前らはきっと、いや絶対、当然のように相いれないと悟って、誰かに救いを乞うのはやめた。リアルの友人に頼るのも、結局は赤の他人の持論に翻弄されるだけだと思って相談する前に思いとどまっていた。


 とどのつまり僕の問題なのだ。

 僕さえが、どうにかすれば。強迫観念に首を絞められる。


 僕が。僕さえ。心から愛を示していれば。言葉も行動も薄っぺらくならないような仮定があれば、完全証明された愛で相手を納得させられる。安心と仮初めじゃない温もりが与えられる。――僕が。僕さえ。息が詰まる。頭が沸騰して、自責の念しか考えられなくなる。そんな自分の頭に向けて、拳を向ける。稚拙な自傷行為には慣れていないけれど、僕は僕自身を陳腐な言葉で制することができなかった。痛みはきっと逃げ口なんだ。ひたすら僕は逃げ回りたかったんだ。抱き続けている苦しみから一時的にでも解放されるために。逃避行がクセになったら、ネットのメンタルヘルス掲示板を徘徊する廃人に生まれ変わるのは時間の問題だ。


「でも」僕の捻くれた愚痴に、元彼女は淡々と反駁の狼煙を上げる。「デートも、セックスも、喧嘩と、対になる仲直りも一人じゃ、できないことでしょう?」


 ――言われて、はっとした。目と鼻の先にあった盲点を縫い針で刺されたような、唐突な衝撃。


 すぐに、自分の非と敗北を痛感する。


 ベッドから起き上がり、床に散らかった服やら下着やらを物色する元彼女の背中を眺める。ほっそりとした肢体が猫の背中のように曲がっている。手を伸ばして、触れる。びくっ、と大きく震えた。「いきなり何するのよ、びっくりした」と驚きの声が返されるが、聞く耳を持たず、背中を擦る。薄暗闇を縫うように溢れてくる、橙色の冬の陽が眩しくて目を細めた。ボクサーパンツしか穿いていない身体を起こして、女の方へと身を乗り出す。後ろから彼女の身体をきゅっと抱きしめた。……別れて三年も経って今更ながら、敵わないことを突き付けられた。


 ありがとう、初めての人。ごめんなさい、初めての人。


「さようなら、初めての人」

「……いってらっしゃい、ワタシの大好きな人。駄目だったら、貴方のことを心から愛しているワタシが骨の髄まで優しくしてあげるから。貴方は、貴方らしくあってね」


 この日、僕は元彼女との腐れた縁を一度、完全に断ち切った。

 白紙になった。振り出しに戻った。

 掛け時計は、午前〇時を指していた。

 一二月二四日。あるいは、クリスマス・イブ。

 スマートフォンを取り出す。連絡先に登録された、数少ないその番号に電話を掛けた。


 僕は、後輩と一緒にいたい。
































『――――お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません。』

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