4.『九月、閉塞を避妊具に吐き出して。』

 最近の日課は、日記を記すことであった。ただし、僕は何事にも三日坊主になる癖があるので同棲している後輩と交換日記という体で文字を書き起こしている。何かを書く行為というのは昇華と発散を同時に行うことができて、とても効率がよろしい。この意見には後輩も大賛成していて、すすんで日記を書いては読んでくれと押し付けてくる。そんなことをしなくても、僕は一言一句余すところなく目を通すし三度読み流す。暇があれば音読もするが、たまたま後輩が居合わせてしまうと、「うわ、ちょいおま、先輩、やめ、やめろくださ」と顔を真っ赤にして狼狽しつつ、日記を取り返そうとぴょんこと飛び掛かってくるので困りものだった。日記はお前の猫じゃらしではない。


 昨日の日記は僕の番だった。文面は短い。


『九月九日月曜日:ゲームをしていたら土曜日が溶けた。このままでは日曜日も溶けるかもしれない。大学生の夏休みは長い。モラトリアムの上でずっと寝そべっていたいものだ』


 爛れている大学生のテンプレをなぞっていた。モニターの真上に掛けられた丸時計は、午前六時五五分を指している。アラーム五分前、いたって健康的な起床時間だ、昨晩寝床に入っていればの話だが。ここでくだらない豆知識だが、起床とは就寝というイベントが発生することを前提に語られるものである。まどろっこしい言い回しは避けたいので単刀直入に申し上げると、僕と後輩は昨晩一睡もしていなかった。性行為を繰り返していたら夜が明けていたことはざらにあるが、ゲームで昼夜逆転するなど二人にとっては前代未聞だった。


 三〇型のモニターは普段、映画やアダルトな動画を流すためのものだが今夜に限っては、ゲーム画面を拡大する役割を担っていた。ブルーライトともに飛び込む『GAME SET』の文字列。画面の前で胡坐をかきつつポテトチップスを咥えた我が後輩がゲーム機のコントローラを投げた。「二度とやるかこんなクソゲー」ともはや常套句となりつつあった捨て台詞を吐く。でもってすぐに対戦を再開する。昨晩二一時に帰宅後からずっとこの具合だった。


「対戦相手チート使ってませんかこれ」

「……負け惜しみか?」

「先輩、喧嘩売ってるんですか?」

「ああ、売ってるよ後輩」


 僕もまた、コントローラを握る。彼女の横で夜通しプレイしていたがさすがに目が疲れてきた。ベッドに倒れこめばぐっすりと眠りにつける自信がある。再戦が始まる直前、スマホのアラームが鳴った。午前七時。正しき寝坊警告アラームは通常なら寝過ごされる存在であるにかかわらず、今回だけは正常に機能した。


「よし、寝ようか後輩」

「それもそうですね、先輩」


 そういうことになった。折れるのが早くて助かった。モニターの電源を落として、二人でセミダブルベッドにダイブする。もともとはシングルベッドだったが、あまりにも窮屈だったので後輩と折半して買った代物だ。マットレスにちょっと贅沢をしたおかげで寝付きがよくなった。


「秋になったというのにまだまだ暑いですね。夜通しエアコンガンガンにしなきゃ眠れませんよ」

「電気代がかさむなあ、胃がキリキリするね」

「割り勘すればちょっと安くなるしいいじゃないですか。大学生の夏休みはまだまだ中盤なんですから、このまま下旬までずるずる怠惰に耽りましょう?」


 後輩は今を生きる悪魔だった。彼女にそそのかされようが、されまいが、僕は怠惰を謳歌するつもりだったが。しかし、院進する後輩と一緒に卒業するとして、あと二年留年するとなると、実家からの仕送りは確実になくなる。というか、現状授業料は奨学金で賄っていた。借金は嵩むばかり。だったら就職しろよ――と社会から非難されること請けあい。


 働きたくなかった。怠惰でなあなあな日常が壊れることを恐れていた。いっそ、後輩と一緒に大学院に進学してしまおうか。やることもなく二年を食いつぶせばきっと怠惰を通り越して、社会に二度と戻れない気がしたから。それに、後輩も後輩で呆れかえってしまうのだろう。彼女が僕と関係を続ける理由なんて、セフレ以上恋人未満だから、でしかなく現状では僕も同感だった。


「なあ、後輩」声は返ってこなかった。「僕はこの先二年、どうすればいいかな」


 間が空いた。愚問だと後悔しても遅かった。壁の方を向いていた後輩が寝返りを打って、こちらを向く。目は開いていて、僕に視線をたたきつけていた。冷たい秋雨のように。飽きが回ってきた、そんな呆れかえった顔だった。ため息。エアコンのモーター音が延々となり続ける。それすらもきっと僕らのための子守歌であるかのように。


「知るかよばか、です」

「今日の君はやけに口が悪いな」

「なんというか欲求不満なんですよ」

「発散するか?」

「まさか。先輩は若くないので徹夜後に激しい行為でもしたらそのまま心停止しちゃうんじゃないかなと思いまして。手を出すわけにはいきません」

「大事にされているのやらどうやら」

「大事ですよ、先輩は。私の逃げ場を作ってくれるのですから」

「ならあと二年はこの部屋を守らなきゃな。僕より部屋が大事にされている気がしなくもないのは心外だが」

「でもさすがにあと二年留年されるのはいかがなものかと」

「それな。やることもないのに大学在籍してても時間の浪費が甚だしいだろうし」

「就職して、稼いで、私の逃げ口を作るという選択肢はありますか?」

「どうだろう。僕の実家は大学から遠いしね。だからアパート借りているんだし」

「実家の方で就職するんですか?」

「そっちの方が給料はよくなりそうだしね。君は実家が大学のそばだし、ここらでしばらくは住み込むんだろ?」

「私の家庭環境をご存じであれば察しがつきますよね……?」

「まだ家族とぎくしゃくして……、してなかったら僕のところに来ないよな」

「来ないとは限りませんが。いえ、どうなんでしょう。想像がつきません、先輩と半同棲をしていない世界線の私が。でも、先輩が大学を卒業されてしまったらきっと私は二年間一人ぼっちなんでしょうね」

「そうとも限らないさ。君は顔もいいし性格もそれなりだ」

「先輩にそれなりと言われる筋合いはありません。私は性格もデキる女なんですから」

「じゃあそれでいいよ。僕が言いたいのは君がその気になれば男の一人や二人くらい簡単に手に入れられる、ということだ。僕よりも都合のいい男なんて世に余るほどいるんだし」

「それは、確かに。先輩は良く言っても中の上、悪く言えば中の下の中途半端野郎ですからね」

「喧嘩売ってるのか?」

「そう言わせたかったんじゃないんですか?」

「……、」

「図星でしたか」

「君のせいで性癖がこじれた、責任を取ってもらいたいね」

「こじれたのはお互い様です。相互で責任を受けもたなきゃ、ですよね」

「具体的に何を要求するんだよ」

「まだ言う気はありません。機が熟したらその時は一世一代の要求をしてしまおうかな、と思っていますが」

「随分と重い要求だな、それ。僕は背負いきれるか分からないな」

「大丈夫ですよ、一般的な年頃の人っ子を一人背負うよりは多分軽いと思うので」


 ――そういうことにしておいた。話は大きく逸れて、いろは坂の急カーブよりも鋭利に曲がっていた。ゲームのし過ぎで陰気になった気分をドライブで晴らしたいなと妙案が浮かぶ。どうせ後輩も暇だろうし、レンタカーでいろは坂を攻めようかしら。紅葉の季節にしてはきっと早いだろうけど。他愛ない話が済んだ後輩は僕の胸に埋まって静かに寝息を立てた。軽率に僕はアッシュグレーの髪を撫でた。気持ちよさそうに首をよじらせて微笑する彼女の無防備な愛らしさを見届けて、僕もまた微睡みの沼に堕ちていく。すす、と鼻をすする声がかすかに耳元をくすぐった、気がした。

僕が目覚めたのは、西日がすりガラスの小窓から差し込んできたころだった。丸時計が示す時間は一七時を過ぎていた。秒針は埃を噛んだのだろうか、一向に秒を進めない。さよならが感傷的だから、傷つきたくない時計氏は一秒をリピートしているのだろうか。彼の干渉なんざ、僕の世界とは不干渉であってどうでもいい。夕方の小道を歩きたかったが、一人じゃ心細かったし、手持ち無沙汰が否めなかった。セミダブルベッドは孤島と化していた。キッチンで水音が跳ねたから、目線を上げれば後輩がコップに水を汲んでいるところだった。


「起きたんですね、先輩」

「眠れた?」

「はい、ぐっすりと」


 二つのコップのうち片方を僕に差し出してきた。何の変哲もない、浄化された水道水でのどを潤すと、頭はようやく正常な思考を繰り出すようになる。腹が減った。ぐう、ときゅるる、と腹の音が二重奏を奏でた。コップを渡すついでに後輩の顔に目を向けたら、薄紅色の唇がふるると震えていたし、頬も真っ赤だし、ともかくつべこべ言及するのはナンセンスだと悟った。西日のまぶしさがすべてを誤魔化してくれると信じていた。


「夕食、ラーメンでいいか?」

「あっさり系ですか、こってり系ですか」

「間を取って二郎系で」

「きょうび、可憐な女の子を誘う男の台詞とは思えませんね」

「やかましいわ、好きなくせに」

「そ、それは私と先輩だけの秘密でしょう?」

「反対意見がなければ決定だけど」

「仕方ないですね行きましょう」

「仕方ない割に準備が早いじゃないか」

「細かいことは気にしないでくださいひっぱたきますよ」


ひっぱたかれなかったけど、急かされ背中を押されて玄関を飛び出す羽目になった。余程楽しみなのだろう。夕方の小道に照らされた後輩の横顔には輝きが映えていた。陽気に鼻歌を口ずさんでいるが、音程がバラバラの不協和音で曲の原型をなしていないと思われた。楽しげだったから気にしないでおくことにした。


 行きつけのラーメン屋は開店早々でまだ無人だった。大学近辺では唯一、二郎系を出すので後輩のお気に入り店リスト(大学ノート一冊分)に記載されている。僕が全マシマシを頼むと、後輩も同じく全マシマシを注文する。決して見栄を張っているわけではない。小柄な身体の割にフードファイターな我が後輩は、当然のように二郎系の全マシマシを一般平均男性すなわち僕よりも早く平らげる。


 今日も今日とて爆食後輩は健全だった。カウンター席に隣り合って座りしばし無言で待機する後輩のもとにお冷を持っていく。彼女は涎を口の端から垂らしながら、無言で厨房を覗いていた。肉食獣が獲物を観察し、待ち伏せしているかのように。


 五分も経たぬうちに麺とモヤシの山がどんぶりに載って僕らの前に差し出される。ラーメン大盛り、全マシマシ。太麺の縮れた水蛇が醤油ベースのスープを満たしている。アブラとニンニクで着飾ったモヤシの山を左右にかき分ける。そして、下に積もる麺の束を箸で持ち上げた。天地ガエシと呼ばれる奥義だ。ヤサイは太麺に包まれてスープの海に沈んでいく。


「先輩、それは邪道ですよ。男なら、私のように頭から一気に食わないと」

「君は男じゃないだろ。男勝りな食べ方はするけど」


 後輩はというと。ヤサイの山を頂点から崩していた。名峰チョモランマの如きそれはすぐさま阿蘇のカルデラのようにくぼみ、しまいには関東平野になった。その間わずか一〇分足らず。スープまで完全に飲み干していた。いや、何者?


「先輩」

「なんだ、後輩」

「うじうじしそうになったら、とりあえず美味いものとデカいものに限りますよね、あと睡眠」

「……確かにな。実に合理的だ」

「だから、これから辛いことがあったらまた二人でここに食べに来ましょう。幸い、私は食べても食べても太らない体質なので」

「君が食べたものがどこへ還るのか。人類の七不思議のひとつだよね」


 僕はいつまで経っても成長しないらしいちんちくりんな体躯と胸を交互に眺めた。ゴキブリを見るような後輩の目線を横目で受け流す。見なかったことにしよう。


「奢りでお願いしますね先輩」

「どうしたんだい、いきなり」

「目線が気に入らなかったので」

「ことと次第によっては理不尽を感じていただろうな、ことと次第によっては」

「ってことは出頭ってことでよろしいですね? ――罪を軽くして、餃子一皿でよしとしましょう。五個入りらしいので、私が三つ食べますね」


当然のように多い方を取るのが僕の、生意気だけど自慢の後輩だった。ニンニクとニラをふんだんに詰めたスタミナ増強餃子がカウンターから差し出されると、酢につけて頬張る。もっち、もち。とろけそうな頬を持ち上げてうっとりとした表情を浮かべる彼女はリスのようだった。


「先輩もおひとつどうぞ」


二つ目を食した後で皿を横に滑らせてきた。ひとまず麺とヤサイを平らげた僕は、腹八分はとうに超えて腹十分だったので一個だけ箸で持ち上げて、あとは後輩に譲った。横で目を光らせた小さな美食家はすぐに平らげていた。口にする。ぷち、と皮が破けるとふうわりと具の肉汁が口腔内を満たし、ニンニクとニラの刺激が舌を蹴上げて乱舞する。飲み込む。これは僕ではなく後輩の言だが、ラーメン屋のサイドメニューはどれもこれも美味しいらしい。一般ピープルはメインに気を取られているせいで大事なものを失っているのだ、と豪語する姿は現代に生きるちんちくりんなソフィストだった。


生真面目だが、どこか抜けていて僕との爛れた生活を受容している彼女は、今じゃただの性欲処理係ではなく、一種のあこがれとして映っているのだろう。


「先輩」

「なんだ?」

「私はきっと、こういう生活が好きだから。これからもずっと爛れきったこの生活を続けたいななんて思っていたりします」

「やけに気が合うな、君とは」

「それは自惚れですよ」

「んだとオラ」

「でも」


 彼女の手元で忙しなく重労働を強いられていた箸がどんぶりの裾にちょこんと置かれる。僕らはほぼ同時に横を向き、目を合わせた。僕は見下ろし、彼女は見上げるようにして。


 淡々と、無表情。


「自惚れでも構わないので、これからもずっと気が合う二人で怠惰にずるずると爛れていたいものですね。毎日思考回路がドロドロに融けるくらいにセックスして、腰を抜かしながらベッドで寝てジャンキーな夕食を共にする。だってまだ若いですから、もっともっと若いことしましょうよ。気が済むまで若いことしてその後で、その後のことは考えましょう」


 未来が幸せな方向に転がるか、転がらないかはともかく。

 二〇代前半、モラトリアムに浮かぶ僕らが、ありのまま僕らを楽しめるのは今だけだった。


 店を出て、部屋に戻る。帰路が、人通りの少ない夜道であったのをいいこと後輩は僕の腕をやわな胸に押し当て、擦りつけていた。犬のマーキングに近いものか、それとも。


 自室の扉を閉める。静謐が、女の湿った鼻息で満たされる。二重のドアロックが済んだところで限界を迎えた後輩が僕の唇を奪い去る。そのまま脳を蕩けさせるディープキスを仕掛けてきた、だから近い明日のことを考えるのはやめた。気持ちいいことでなあなあにする、それが僕と後輩の爛れた、不純な関係ってやつだ。


 心地よい虚しさを、避妊具に吐き出して僕らは変わらぬ夜を明かす。


『九月一〇日火曜日:やっぱり先輩と一緒に食べるラーメンは美味しいし、それ以上に気持ちいいことに溺れるのが大好きです。だからしばらくは先輩を離す気はありません。覚悟しておいてくださいね?』

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