8.『一一月、静かになった部屋の静けさが嫌だった。』

『一一月一三日 実家に戻りました。朝が早かったので先輩を起こさずに出てしまいました。行ってきますの一言もかけられなくて、ごめんなさい。』


 メッセージアプリの通知が一件。送り主の後輩から短文の日記が送られてきた。時刻はもう、朝九時を越していた。日記を送るにはまだ、一日を充分に過ごしていない。既読スルーのまま放置する。後輩との交換日記、電子版。紙媒体ですら、碌にものを書かなかったのに電子媒体に移行したらさらにサボり癖がつくだろうな、とふと思った。そもそも日記に書けるような日常と、凡庸な日常でさえ、さも楽しそうに書ける筆力を持っていなかった。筆圧だけは濃かったので、ペン先でページを破ってしまうことはあった。


 昨日、急遽決まった後輩の実家連行。無理もないはずだ。両親に無許可で同棲しているのだから。確か、彼女の家は家庭環境が複雑だったんだか。父親の愛人が実家に住み着いているとかなんとか。あらかた、正式な結婚が決まったから、これを機に新たに家族として生活を始めよう、とかそんな感じだろう。幸か不幸か、後輩の実家は大学の徒歩圏内だった。今日を持ちまして、同棲生活が終わる可能性だってありうる。


「……それならそれでいいかな。最近重くなってきたし、ちょうどいいだろ」


 距離を取るべきだと自分を戒めつつも、自分からこの爛れた生活を断つ気力はなかった。プールから出るべきだけと重力が鬱陶しいからしばらく水上で浮遊していたいような心持ちだった。


 単純接触効果は時に恐ろしい。初めは興味ない、それどころか苦手だったものも、何度も何度も何度も何度も接するうちに好意を抱けるようになる。――なんて、眉唾モノだと疑ってかかっていたが後輩のおかげで、いや、後輩のせいで実証されてしまった。まったく、最悪のサンプルを生み出してしまった。


 なぜ、今更僕にそのような桃色感情を抱いたのか。三年間もセフレをしていたにもかかわらず。幾千幾億……とまではいかないにせよ、それなりに身体は重ねた。何度も彼女の中に注いだし、彼女は注がれることに悦びを感じていた。痙攣して、注いで、重なって、また注いで、注がれて、果てて、セミダブルのベッドで力尽きる、退廃的な僕らの生活。どこでひずみが生じたか。


 きっと、元彼氏との縁を切ったからだ。まだ、半年前の出来事らしいし、簡単な論理だった。大好きだった人を大好きだと妄信することができなくなった。だから、手近な代用品で恋愛感情を補給しようとした。男女の恋愛観の違いなんざ、僕が一言や二言水を差したところで白い目で見られるだけだろうから何も言えない。何も分からない。ただ一つだけ確信的なのは、僕と後輩に音楽性の違いが生じたことだ。


 ぶっちゃけたところ、後輩の背後に佇む過去編とか因縁編とか僕からしたらどうでもいい些事なんだ。そして、後輩自身も僕のあらゆる諸事情に介入しなくていい。上辺だけの愛を、凹凸の欲望で擦って、磨いて、白濁でコーティングする。たった、それだけ。僕らの愛は飢餓に毒された胃に即席ラーメンを流し込んだときの多幸感とそう、変わらなかった。セフレってきっと、そういうものだ。世間的に恋人と同然のなりをしていようとも。


 後輩のいない部屋は、生活音が一気になくなったかのように思われた。隣室からどたどた響く足音にびくり、と身体が跳ねあがる。両隣の生活音がやけにうるさい。掃除機の吸引音、食器と食器が触れ合う音、足音、テレビから漏れだす爆笑、スピーカーから漏れる今時のJポップ。


 聴覚過敏を疑ったが、そんなことはない。後輩が横にいると何かしら、ものが音を立てていたし、口は動かしっぱなしだったから。会話に堪えない部屋から会話を抜いたら、何も残らない。心にのしかかる果てしない空虚感。僕は無性に雑音が欲しくて、ベッドから起き上がった。台所へ赴く。部屋は旅行帰りであるにもかかわらず、隅々まで整頓されていた。きっと、後輩の所業だ。片付け嫌いな僕を常日頃叱責してきたからな。


 台所に踏み入る。埃一つすら立ち入ることを禁じられた聖域には、ラップに包まれた白い平皿が置かれていた。


 皿がその下に敷かれた紙の重しになっている。和紙の便箋が挟まっていた。桜色の紙面には後輩の可愛らしい丸文字で『いってきますの代わりに作っておきました。先輩のお好きなツナサンドです』


 特段好きというわけではない、同じ具のサンドウィッチが二つ、ラップの下で横たえていた。なぜだか霊安室が思い起こされ、背筋がぞくりと震えた。悪寒。悪寒……? 何に対して? 再度、ツナサンドを見つめる。何も起こるはずもなかった。きっと、僕の部屋に虚無と静謐が居座っているからだ。無駄に音が欲しかった。


 くちゃくちゃくちゃくちゃ。音を立ててだらしなく、二切れのサンドを口にする。お世辞抜きで、後輩の料理は至高の一品だった。伊達にメイド喫茶に勤めていないだけあった。しかし、パンにまでうっすら塩味が染み込んでいたことが違和感を残した。台無しとはいかないまでも、惜しい味だった。


 食べきると小腹は満たされた。皿洗いは後回しにしがちである。今日に限って、例外ということはなかった。流しのタライに洗剤を数滴垂らし、水道水をつぎ込む。乱暴に平皿を着水させると飛び込みの選手よろしく、水中で曲線を描いて底へと沈んでいった。水しぶきが僕の寝間着を青く染め、水と空気が織りなす泡音がやけに耳朶を震わせた。全部、後輩のせいだ。ここにはいない彼女へと舌打ちを贈呈したい。


 音が必要だった。どたどたと必要以上に床をたたく。足に余計な力を入れて、ガニ股で。不貞腐れたお偉いさんの去り際みたいに。子供らしいな、と自嘲を加える自分の減らず口をガムテープで塞ぎたかった。怒っているのか、僕よ。ガキ臭さに嫌気がさしつつもやめる気はなく、僕は大学へ赴くための準備に思考を回した。


 普段、後輩が畳んだ洗濯物は床に積まれているが、今日は部屋の床を遮るものが一切見当たらなかった。一か月かそこら、きっと衣替えをしてから一切開かれていなかったクローゼットを開く。あまりのかび臭さで眩暈がしそうになって、スライド式の扉に身を預けた。中は、右半分だけきっちりと何もなくなっていた。ポールには男物のワイシャツやダッフルコート、ジャンパーなどが間引かれて整列していた。収納ボックスは逐一テプラでラベリングされていて、春夏秋冬、上着に下着、シャツにズボン、一目でわかる。ボックスの中身はやはり、洗練された家政婦の所業と見間違うくらいに整然となっていた。彼女と同棲するようになってから、次第に家事は分担していって、洗濯担当は後輩だったから、僕はいつしかほとんどクローゼットに立ち入ることがなくなっていた。


 テプラの丸文字で『私 パジャマ』『私 春秋シャツ』……のようにピンクのラベルが貼られている。僕の方にも同じように『先輩 パジャマ』『先輩 春秋シャツ』……と青いラベルで。僕のものと彼女のものは二種類のラベルに従って左右に分けられていて、そのうちやはり右側の、ピンクのラベルが貼られたボックスの群は空っぽになっていた。


 ――染みついた日々は、簡単に矯正できない。足音は依然大きく、しかし徐々に早くなる。鼓動も連なるように早鐘を打つ。何を、どうしてそんなに慌てる? 自覚はあれど、心のうちに沸き起こる謎の衝動を抑えることはできなかった。底なしの胸騒ぎだった。


 次。


 洗面台。左右の鏡台を開くと現れる化粧品の収納。左側に男物の保湿クリームやシェーバーが陳列しているが、右側だけが空っぽ。洗面器の傍らに置かれたコップには常に赤青それぞれ一本ずつ、計二本が差し込まれているはずだが、いつの間にか一本になっていた。


 ……次。


 風呂場。肌質の違いを理由に使い分けていたシャンプーの片割れが持ち出されていた。むろん、女物のシャンプーに、ヘアコンディショナー、ボディソープと洗顔フォームだけが失われている。微かな、フローラルの匂い――彼女の匂いが鼻腔をくすぐった、呼吸ができなかった。


 …………次。


 魂が抜けたように、風呂場から抜け出した。濡れた素足がフローリングを汚す。気にも留めなかった。お手洗いからは生理用品と黒いビニールが失われ、代わりに連れ回された鉄の匂いが漂う。換気扇を回していなかったのが仇となった。吐き気を催し、洋式便所に顔を埋めたが、そもそも胃に内容物がないから出るものも出なかった。


 ……………………つぎ。なんて、もうなかった。


 ふらついてもつれそうな足を引きずって、廊下に躍り出る。玄関には言わずもがな、後輩の運動靴や、ブーツ、出会ったときの焼き付いた夕日色のパンプスまで何もかも泡沫となった。夢のようだった。悪夢であってほしいと、心のどこかでは理想論を訴えかけていた。内心の主義主張なぞ、泣き崩れたくなるくらいに無為で無力だ。


 靴箱の上に使い古された銀のきらめきを見つけた。一等星にはなり得ないが、三等星くらいのおぼろげだが、そこにあることははっきりした光。僕は縋るようにそれを手中に収めた。縦と横に入った無数の凹凸と金属の冷たさを指先で感じて、もうそれを直視したくないと願った。


 なぜなら、その鉄塊はいつか後輩に渡した合鍵だったから。


 のうのうとすり潰されていく日々は何の前触れもなく、一瞬で根元から崩れ落ちてしまったのだ。


「まあ、まさか、だよな」


 きゅっとカギを握りしめる。複製品の鍵は、当初なかなか鍵穴に収まらなかった。鍵づくりは手作業を挟む。合鍵もまた然りだから、噛み合わせが悪くなることも起こりやすい、とのことだった。ちょっとした不便を感じながらも、合鍵を使って僕の部屋に忍び込んでいた一歳下の少女を思い出す。夏は部屋を涼しくしておいてくれた。冬は布団の中を温もりで満たしてくれた。友人の垣根を超えた、もはや家族に近い何か。


 しょせんは、セフレ。セックスフレンド。都合のいい友達。セフレ以上恋人未満、とはいえ、彼女がセフレの壁を越えてくることはなかったし、越えようとしたところを僕はすかさず拒絶した。生ぬるい関係に浸っていたかった。責任とか、痛み分けとか、口にした軽めの間とか、重い荷物を抱える信念など元彼女と一緒に捨ててしまったから。都合のいい友達は、都合が悪くなった途端に友達じゃなくなってしまうのだ。しまうのかもしれない。どうなのかな。僕にはまだ、分からない。


 合鍵の下には、紙きれが一枚挟まっていた。何の変哲もない、殺風景な一筆箋。手紙を書くならもっと装丁にこだわるであろう後輩らしからぬチョイスだった。開いてみれば、彼女の丸文字が罫線の地に足ついて、前へ倣えしている。長蛇の列は、小さめの文字で綴られた手紙だった。


 読む気になれなかった。小さく畳んで、寝間着の胸ポケットに沈める。洗濯機でぐるぐる回せば読みたくない文章から、僕の理想を粉々にする現実からわずかばかり逃避できると思ったから。


 ベッドに戻る。枕元で充電しておいたスマートフォンをスワイプ。元彼女をこの部屋に呼び寄せてしまおう。


 一方的な求愛を片手で振り払え。愛のないセックスだけが僕の味方だなんて、どれだけ自分勝手な欲望なんだろう。他人様からの糾弾は、僕の八畳間の箱庭には届かない。僕が手向ける感情が無一文より価値のないものだと知っていて、それでも僕に身体を預けて、甘い声で誘惑してくる都合のいい昔の女は、王様気分の何様に縋りついたフール以外の何物でもない。僕は? 王様気分の何様。愛を等価交換してやらない、暴政大好きな悪い王様。


 僕は。昔の女で欲を満たすことにした。


『先輩へ

 どうも、あなたの後輩です。

 改めて手紙を書いてみると、なんか照れてしまいますね。こういうの、なかなか書く機会がないし書き出しの一文をどうしようか、丸三日ぐらい考えました。分かりやすさが一番なので、シンプルに書き始めてしまいました。えへへ、文才の欠片もありませんよね』


 昼下がりに部屋を訪れた昔の女と、一言二言交わした後にすぐに舌を絡ませた。程よく肉のついた腹を後ろから抱きしめて、逃げ場を無くす。荒い鼻息が目にかかる。下半身で血潮が沸き立っていた。


『三日も考えた、という文で先輩は察してくれるんじゃないかな、と思っています。そう、私が実家に戻ることはもっとずっと前から決まっていたことです。

 お父さんが、再婚するから。いい加減、戻ってこいって。』


 衣服をはだけさせた女の上に覆いかぶさる。豊満な乳房に指を沈める。んっ……、と色気の吐息が耳に吹きかかる。唇を求められ、僕はそれに応えた。舌を捻じ込ませると薄紅色は緩み、奥から熱っぽい舌が這う、絡む。たったそれだけの深い接吻で脳は快楽で満たされて、麻痺する。――また一人、女を過去の遺物にしようとしている。


『正直、最初は戸惑いました。だって、お父さん、お相手の人につきっきりで私のことなんて歯牙にもかけなかったように見えたので。

 夜中、私が帰ってきても寝室から女の喘ぎ声が響いてくるんです。お父さんの女を躾けるような声と、聴きなれたスパンキングの音が気持ち悪くて、私はなかなか家に近づけませんでした』


 背後から手を滑らせる。女の喘ぎ声が一層高まり、指先に熱い体液が纏わりつく。雌の匂いが雄を衝動的にする。そのまま女の尻を持ち上げると、柔肌を平手でたたいた。綺麗な円弧の尻がぶるり、と小刻みに震える。背筋がぞくり、と震えあがる。飽くなき征服欲がせりあがって、僕は桃尻へと自分のそれを突き入れる。肉のひだは僕を容易に受け入れた――。


『でも、しばらくは行為をしなくてよくなったそうです。

 ――私、なんとお姉さんになるんですよ。へへ、すごいでしょ、先輩。お姉さんですよ? 念願の『お姉ちゃん』、ですよ? 一人っ子でしたから、妹できるの、ちょっぴり楽しみなんです』


 重ねる。挿して、離して、切なくなって、苦しさを満たして。

 何度も、何度も、何度も。快楽に満ち満ちた白濁を、〇.〇一ミリのゴムに吐き出す。


『お別れ、というわけじゃありません。私は元いた場所に帰るだけなんですから。ようやく、居場所ができるから。だから先輩、今までありがとうございました。これからも都合のいい友達でいましょう?』


 ――元彼女が僕の部屋を去ると、瞬く間に静寂は広がった。


 玄関を締めて、すぐに身体は重力に負けた。扉に背中を預けて、沈み込む。冷たい床。踏みつぶされる靴、サンダル。埃っぽさが蔓延した空気で息が詰まりそうだった。視界が熱で浮かされる。熱は雫の形となって、鼻の横を流れていった。どうして。どうして、僕は涙を流している? 呟いたところで返ってくるのはわずかな声の反響。心が重くなっていて、それにつれて身体も重くなる。立ち上がるのが億劫で、その場で目を閉じた。一一月も半ば、暖房の熱が届かない玄関口の冷気が肌に吸い付き、熱を奪い去っていく。


 どうでもいいんだ。ほっといてくれ。生活の欠如は、心の欠落に繋がった。行き場のないふつふつと沸き立つこの思いは怒りであり、後悔。彼女の愛を突き放してしまったことに対する、自責。


 過去の恋愛遍歴より、トラウマとして根付いた愛。一方的な感情を背負っていける気がしなくて、結局背負えなくて、つり合いが取れなくなるのが怖くなって逃げだした。愛と等価交換できるのは同量の愛だ。返せるものも返せなくて、愛想をつかされるのだろうな、と勝手気ままな被害妄想に耽って、「もうやめよう」を繰り返した。愛をティッシュに包んで屑箱にポイしたら、ちょっとはマシになった。愛の重さは僕の生活を阻害したし、そのせいで息苦しく生きていたきらいがあったので、いっそ捨ててしまえば心は軽くなった。


 僕はそうやって、後輩と――都合のいい友達と出会った。彼女と出会ったことで僕は、自分が恐れているものが愛は愛でも恋愛であり、友愛と性愛への抵抗がないことを知った。でなければ、彼女と同棲するに至らない。都合のいい友達が、都合のいい親友になるまで時間はかからなかった。彼女は僕の家を逃げ場にして、僕は彼女を性欲の捌け口にしていた。勝手都合ながら等価交換、ということにしておく。利害は一致していたし。


 赤の他人からすればカップルのように見えたのだろうし、実際に生活自体は恋人と大差なかった。恋愛感情が介在しなかっただけで、僕らは恋人のように接することができた――巨大な矛盾を内包していて我ながら可笑しいと思う。でも、事実だった。僕は恋愛感情という恐怖さえ避けていれば、自分らしく振舞えたのだ。紛れもなく、後輩のおかげだ。


 では、ここで問おう。


 今の今まで三年間、恋愛感情なしで続いていた関係に恋愛感情が芽生えた場合、彼らは恋人になり得るか?


 僕はまだ答えられない。答えたくなかった。


 後輩はどうなんだろう。僕はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して、未読だった彼女の日記に既読を付けた。返信をする気にはなれなかった。


 それっきり丸一か月、連絡は途絶えた。


 僕が後輩にメッセージを送ろうと決めたのは、一二月二四日、図らずもクリスマスイブだった。

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