7.『一一月、風鈴と残響、また会いましょう。』


 ピアス穴を開けた翌朝は、海辺の涼しげで湿っぽい空気を含んでいた。日頃、生活している環境から離れたせいで普段よりも早く目が覚めてしまった。いい機会なので朝風呂に出向いた。露天風呂からちょうど富士の高嶺を拝むことができた。今日も一日、そこそこいい日になりそうな予感がした。


 風呂をあがり、部屋に戻る。後輩がちょうど布団から起き上がったところだった。手元の敷布団がしわくちゃに揉まれている。その隙間から這い出るは、一体の嫣然なシルエット、きめ細かい生足。寝床から羽化した蝶々後輩の浴衣はあまりよろしくない寝相のせいではだけてしまっていた。薄手の布地から垣間見える、首の下、柄杓のようなくぼみ――鎖骨。胸元を保護する下着は「窮屈だから」と一蹴しているため一切装着していない。無防備な双丘の片割れがうっすらと影を帯びていた。影のおかげで丘の頂上に咲き誇る花が見え隠れする。光がなければ影がないなら、影がなくとも光はないのだ。見え隠れ、チラリズム。男が秘めるけだものを煽る肢体。布よ、もう少し右へ寄れ。あるいは影よ、もう少し薄くなれ、というように。純粋無垢な淫らさが僕の首根っこを掴んで離さない。


 後輩の髪の匂いがふと、鼻腔をくすぐる。自分の匂いと同じことに気づく。シャンプーやリンスは旅館備え付けのものを使ったからだ。普段は各々別々のものを使い分けている。朝風呂で眠気を覚ましたはずなのに、新鮮な奇妙さは遅れて到達した。きっと、イグサの匂いと横たわる布団、そして眠たそうに欠伸をする後輩のせいだ。紛れもなく環境要因。


「ふぁ……、おはようございます」

「おはよう。よく眠れたか?」

「はい、おかげさまで」

「……、」

「…………、」


 短い挨拶すらぎこちない。後輩は起きて早々、居心地が悪そうに視線を左右に泳がせていた。僕と目を合わせないように。僕としても特にかける言葉はなかった。昨夜のひと悶着を思い出す。で独り占めしたい欲求が表に出ただけだろう。無理もない、彼女は大学で碌な友人を持っていなかった。一人しかいない友人には自ずと寄りかかってしまう、ソースは留年後の僕。現に後輩にもたれかかっていた。


 ひとしきり、都合のいい解釈で思考を埋め尽くし、短めの呼吸。切り替えろ、僕。


「昨晩はすいませんで……」

「別に、気にしていないよ」


 紡ぎ終わる前の言葉に重ねる。ぴくっ、と彼女の肩が震えた。見上げてくる目には恐怖と悲哀を足して二で割った感情が混じっていた、気がした。


「せ、先輩が気にしていなくても、私がこうしたいから謝っているんです。わがままが過ぎました」

「人間なんだからさ。少なからず誰かを独占したい気持ちを持っててもおかしくないよ」


 まだ、余計な口は挟まなくても大丈夫だ。

 僕が背負いきれないくらいに重くなったら考え直さなければならないけど。


 まだ、僕の方は苦しくない。


 どちらかといえば苦しんでいるのは後輩自身だろう。僕らは、恋人という縛りプレイに辟易しないためにセフレ以上恋人未満の同棲をしているわけで、恋とか愛、あるいはそれに準じた面倒臭い概念を持ち込めば関係が絶たれるのは自明だ。


「先輩には、その、独占欲とか、ないんですか?」

「さあね。今はあまり考えないようにしているよ。一方的にのしかかられる辛さや苦しさは、もう、懲り懲りだから」


 それは元彼女の呪いだった。重い女へのトラウマ。飽和状態を超えてもさらに供給される受け止めきれない、巨大な愛。愛の言葉、愛のメッセージ、愛のあるセックス、愛のあるプレゼント、愛のある食卓、愛のある弁当、愛のある嘘、愛のある勘違い、愛のある喧嘩、愛のある犠牲、愛のあるサヨナラ。愛という感情のゲシュタルト崩壊でかつての僕は思考回路をショートさせて、騙し騙し重い愛を一人背負うことだけを考えてきた。


 人は好きな方だと思う。嫌いだったら、そもそも他人と恋人やセフレになろうとも思っていない。


 好きな人には迷惑を掛けられても問題ない。

 愛が僕に麻酔をかけて、辻褄合わせをしてくれるから。


 だが、好きな人に迷惑を掛けることは酷く僕を苦しめた。

 麻酔の副作用のようなものだ。

 自分の失敗で愛が欠乏したならば、より一層、深く深く、愛がほしくなる。いとおしくなる。


 ただそれだけの余所者だ。僕を好きでいてくれる人間に迷惑を掛けたくないため、自分から歩み寄ることを諦めた。実に懸命な判断。かつて愛を狂信し、盲信した青い僕のおかげだ、青い僕のせいで歪になったのだ。


 着替えをし、チェックアウトを済ませる。時刻は九時きっかり。僕は茶のニットの上からジャケットを羽織り、下は紺色のワイドパンツを穿いている。後輩は、紺のフェザーニットに、スキニーデニムの寒色で揃えてきた。


 江ノ島の街路は人通りがまばらだった。行楽シーズンを大きく外したことが幸いした。お互いに人混みは嫌いだったから。僕は人の気化した体液が充満して腐乱臭を発するのが苦手で、後輩は人の顔、シルエット、服装、所持品等々の情報量の煩雑さに苦言を呈する人間だった。


 人間は臭くて、雑多だ。日本人に限らず、たった今僕らの横を過ぎ去っていった海外の観光客だって例に漏れなかった。僕だってもちろん。同族嫌悪の象徴性。ブリキだったら無味無臭でシンプルだし、いずれロボティクスが馬鹿みたいに発達すればブリキ人形とかした人間が舞踏会でリズムを刻むなんて未来もなくはない、か。何の話だっけ、脳内ではタッタララルラリ、僕と後輩の顔を模した仮面を張り付けた人形がコサックダンスをしていてシュールだった。なんでコサック。


「はぁ、はぁ……、道が険しいですね」

「そうだな、まだまだ全然麓だけどな……」


 江ノ島の最高地点まで続く石段は一つ一つが大きくて急だ。ただ歩くだけじゃつまらないので競争をしてみたが、道の中腹でバテた。中央を通るスロープを杖代わりにして登りきる。命からがらだった。老いが激しい。二十三歳、まだまだ人生坂(暫定)なのにこれはいかに。早死にする未来を思い浮かべてぞっとしつつ、いい加減毎日適度な運動を心掛けるようにせねばと危機感を募らせる。同じような焦燥感は何度か経験したが結局三日坊主だったので、今回もまた三日坊主で終わるのだろう。懲りない奴だ。


「あの、先輩?」

「なんだよ、後輩」

「あ、あれ……!」


 背後、驚き半分喜び半分の叫び。後輩が指さした先にはオアシスがあった。


 オアシスの名前は、有料エスカレーター。江ノ島の急勾配を現代の科学技術と建築技術で打ち負かした代物。これを乗り継げば島の頂上まではものの数分、ひょっとしたら秒でついてしまうかもしれない。直線距離はズルいだろ。何と戦っているんだ僕は。


 でもって、彼女はエスカレーターに心を奪われてしまったらしい。目をキラッキラに輝かせていて、垂涎の表情がなんともだらしない。一介の女子大生が公に見せてはいけない顔だ、自主規制。


「正々堂々峠を攻めろよ。峠から逃げるな」

「ここは峠じゃありません」

「バックグラウンドミュージックが、ユーロビート。それだけで僕らは峠を走っている気分になる」

「先輩の気分なんてぶっちゃけどうでもいいです。あと、峠って山の上り下りの境目を指すので先輩は誤用をしてます」

「――ってことはじきに峠はやってくるってわけか。俄然、上り坂へのモチベが上がるな」


 後輩は勝手に興奮する僕の横を素通りして、先を歩んでいった。エスカレーターを通り過ぎた先で、かかとを軸に、くるりと翻る。両手を腰に当てて、距離の離れた僕にもはっきり聞こえる声で、「先輩のわがままに付き合ってあげるので、さっさと妄言垂れてないでこっち来てくださいよ」と急かされた。こうともなると情けない先輩であるところの僕は、後輩であるところの彼女に服従せざるを得ない。飼い主と犬の関係。夜になると従属が逆になるシチュエーションもいとをかし。


 とはいえ。半ば強引に石段の道をひたすら上る選択をしてしまったが、自分たちが非力な学生時代を謳歌したザ・文化系を自称していることをきれいさっぱり忘れていた。僕ら、やっぱり馬鹿なんじゃないの。


 そういえば、いや、そういわなくても、普段ろくに運動と呼べる活動を怠っている身。唯一、セックスが有識者によるスポーツの定義に属さないとなれば、運動時間は驚異の〇時間、パー、ウィーク。持久力、筋力、瞬発力、敏捷力、筋力、握力、ありとあらゆる力に欠けた先輩後輩コンビ。そこゆけそこゆけ、貧弱が倒れそう。


「はぁ、はぁ……」

「ぜぇ、ぜぇ……」

「はぁ、な、んか悲しくなってきましたね」

「ど、同感だ、な」


 石段を登り切ったところで、命からがら設けられていたベンチに座り込み、二人で俯いた。顔が沸騰しそうなくらいに熱い。額からぽとぽとと汗の雫がにじみ出で、乾いた足元を濡らす。くたばったのは後輩も同じだった。


 有料エスカレーターの出口に一番近いベンチで抜け殻のような二人俯いてげんなりしてた。


 行楽シーズンを外していたのは大正解だった。それでも、ツアー客と地元の住人の苦笑や白い目線は避けられなかった。


 ああ、生きているなあ。


 後輩より僕の方が復活は早かった。気を利かせて自動販売機で二本、緑茶のボトルを購入し、それらを両手に提げて彼女のもとに戻った。選ばれたのは綾鷹でした。

 座ったままの後輩地蔵にお供え物だ。受け取るがいい。ぴたっ。


「あひゃぃ!?」


 予想をはるかに上回る、とてもとてもよろしい反応。この後輩、できる。


「な、なにしたんですか先輩っ!?」

「どうだ、冷たいだろう?」

「……驚かさないでくださいよ、まったく。危うく心停止するところだったんですから」

「後輩、人間は案外図太い生き物なんだ。ちょっとやそっとの衝撃で致命傷は与えられない」

「急性心不全は割と最近のホットワードですよ? この前だって、若者に人気のミュージシャンが若くして亡くなったって」

「……ああ、あの人の曲、よく聴いてたんだよな。急に死なれても実感が湧かない」

「そうなんですよね、だから一ファンは遺作の延々ループから抜け出せない、って何の話ですか」

「今、アンノウン・マザーグースをリピしたら涙腺が崩壊するって話」


 そういうことにしておいてくれ、眠れない夜に無人の地下鉄ホームを回想するような、ただそれだけのうわごとだった。後輩はぶつくさ文句を垂らしながらも、結局礼儀をわきまえて、小声で「いただきます」と言葉を添えてボトルのお茶に口を付けた。


 こく、こく。細く白い喉が、嚥下のたびに小さく震える。飲み下さんとたわむ。ちろちろと、ボトルの緑茶が後輩の食道を流れていく様を想像する。小川のような穏やかな流れを受け止める彼女の口は、夜の間だけとめどなく溢れる白濁流を受け止める堰となるのだ。昼夜のギャップにそそり立つものがそそり立つ。童顔で低身長、見た目が子供っぽいからこそ、艶麗なギャップがぎらぎらと輝くのだ。興奮したとはいえ、真昼間から躊躇なく青姦に耽れば、公然わいせつで訴えられるのは目に見えていた。法の力で男性器は萎えた。法は性欲を殺すらしい。チキンなので野外レイププレイへのハードルは高い。一生その機会はなくていい。


「なに、いやらしい妄想してるんですか変態、間違えました先輩」


 じろじろと見つめていたらバレていたらしい。脛を一蹴する、小さな爪先。痛い、とても痛い。


 痛みに悶えながら先輩と変態で韻が踏めるのは何の因果か、それとも必然だろうかと他愛のない議論を展開していた。すぐに飽きた。後輩も交配と荒廃で韻が踏めるし同じようなことかと結論付ける。僕が、変態なわけではない。ではないはず。


「君も変態だろうに、後輩よ」

「私がその、変態なのはどうでもいいです、些事です。でも、大の男、性欲真っ盛りの若い男衆の一人である先輩が私のような淑女をまじまじ舐め回すように見てくると、途端に犯罪臭が増します。これから罪を犯す臭いがぷんぷんします」

「だとしたら君も重罪だよ、喧嘩両成敗って意味で。魅力溢れるボディとムンムンの色気で誘惑してくるんだからさ」

「言い方がおじん臭くて気色悪いですよ。引きます」

「元彼氏が君をラブドールにしていたのも頷ける。全身が名器なんだろうな」


 言い終え、はっとする。彼女の顔に映る嫌悪に内心やってしまった、と後悔する。


「……彼の話を引き合いに出すのはやめてくださいよ」

「傷つけちゃったね、ごめん」

「いや、あまり怒ってませんよ。……自覚したくないんですよ、道具のように扱われたことを」


 デリカシーの切れ端は、どこかに捨ててきた。ずけずけと負の感情をえぐる。無意識に。純粋な邪悪は、僕を構成する要素の半分だった。もう半分はアンドモア、雑多な何か、主成分は性欲。


 モノとして扱われていた後輩。誰かのために自分を演じてきたということ。愛とやらを重きに置くからいけないのだ。赤い糸は僕らの首を絞める麻縄じゃない。愛の重さは平等ではないにせよ、ただの友人や、僕のようなセフレにも振り分けられるのだろうか。


 馬鹿馬鹿しい。僕は匙を投げる。ついでに緑茶を一気に飲み込んだ。オブラートを剥がされた本音を、自らの口から発することはできなかった。空のペットボトルを握りながら、曖昧に笑ってごまかす。かつての自分を振り返ってみて、同族嫌悪に陥ったからだ。各々の愛の総量を天秤に吊り下げるとする。最初のうちは、愛の分銅を慎重に両の秤に積んでいく。バランスは保てるし、育まれる愛のかたちを確かめて心を満たしていた。だが、いずれ追いつけなくなって潰れる。天秤がどちらかに傾く。僕はかつて、重い愛に潰された。苦しくなって、気が付いたら沼に引きずり込まれそうで、ひたすら怯えていた。逃げたかった。だから、逃げた。


 愛の横たわる生活は、墓場が近いのだろうというのが持論だ。愛を忘れることで、その重さから逃れて幽霊になった僕は墓から這い出て、形だけの愛をささやき続けた。すぐに飽きた。今じゃ信じられるものは、恋愛感情のないセックスと後輩だけ。重い愛さえなければ、僕はきっと歪まなかった。きっと。


 嫌悪感が喉元に滞留する。やめろ、やめろ。顔から砂粒が流れていくような感覚があった。冷たい顔、身体がよろめいた。すんでのところで足を踏み出し、事なきを得た。今度は顔が真っ赤になっていく。感情に起因するものではない。後頭部がじんわりと痛む。


「大丈夫ですか、先輩。顔が真っ青ですよ?」


 後輩が僕の顔を覗き込んでいる。息切れは落ち着いたようだった。よかった。


「僕は、大丈夫で、あっ」

「おっと。フラついてるじゃないですか。駄目ですね、駄目駄目」


 釘をさすように罵倒されても抵抗する気が起きなかった。後輩の低く華奢な肩に体重をかける、情けない先輩。ベンチに担ぎ込まれると、やれやれとこぼしながら彼女は飲みかけだった緑茶のボトルを押し付けてきた。


「考えるって罪だな」

「なーに、いきなり意味ありげな言葉を吐いていやがるんですか。メンヘラのツイッターアカウントですか」


 たとえが適切かは置いておいて。


「そっちは回復した?」

「おかげさまで。やっぱり選ばれたのは綾鷹ですよ」

「ペプシを買ってきたら」

「私の勝ち。何で負けたのか明日までに考えてきてください。ほな、いただきます」


 ミーハーかよ。


「ミーハーですから。先輩はちょっとここらで待っていてください。売店があるようなので何かしら買ってきますね。風がちょっと冷たいので、あったかいものを」


 数分経って、玉こんにゃくともつ煮を運んできた後輩のセンスには脱帽だった。腹ごしらえを済ませた時には頭痛が綺麗さっぱりなくなっていた。症状を逐一報告したら、名医後輩から偏頭痛だと診断された。なおさら、温かいものを摂り、身体を冷やさないでくださいと注意喚起された。患者先輩はなすすべなく付き従うのみだった。


 体調が戻ると、再び足を動かす。江ノ島の裏手に回るには、一本道を通らねばならなかった。迂回ルートを知らないから仕方ない。ともかく僕は、その一本道が大好きだった。そもそも路地裏からエモーションを吸い取るのが生きる糧のようなものだった。


 人が横にギリギリ三人並べる道幅。昔ながらの瓦張りのこぢんまりとした民宿兼定食屋。温故知新の理念に沿った新しめの、しかし風情ある建築、出店。雑多なものを販売する土産屋。さらにはただの民家さえも、感傷を沸き立たせる恰好の大道具となる。不思議な懐かしさの理由を知りたくて、きっと海が近いからだと短絡的な結論に至る。江ノ島は、過去に還る島だった。


 波音が遠くから微かに鼓膜を震わせた。潮風が髪を撫でる。季節も季節だったので肌に効いた。


「海が近づくからですよ」


 僕の頭に浮かんだ思案をなぞるように後輩は呟いた。


「……? 何そんな驚いているんですか。私は先輩のことくらい何でも知っていますから」


 先輩が分かりやすいから、かもしれませんが。添えられた一言は鼓膜の前で迂回を促された。


 吐き気がした。顔だけは、笑っているように努めた。


 ボトルの綾鷹はとっくに枯れていた。捨てればいいものの、捨てる機会を失っていたらしい。ちょうど自販機の傍らにあったゴミ箱へと投げ捨てる。身体が火照る。慣れない長時間歩行のせいだ。汗が止まらないので、道端の土産屋で白タオルを買った。一〇〇円。拭うとどことなく生活臭がした。あまり好きな匂いじゃなかった。呼吸を止めた。顔と首を一通り拭き終えると、深呼吸をして酸素を蓄える。秋風のおかげでちょっとマシな気分になれた。隣の後輩も首筋に汗をじんわりと滲ませていた。僕は使用済みのタオルを渡す。彼女はそれに顔を埋めた。すん、すんと臭いを嗅ぐ鼻の音。用途を間違ってないか。そもそも用途を伝えていなかった。汗を拭けと言いかけたところで後輩は顔を上げた。無邪気な顔でにこにこしている。


「先輩の、匂いがしますね」

「そんなか」

「そんなです」

「体臭、気にしなきゃいけないな」

「何を言っているんですか。私は好きですよ、この匂い」

「世間体を保つためにはそうしなきゃいけないだろ。汗臭さはあまり好まれないし、そもそも僕が好きじゃない。帰ったら香水でも買うことにしよう。潮の香りはじきに浴びるから、山の香りでも纏うかな」

「……山の香りなんてあるんですかね、香水」


 さあな、興味なさげに答えて一本道を再び歩む。日本人は少なく、海外からの観光客が束になって対向する。そのたびに僕らは横に並んで道を譲った。彼らは横に長い。


 後輩がとてとてと軽快な足音をあげて付いてくる。目を合わせることはおろか、後ろを振り返る気すら起こらなかった。唇を噛んだ。痛いのが怖い性分なので手加減したが。


 甘ったるい香水の匂いは、後輩との距離を適切に保つギミックになり得るか。さあ、どうだか。


 石造りの鳥居が一本道をまたぐ。生しらす丼の暖簾がはためいて、食堂が横に並んでいた。眼下には、一層急な下りの石段。鬱蒼とした木々が天蓋を覆った。もうすぐで、道の終点だ。


「先輩、危ないので手、繋いでいてくれませんか?」

「キャラじゃなくない?」

「うるさいですね。私が怪我してもいいんですか?」

「もう汚されてるけどな」

「言葉の綾ですね、転落しろください」

「う、わっ、蹴るな、落ちるっ! 怪我じゃ済まないから!」


 嬢のわがままに応える形で、否が応でも手を繋がざるを得なくなった。右手に重なる、小さな温もり。体温が熱くて、湿っている。離さないように、強く握る。「ちょっと、痛いです」と注意を受けて、慌てて緩める。思考を振り切る。昔を思い出しつつ。やめろ、純情を思い出すな。吐き気がする。僕には甘すぎた。糖度の過剰摂取。しばらくは、甘いものは控えたいんだ。


「先輩」

「……なんだ?」

「甘いものは好きですか」


 後輩がひょいっと顔を覗かせた。肩越しに目が合う。目線は外したつもりだった。外すことはかなわなかった。瞳はブラックホール。どんな光をも吸収する。僕の心は読まれているのだろうか。甘いものは嫌いだった。どろどろと甘いものは、特に。砂糖が溶け切っていないと吐きさえする。


「控えめだったらまあ」妥協案。石段をゆっくりと下る。対向する観光客はいなかった。二人だけ、森に侵食されつつある段を踏みしめた。「基本的には苦手だけどね」


 道が開けた。森が切れる。雲に満ちた天蓋から一条の光が差し込んでいた。海は深い藍色に染まりつつある。


 高台から眺める、太平洋。地平線は端から端までくっきりとした輪郭を描いていた。雲間から漏れるのは、水色絵具をさらに希釈した透明感あふれる瑞々しい色彩。完璧ではないにせよ、悪くはない風景だ。


「私は甘いものが好きです」

「そっか」

「特にパンケーキが好きです。ところで先輩」

「今度は何?」

「後輩に奢る先輩って威厳があってかっこいいと思うんですけど」

「知らんがな」

「先輩に奢ってほしいなー。ほら、あそこ」


 後輩が指をさした方角。海、ではなくその手前に立ち構えるこぢんまりとした、しかし地中海風の真っ白い建屋。『CYAYA』――茶屋、という文字列が横開きの扉の上に印字されていた。店先のブラックボードにはインスタグラムに載せられていそうな、パンケーキの量産型加工写真が張り付けられていて、『インスタ映えします!』という宣伝文句が添えられている。うわあ、立地が立地――海をバックにして、それっぽいウケる写真が撮れそうだ。承認欲求を満たしたい一介の女子大生には恰好の的だ。


「……またなんか、捻くれたこと考えてますね?」

「『ガンガン加工したそれっぽくエモい写真を載せて共感者を募ろうとするインスタグラマー女子大生』、薄っぺらくて嫌いな人種だからな」

「女子大生にとらわれ過ぎではありませんか? むしろ、そういう写真をアラサー未婚女子が撮っている方が苦手そう」

「さすがは後輩だ、盲点を突いてきたな」

「えへへ」

「でも君だって、『ガンガン加工したそれっぽくエモい写真を載せて共感者を募ろうとするインスタグラマー女子大生』じゃないのか?」

「よく噛まないですね、それ。私のインスタは食事しか載せてません。見ます?」


 後輩がスマートフォンの画面を見せてくる。輝度が自動で増してくると、そこには無加工のラーメンの画像しかない。大学付近の店から遠出したときに食したものまで、どれもこれも僕と一緒に食べたものと思われる。いつのまに。画像をタップすると、画像が拡大し、その下に文章が書き連ねてある。レヴューだった。どの画像にも等しく、星一から五までで評価がなされていて、評価内容がびっしり埋め尽くされていた。いいねの数は毎投稿一〇〇〇前後だし、フォロワー数も万に届きそうだった。


「引く手数多な人材だな、君。でも、ここにパンケーキの写真を投下するのはニーズに合わないんじゃないか?」

「大丈夫です、パンケーキ専用のアカウントも持っているんで」

「なるほど、ビジネスだな。こういうのは好きだ。実用的で」

「先輩も始めてみては?」

「続かないだろうなあ」

「……ですね」

「諦めたような顔をするな」

「三日坊主ですもんねー」

「違いない。まめに記録するのはちょっと面倒臭いかな」


 店の開店時間までまだ時間があったため、茶屋の横の階段を抜けて海の目の前に降りた。潮風で錆びたスロープが道の横に整列する。直で吹き付ける潮風はやはり冷たい。道の向こうで、季節外れの涼しげな音がした。江ノ島の裏側にある岩屋の方からだった。


 岩屋へと続く高架には屋根がかかっていて、屋根を支える柱から柱へ、フックが差し込まれた竹の棒が繋がっている。それぞれのフックからにはワイヤーが結び付けられていて、膨らんだガラスの楕円体やミニチュアの釣り鐘が吊り下げられている。りん、ちりん、りん。軽快に音が弾む。


「風鈴ですね」

「風鈴だな」

「季節外れですが、これはこれで風情がありません?」

「君と僕じゃ、趣味嗜好が同じだからなあ」

「つまり、好きっていうことですね」


 言葉を重ねる必要はなかった。風鈴だけの世界に包まる。二人っきりの世界は偶然か、あるいは必然か。それっぽく書き記すと必然だと言わせたように映るので言葉にはしなかった。僕の言葉は拙くて、言葉は口にすればするほど擦り減るから。


 この原理だと、愛は囁けば囁くほど擦り減る算段がつくよな、きっと。


「なあ、後輩」

「なんですか、先輩」

「――好きだ」


 無言。濃密な潮の匂いが鈴の横を素通りして、鼻腔を支配していた。背後、手を繋いだ後輩の手がつるりと滑って、弧を舞った。振り返る。命綱を失った彼女の右手は自由落下することなく、その場で硬直した。彼女の小顔には表情が映し出されていない。目線が泳いでいて定かではない。おい、大丈夫か? 再び腕を掴もうとして、バシュッ! と風をきって、細腕が彼女の胸に収まった。拘束、いや、何? 首をかしげる。目が合った後輩も同じ方向に首を傾げた。反対方向に首を曲げると彼女は再び鏡映しの動きを見せる。お前は鏡像か? 挙動が不審で故障を疑う。普段はきっちりかっちりたまに不純な後輩なのに、きっちりかっちりがなくなったら、ただの不純な後輩になってしまうではないか。僕には実害がなさそうなのでいいけどさ。


「わ、私からきっちりかっちりが、なくなるわけがないです、ないったらない、ないですね、ない」

「声が震えてるけど」

「うるさいですね黙ってください黙れ黙れこれ以上何も言わないでください先輩がペースを乱してきたあ」


 うわあ。壊れた。なんか顔を真っ赤にしているし。後輩の豹変っぷりに僕は二歩、ついでに三歩後退した。僕と彼女の間を観光目当ての外国人が素知らぬ顔で通り過ぎていく。口元で「オー、イッツ・ア・ファッキンカッポォ」と囁く声が遠くなっていく。クソカップルってなんだ、クソカップルて。妙に流暢なのが殊更ムカつくな。


「ぜえ、ぜえ」

「落ち着いたか?」

「ええ、ええ。落ち着きましたよっ……!」

「それは良かった」


 他人事だなあ、と呆れた声を吐露する後輩。反応がなかなか滑稽だったので、追撃をかますことにした。


「なあ、後輩」

「なんですか、先輩」

「――好きだ」

「ああもうっ! そうやってまた、私のペースを乱すっ!」


 勝手に乱されているだけだろう? 僕は馬鹿を無視して、岩屋の方へと歩き始める。僕らはカップルではない、カッポォでもない。セフレって和製英語だったよな、英語だと、どう訳すんだろう。調べてみたら、「Friend with Benefit」、略してFWB。利益ある友人。一利あって無害の関係。きっと訳者は天才だ。セフレの一〇割を言い当てているのだから。僕と後輩は利益ある後輩でしかない。それ以上は、だめだ。僕は拒む。


 風鈴の音が止んだ。海風は時が止まったかのようにピタリと治まる。岩屋の中に入る気はなかった。わざわざ金をかけて見に行くほどのものじゃないだろう。後輩がスロープに手を掛け、身を乗り出した。大海原が彼女の黒い瞳を深海の青に染める。音、再生。りん、ちりん、りん。りん、ちりん、りん。軽妙な風のリズムに身を任せて、僕は後輩の横に立って、同じ方向を見つめた。地平線の向こう側を。


「涼しい音ですね」

「風はもはや寒いけどな」

「今度来るときは、夏がいいですね。風鈴が本領発揮してくれそうじゃないですか」

「来年の夏、君の研究が忙しくなかったら、な」

「そうですね、先輩は一年間クソニートするんですもんね」

「自分探しだよ、自分探し」

「言い訳じゃないですか」

「違いない」


 他愛ない会話が僕ら点と点を結んでいた。結ぶ糸は赤じゃないほうがいいけど、できれば潮風で簡単に錆びなくて、ハサミで簡単に断ち切れない頑丈な糸であってほしい。でもって、どちらかの引きが強くなると唐突に切れるような、蜘蛛の糸みたいなものが欲しい。なあなあな日常に頭まで突っ込んで窒息していたかった。


「先輩は、本当に私のことが好きですか?」

「好きだけど」

「……じゃあ、両想いなんですか?」

「君の好きと僕の好きが同じ方向性のものだったらな」

「じゃあ、一人の女として、私のことは好きですか?」

「答えは、分からない。きっと近いようで、遠いような」

「随分と曖昧ですね」

「でも、君とはそういう関係にはなりたくない。今はまだ。これからずっと、かもしれないけど」

「重い女が嫌いだから?」

「重い女は嫌いだし、懲り懲りだ」

「私は、重い方ですか?」

「胸に手を当てて考えてみろよ、僕には僕の先入観でしか分からない」

「そう言われると、ひょっとしたら重いかも」

「うげ」

「引かないでくださいってっ! せ、先輩には危害がないようにしますから……」


 冗談のつもりが、後輩は僕の腕に捕まってきた。ちょっとだけ、掴まれているところが痛い。常日頃なかなか見せない腕力に僕は戸惑っていた。彼女の見せた表情が余計、僕の思考に混乱をきたした。


 どうして。君は泣いているんだよ。


 どうして、そんな悲壮に満ちた顔をする。黒い瞳から海の深い青が失われ、僕だけを投影していた。鏡像が歪む。玉、ガラス玉、こぼれる、両目から。とめどなく、とめどなく?


「なんで、泣いているんだよ」

「あ、れ。どうして、でしょう。ご、ごめんな、さい……」


 彼女は手持ちのポシェットの中からハンカチを取り出し、目元をぐしぐしと擦っていた。腕は依然掴まれたままだった。涙はいっこうに収まる様子がなく、ハンカチはずぶ濡れだった。震えた小声で「もうちょっと、待ってくださいね、今、泣き止みますから」と申し訳なさそうに言葉を繋いだ。ごめんなさい、ごめんなさい。あとは、謝罪の繰り返しだった。僕らはスロープに寄りかかって、誰もいない遊歩道の上に佇んだ。後輩が泣き疲れるまで。


「あ、はは。もう、こんな時間なんですね」彼女が腕時計に目を向けた。一一時はとっくに過ぎていた。パンケーキの茶屋は開店していることだろう。「時間、過ぎちゃいましたね。……さあ、行きましょうか」


 僕は無言で後輩の手を取った。さっき、石段を下りた時とは真逆の構図。彼女に手を引かれて、僕らは来た道を戻っていく。風鈴の道を巻き戻していく。りん、ちりん、りん。音はすぐに遠ざかる。後輩の早足についていかざるを得なかったからだ。僕を先導する少女は、果たして今、どんな顔をしているのだろう。


 考えたくもなかった。


 茶屋の前につく。まだまだ、客は少ないようだった。窓際の席に案内され、メニューを眺めた。ベーシックなパンケーキに、青々としたガラス瓶が特徴的な、江ノ島ビールを二本注文すると店員が厨房に向かう。二人っきりの空間。窓の外は再び陰ってしまい、絶景とはいかなかった。今度来るときは、晴れているといいなと期待を抱きつつ、僕らに次はあるのだろうかという不安が頭をよぎる。


 岩場を打つ波の音から潮時という言葉を思い浮かべた。振り払おうとしたが、しこりのように残り続けた。


「なあ、後輩――」


 彼女を振り向かせようとして声を上げた。しかし、僕の声を通知音が遮る。テーブルの端に置かれた後輩のスマートフォンが小刻みに震えていた。こちらの言葉が聞こえなかったのか、彼女は画面をタップする。その手は、動揺を隠せないくらいに震えていて、画面をスクロールしながら彼女の目を見開かれていた。


「……なあ、後輩」驚愕の表情で固まっていた彼女を解かすために声をかける。先程と同じ文言だが、口調は焦りが一切含まれることなく、酷く落ち着いていた。ああ、嵐の前の静けさってやつか。「何が、あったんだ?」


 窓の外から一層強い風が吹く。白いレースのカーテンをふわさ、と巻き込んで舞い上がった。


 後輩と僕は薄布一枚で隔たれた。うねる布生地の向こう側で影が揺らいでいる。


「……ぱ、いずっと………いて、ください」


 後輩の声は、風と布のはためく音でほとんどかき消されてしまった。慌てて店員が厨房から出てきて、店内の窓を閉めると、暴れていたカーテンの動きはピタリとやんだ。重力に添い遂げてだらりと窓枠の横に垂れ下がる。


 隔絶する壁は失せた。後輩は、申し訳なさそうに笑っていた。潮時という言葉がぴったりだった。


「先輩、ご報告です」

「……、」

「明日から、暫く実家に戻ることになりました。ちょっとだけ、お別れしましょう」


 僕は、何も返せなかった。その後の会話と、パンケーキの味とビールの舌触りは記憶から消し飛んだ。


 忘れなかったことといえば二つくらい。

 後輩が交換日記を持ち帰ること。

 日記当番が僕のときは、メッセージアプリで文面を送る、ということ。

 つくづく、くだらないことしか覚えられなかった。


 江ノ島から帰宅した、次の日。

 昨日まで横で僕を抱きながら眠っていた後輩は、跡形もなく姿を消した。

 二人で過ごした三年間が夢だったと思わせるくらい、足早に。


 モニター上の丸時計は午前八時を示していた。どこにも行く気にはなれなかった。

 僕は自分を騙しとおすためにもう一度、布団を被って微睡みを誘った。

 再び、眠りにつくことはかなわなかったが。

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