5.『一〇月、螺旋を見下ろして愛の巣で吐いたのは。』

 螺旋階段を上から覗くと、下から覗く少女と目が合った。泣き腫らした目で睨んでくる彼女が僕と同類であることはすぐに察することができた。


 ――これが僕と後輩の馴れ初め。互いに恋を捨てたその日のことだった。


「別れ話って突然切り出されたように思うじゃないですか」

「切り出されてすぐはそうかもな。でも、振り返れば伏線はいくらでも張り放題だし心当たりは不思議なくらいにぽんぽんとでてくるものだよね。元彼女のときは伏線を張った側だったけどね」


 三年が経ち、偶然にも螺旋階段と出くわしたから、僕は上から見下ろした。後輩は下から見上げていた。当時の会談ではなかったけれど、ちょっとした聖地巡礼をした気分だった。


 ある日抱いた緩やかな諦念はすぐに感情を覆いつくす。許容できなかったことがある日突然どうでもよくなる。一見許容の姿勢が表れたように見えたりもして、伏線を張られる側はいざこざが減ったことに安心するのだ。嵐の前の静けさだ。


 信じることは気の遠くなる作業のくせに見返りが少ない。少ないどころか裏切られることも十分ありうる。まあコスパが悪い。信じきって裏切られた身としては堪ったものではなかった。きっと元彼女も裏切られた気分だったんだろうし、お互い様か。


 高校生の恋愛は可愛らしいママゴトだ。表舞台でいい顔をして、言いたいわがままを微調整しつつ吐き出していればそれなりに続く。生活を知らないから。デートしようが、ラブホテルで初夜を明かそうが、家族が不在の自宅で、公衆トイレで、保健室で、屋上で、人気のない公園の茂みで、会うたびに情欲が注がれてアブノーマルな行為を日常に埋め込もうが、会話と性行為の数が逆転しようが、僕は理想の彼氏を演じ続け、当時彼女だった女の悪評に耳を塞ぎ、良い面と肉付きの良い煽情的な肢体を視覚野に焼き付けた。


 ママゴトだから、それでいい。大人の真似事、あるいはドラマや小説など、いわゆる非日常の再演。高校生までの僕は夢の世界でまどろむ子供たちの一人だった。夢と同じで覚めるのも突然だ。カーテンの向こうから差し込む朝焼けに瞼を撫でられて、重い目を開くような、ただそれだけの覚醒。現実は夢より理路整然としていて正直つまらないものだ。そんな達観じみた当たり前を受け入れて一週間経たずに僕は元彼女に別れ話を切り出した。


 ――ぼろぼろと女がこぼした涙をすくう。穂先まで丁寧に手入れされた、背中の中腹まで伸びる長い黒髪は最後の最後まで嫌いになれなかった。餞別代わりに触れようとして、細くて白い病弱な腕で振り払われ、拒まれた。ごめんね、ごめんねと縋るように謝られても、振り払った手を震えながら掴んで握り返してきても、その瞬間だけは無感動を貫いた。


「先輩は最低な男です、大悪人です。女の子を散々泣かせた挙句、私のようなセフレを作ってしまうんですから。節操なしも大概にしてくださいの意味を込めてとりあえず死刑です」

「小学生の裁判体験会かよ、それ」


 ぞっとする話だ。


「……先輩は呼吸するように罪を犯しているんですから当然です。死刑がキャリーオーバー発生中です。現在二死刑」

「人の死刑を数えるな。そもそも何度も殺そうとするな。僕は蘇生しないからな」

「そこはゴキブリ並みの生命力ってやつで」

「僕は人間であってゴキブリではないからな?」

「えっ」

「純粋に驚くな」


 酷い言われようだった。情けない先輩をなじる後輩の図式はフェルマーの最終定理のようなものだ。不可解で不完全で、美しい。あくまでたとえだ。文系学生の身分に甘んじて最終定理の知識はほぼない。にわかフェルマーだった。


「私の先輩が数学をできようができまいが私の人生は順風満帆なんですよ」

「こいつ人生を自画自賛しやがった」

「三年峠の理論だと先輩を一回罵れば三年は生きていけます。……ひとまず長生きは確定ですね」

「年上を敬う後輩はどこ」

「愛のビンタってやつですよ」

「言い回しが若干古いのが妙にムカつくな」


 立ち話もなんですし、ちょっと歩きましょうよ。――なんて、どんでん返しの常套句のような台詞は三年前の今日と同じ言葉。後輩を螺旋階段の上から見下ろしたまま数十分の時が進んでいた。僕らの始まりの日もまた、同じように彼女がさび色の段を駆け上がってきたんだったか。だん、だん。鉄の板の上で跳ねる夕日色のパンプスも、薄手の白いカーディガンも、焦げ茶色のタートルも、群青に染め上げられたフレアスカートも。何もかもがあの日と同じだった。気の利く後輩のことだ、わざわざ再現してきたのだろう。部分部分は新調しているだろうけど、三年前のコーディネートを憶えていてくれた。なんとなく、心が温いと感じた。


「恋人なら、交際記念日に当たるでしょうね、今日は」

「君が色恋沙汰について言及するなんて珍しいな。秋なのに桜吹雪が舞いそうだ」

「馬鹿にするなら桜の下に埋葬しますよ」

「馬鹿にするわけじゃなく純粋な驚愕さ。恋に懲りて僕と関係を結んだ君が三年目にもなって僕に恋を提示してくるなんて」

「思い上がりも甚だしいですよ、先輩。それでは私たちの関係は終わってしまう、でしょう?」

「そうじゃなくても、いずれ飽きが来るんじゃないか?」

「秋は飽きの季節っていう言い回しはそこそこ耳にしますが、セフレ以上恋人未満の私たちにも通じるんでしょうか」


 分からない。明日のことを考えるのは僕たちの苦手分野だ。後輩は無事に大学院への推薦枠を手に入れた。あとは卒業研究を片付ければ晴れて進学。対する僕はというと、来年一年間は休学をすることにした。僕と後輩に四年後が来るときにはきっと、進路への答えは決まっているだろう、きっと。根拠のない自信だった。


 就職ができなかったら、せめて身動きの取れなくなった後輩の前で首を吊って他界しよう。就職したら、罵倒された分、散々後輩に悪態をついて最悪の別れ方をするのも悪くはない。僕らは恋人じゃないし、親友でもないから。


 一〇月一〇日。僕と後輩が出会った日。友人を通り越して、セフレになった日。


 大学に生える紅葉が小人の手を赤くして深まる季節。


 読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋。

 後輩の場合は、性欲の春夏秋冬も追加されるが。


 ともかく。感慨深い日には変わりないというのが二人の総意だったので、研究がひとまず落ち着いた後輩を連れてレンタカーでドライブしに行くことにした、突発的に。


 午後は五時を回ろうとしている。大学から一〇キロ圏内にそこそこの峠があったので、そちらを目指すことにした。昼間の国道はガラガラで警察に追われない程度にアクセルを踏んで直線を突き抜けた。助手席に乗る後輩が、ポシェットからダースのミルクチョコレートを取り出して一粒、口の前に差し出してきた。


「運転ありがとうございます、先輩っ」

「語尾が弾んでるな。ドライブ、好きか?」

「はいっ、先輩とドライブするの大好きですっ」


 べた褒めされると先輩冥利に尽きる。彼女がここまで僕を褒めたのはいつぶりだろう。前々から罵ることしか能がないやつだと決めつけていたが、実はそうじゃないのかもしれない。天邪鬼? いやいやまさか。


「自慢の後輩が純粋に褒めたたえているんですから甘んじて受け入れてくださいよ」

「よかった、いつもの後輩だ」


 毒されているかもしれない。いや、毒されている。

 レンタルした軽自動車のラジオからサカナクションの『表参道26時』が流れ出す。そういえば、初めて人を載せてドライブをしたのも、後輩と出会った日だった。峠の中腹に建つラブホテルに向かう途中、ラジオで流れたのは今日と同じ『表参道26時』だった。奇妙な偶然。まるで三年前の今日に時間を巻き戻されたかのように。


「『あの、これからは先輩って呼んでいいですか? いい加減、『そこのあなた』って呼ぶのもあれですし』」

「『……じゃあ、君は今日から僕の後輩だ』……だっけな」

「その通り、です。……『思いあがるのも甚だしいですよ、先輩。ですが、後輩に免じてあなたが私の先輩になることを許してあげましょう』、うわあ、とげとげだ」


 台詞までも三年前の再演だ。僕らは確かに、二人きりでドライブしながら互いを先輩後輩と呼び合うことにしたのだった。すぐ前までは赤の他人だったのにもかかわらず、僕らの関係は急速に構築されていった。不思議な話だ。まさか出会ったその日に肉体関係を結ぶとは思ってもみなかったが。加えて、当時の後輩は処女。ほぼ赤の他人に春を売るなんて、相当気が動転していたのだろう。


 無性に後輩の乳房が恋しくなって、僕は手元の電子タバコに口を付けて誤魔化すことにした。八月の終わり、ビルの屋上で花火を見た日に後輩から勧められて購入したものだ。車窓をめいっぱい開けて、煙を吸う。充満するのはマスカットじみた人工的な甘い香りとグリセリンの煙。吐く。清浄な紫煙が窓外へと逃げていく。微かな果実の香りが車に匂う。


「……まさか、三年前と同じ台詞を憶えているとはな。自分でも驚いた」


 ラジオから曲のサビが流れる。表参道とはかけ離れた田舎道が、この瞬間だけはきらびやかな夜の東京表参道だった。地平線に沈んだ太陽に追従する明かりと、表舞台を我先にと奪い合う夜の軍勢。二人はところどころ、ほつれた服みたいに、まばらな足並みを揃えて生活を続けてきた。心のどこかでは気づいてる、気づいているのだ。いつか終わる物語のありきたりな顛末のことを。


 峠を登り終え、ラブホテルに着くころには晴れ渡った薄闇が空を埋め尽くしていた。案内された南向きの部屋からは、峠の麓がよく見える。絶景だ。地上の星を遮るものが一つもない。街灯や住宅や小ビルの光が織りなすきらきらと瞬く人々の営みは、宝石箱のように僕らの目には映った。


「あの日、春を僕に売ったこと、後悔してる?」

「どうしたんですか、いきなり神妙な面持ちで」

「いや、なんとなく。何年か連れ添った元彼氏と別れた直後に、付き合ってもない男のために処女を捨てたなんて正気の沙汰じゃなかったんじゃないかなって」


 すぐの返答はなかった。後輩は、窓辺に腰を掛けて静かに夜景を見下ろしている。部屋には甘ったるい香水の香りが充満していた。今時珍しい、備え付けの回転ベッドに腰を下ろすと今度は僕が彼女を見上げる立場になった。低反発のマットレスに腰が埋もれていく。


「――後悔するんだったら、最初から先輩に声をかけてません。かけられたとしても無視していたでしょう」


 声は静かに震えていた。後輩の顔は依然夜景へと向いていて、僕へと振り向く兆しはない。だが、わざわざ見なくとも彼女の気持ちは理解できてしまった。地雷を踏んでしまったらしい。それゆえに罪悪感が芽生えてしまう。


「先輩は私と出会えてよかったですか?」

「元彼女を信じ続けるよりは随分マシだと思ってる」

「そうですか。私は出会えてよかったと思っていますよ」

「……知ってる」

「知ってたらきっと心無い発言は……、いえ、先輩は心無い方でしたね」

「ああ。心無い方だ。だから女を泣かせる」

「自覚してるんだったら直してくださいよ、ばか」


 パンプスの爪先が旋回する。フレアスカートが風を纏って傘のように開いた。向き合う。見上げると見下ろされる。スカートの内側から空気が抜けていく。月明りに照らされて、すらりと細い肢体のシルエットが映し出された。


 雨、秋雨だろうか。快晴の空のもと、僕らを濡らすのは梅雨前線ではなく、感情だった。涙とは男の恥とされ、女の武器ともされる。一滴の結晶が小ぶりな頬をつう、と流れ。


 すかさず僕は後輩の涙を拭ってやった。


「先輩の、ばか。ばーか、ばーか。もう知りません。勝手にしてください。今日という今日は私もおかんむりです。一生口を利いてやりません」

「口を利かないのか。それは困ったな」


 別段、困っているわけじゃなかった。拗ねた後輩の対処は先輩の勤め。取扱説明書は頭の中に揃っている。ばか後輩は僕に対してめっぽう馬鹿で、ある対処法であらかた不機嫌は解消されてしまう。


「口が利けないんだったら、口を奪ってしまおうか」

「えっ、ちょ、また」


 無音だった。呻く間隙すら与えてやる気は起きなかった。薄紅色のグロスを塗った控えめな唇を奪う。ついでに舌を伸ばしておくと効果は絶大だった。成すすべなく、僕の手の内で堕ちた後輩はフレンチキスを許容すると一気に肩の力を抜いた。がしっ、と僕の肩を掴んで離さない。スイッチが入ってしまったようだ。上気する体温。彼女の発熱が唇越しに伝う。


 理性を蒸発させる接吻を終えて唇を離す。唾液の糸が僕と後輩を繋いでいた。表情からはとうに怒りの感情が失われていて、蕩けた顔つきで物欲しそうな顔でじぃと見つめてくる。


「先輩の、ばか」

「言えるだけ言っておけ。今のうちだから」

「今のうちじゃありませんっ。この先もずっと先輩は私に詰られ続けてくださいっ!」

「無茶な要求をするね。僕の精神が弱かったら今頃三途の川を渡り切っているだろうよ」

「それは『もしも』の話ですよね!? もしかして嫌だったんですか。だったらすぐに止めますが」

「思いつめた顔をするな、らしくない。君は君らしく僕を華麗に罵倒して、行為中は罵倒されて悦んでいればいい」

「こ、行為中は余計で――、うわっ」


 僕は後輩の手を掴むと勢いよく引っ張って、ベッドの上に押し倒した。華奢な少女に馬乗りになると途端に背徳感がぞわぞわと背筋をくすぐる。理性はゾーンに突入していた。今夜は二六時を過ぎても興奮が止まないだろう。


 失言で引き起こしてしまった不安を払拭しなければならないから。

 ……という名目で、度の過ぎた快楽を後輩に刻み付けなきゃ気が済まないからだ。


「先輩は、鬼畜です」


 僕の目論見を包み隠さず述べたら、低劣なものを見るような目で射殺されそうになった。今に見ていろ、今宵は僕が詰る番だった。首元にキスマークを付けようと唇を這わせる。その横で、掠れた声が耳に飛び込む。


「先輩は私と出会えてよかったですか?」


 先程と同じ質問。三年前は『先輩は、私でいいんですか?』だった。当時の僕は答えることをうやむやにしたし、この瞬間もうやむやにしてしまいたかった。僕と後輩の関係に名前はない、友人でも恋人でもない。利害が均衡を摂れているだけの同棲。だから、『ぶっちゃけ誰でもいい』。代わりなんていくらでもいる、はずだ。


 だが、三年目の今日だけは優しい嘘をついておくのも罰当たりではないだろう。というか、的外れな答えを放てば、すぐに後輩が拗ねるのは目に見えていたから。


「――――ああ、君と出会えて幸せだよ」


 嘘を吐いた。

 罪悪感の欠片もなかった。

 夜遊びは二人だけの秘め事だ。

 互いに銃を突き付け合い精を搾り取り、吐き出す共犯者。

 だから僕はあえて真実を曲げて、言葉を投げた。

 言葉は魔力だ。嘘だって、しょせんは言葉の類なのだ。

 僕は噓から出たまことだけ避けねばならない。


 さもなくば、のうのうと積み上げた罪の箱庭はぺしゃんこに潰されてしまう。

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