3.『八月、火花の群れをメイド服に綴じ込めて。』

 休日の夕方だというのに、上りの電車は混雑していた。

 電車内に木霊するアナウンス。いわく、近くで夏祭りが開かれるらしい。


 八月の終わり、言われてみればそんな季節だった。


 ちらほらと浴衣姿の若者が目立っていた。祭り楽しみだね、とか、どの屋台行こうか、とかあるいは告白成功するといいね、だとか。各々がきっと思い思いに年に一度の祭典を楽しむのだろう。


 ありきたりすぎて噴き出しそうになってしまった。


 各駅停車の緩やかな揺れに身を任せて談笑する彼らを遮断するために、イヤホンで耳を塞いだ。音楽プレーヤーから流れてきたのは『祭りのあと』。祭りに行くわけでもないのに、なんだかシュールだ。


 囃子が車窓の向こうから近づいてくる。たまたま乗り合わせた烏合の衆にうんざりしながら、スマホのブルーライトを浴びる。画像フォルダはデートの写真の隙間を縫って肌色とほのかに熟れた女の顔があった。撮ってやると興奮するたちなのだ、僕の後輩は。


 さて、本題だ。


 ――なぜ夕方にもかかわらず上りの電車に乗っているのか。祭りに出向くわけでもないのに。


 答えは簡単。後輩に呼び出されたからだ。


 そもそも人だかりのできるイベントに縁がない。人混みを好かないので願ったり叶ったりだった。


 事の顛末を一言で申し上げると、僕は自室に捨て置かれていたメモに書いてあった場所に向かっていた。筆跡は言わずもがな後輩のもの。むしろ後輩のものじゃなかったらホラーか推理が始まっていただろう。


 親愛なる読者には悪いが僕の語りにトリックを期待しないでほしい。このお話は僕と彼女、先輩と後輩とその極小なる周囲の日常しか記せないのだから。


 ……いったい誰に向かって話しかけているんだろう。


 ともかくだ。起きた直後でまだぼんやりとした意識を覚醒させるべく、浄化した水道水をグラスで一杯。水面に浮かんだ氷をぼりぼり噛み締めながらメモに目を通した。


『バイトがあるので早めに家を出ます。暇だったらここ行ってみるといいですよ〜』


 角の取れた、いかにも女の子っぽい字で住所だけが記されている。飾り程度にうさぎの絵が描かれていた。そこはかとなくミッフィーに似たうさぎ。こう見えて実は犬猫の類を模写しようとした可能性も否めない。なぜなら彼女は美術のセンスがことごとくなかったから。犬って言われて見せられたものがイグアナだったくらいには。


 裏面にまで目を通す。後輩は文庫本のカバーの裏まで目を通すタイプの人間だった。そうやってたまに裏に書かれた裏話やら設定集を見つけては目を輝かせていた。宝探し感覚らしい。


 目論見通り、裏には小さな文字が書かれてある。


『バイト終わったら飲みに行きましょうね、先輩。午後五時半 指定の住所 むかえ』


 むかえ。向かえ。命令口調かよ。どのみち強制参加イベントだったらしい。盛大に肩を落とした。


 どうせすることがないから暇つぶしに付き合えってことだろう。


 言われるまでもなく、することはなかった。抵抗権は失われていた。


『寝っ転がってツイッターを更新し続けるなら外で散財した方がマシですよ?』


 ……と脳内後輩(あくまのすがた)がそそのかす。だが、そうは問屋が卸さないらしく、悪魔の隣からひょいっと別の後輩が出現。耳元に口を当ててくる。


『散財は良くありません!私のためにお金を使ってください!』


 ……と驕りを強要する脳内後輩(てんしのすがた)が取っ組み合いをしていた。論点が違う。それに君たち、実は仲いいでしょ……。


 平和が大事、それはそう。ノーウォーズ、ノーライフ。


『『先輩それだと血の気の多い兵士ですよ全然平和じゃないです。英語の必修単位再々履の汚名は伊達じゃないですね』』


 うるせえ!


 僕を罵る時だけ結託するな、肩並べるな。思いっきり肩を震わせてみたら脳内で「逃げろー!」と気の抜けた悲鳴とともに場外に逃げ出した。小学生か、僕が後輩に抱くイメージは。本人のいないところで途轍もなく失礼なことを考えていることに気づく。お詫び代わりに今夜の飲みは奢ってやろうと心に決めた。妖怪ただ飯奢りではない、断じて。


 閑話休題。


 指定の住所にはすんなりとたどり着いた。駅から近場だったのは幸いだった。『メイドカフェ あるじのやかた』の看板の下で後輩が手を振ってきた。僕は思わず硬直してしまった。


 ただの後輩がそこに突っ立っていたら僕は平静を保っていただろう。

 つまり僕は取り乱した、ということだ。


 なぜか。後輩がただの後輩じゃなかったからだ。


 ただの後輩ではなく、タダの後輩でもなかったから言葉を失った。


「いらっしゃいませ、先輩っ!」


 目の前の後輩はタダじゃない――有料オプションの後輩。


 髪を纏める、レース柄が可愛らしいホワイトプリム。アッシュグレーの髪は心なしか、いつもより艶めいて見える。ふくらはぎの中腹まで伸びていてふっくらと広がった黒地のワンピース。その上には清潔感ある真っ白なエプロンを着込んでいた。


 中世ヨーロッパにおける女中の作業着であり、現代日本ではサブカルチャー文脈を象徴する衣服の一つとなっている。


 すなわち。後輩はメイド服を着ていた。

 僕は思わず、思ってもない言葉を吐いた。


「……イメクラか?」

「せっかくいつもと違う格好してるのにその感想は酷すぎません?」


 こちとら照れを誤魔化すのに精いっぱいなんだよ。

 だって、安っぽいコスプレと比較するのが失礼に値するくらい、メイド服を着こなしていたから。


「君のバイト先って、メイドカフェだったんだ、初耳」

「先月から始めたばっかりなんですけどね」

「前は飲食やってたよね、あと塾講師」

「塾講師は割に合わなかったんでやめました。飲食は一応週一で入ってますけど、メイドカフェほど稼げないんですよね」


 出会った頃から彼女はバイト戦士で日雇いや長期バイトの掛け持ちをしていた。僕よりは確実に稼いでいる。でもあまり長続きした試しがない。基本半年たたずに飽きて職を転々としているのだ。


「今回は長続きしそうか?」

「どうでしょうね」


 何度かわざとらしくちらちらと目線をよこしてくる。口元がにやついていた。


「ヘタレな先輩が、今の私を可愛いって言ってくれれば考えてやらんでもないです」

「何様だ」

「後輩様です。もっと崇めてください」

「なら僕は先輩様だし。そもそも今日はお客様でご主人様だよ、敬えよ」


 ずんずんと。


 二人して胸を張ってえばる男と女が二人駅近くの裏路地にいた。僕と後輩だった。近くで野良猫が呆れたように低い声で鳴いている。不毛なトントン相撲だった。


「なあ、後輩」

「なんですか、先輩」


 チリチリと目線が火花を編み出す。お互い、目力の銃口を突き付け合った。あたりは中小ビル街ではなく岩石砂漠だった。ホルスターに装填された架空のリボルバーに手をかける。コロコロと西部劇定番の回転草(タンブルウィードというらしい)が二人の間を忙しなく転がっている。ぬるいビル風がピタリとやむ。――今だ。


「せんぱ――」

「いつも以上に可愛いぞ、後輩」


 バァン。


 勝ち負けは刹那を超えて確定した。彼女は目を逸らす。髪の隙間からはみ出た耳が真っ赤に染まっていた。僕の勝ち。


 後輩はポケットから長細い筒を取り出した。筒は先端が丸まっていて粉末を詰める火皿となっていた。昔懐かしキセルを咥えると、その先端にマッチで火をつける。濃い紫煙が弾丸とともに排出された硝煙よろしく、あたりに滞留する。煙草らしい、草の焼ける匂いはしなかった。


「さてはただのキセルじゃないな? 煙たくない」

「実は電子タバコなんですよ、これ」


 冷静沈着な口調だが、耳元の火照りだけは隠しきれない。指摘したら噛みつかれそうなので生暖かい目線を送っておくと彼女は軽く首を傾げた。


 煙をぷかぷか吐き出して熱を放出しようと必死なメイドさんの頭をそっと撫でてやる。やはり僕の中での後輩は対象年齢が一〇歳とかそこらなのかもしれない。一〇歳かそこらの子供と世にいう廃れた行為を繰り返していると考えると罪悪感が募るような気がしなくもない。そもそも後輩は一〇歳ではないし互いに了承を得た爛れなので罪の自覚はない。罪ではない。


「先輩、ちょっと今失礼なこと考えませんでした?」

「今日の飲みは奢り、これ先輩命令な」

「なんかよく分かりませんがわーい!」


 チョロいものだ。隠れて鼻で笑う。腕時計は四時四〇分を超えようとしていた。仕事の方は平気なのかと聞いたら、既に退勤のカードは押してあるそうだった。


「それでは行きましょうか、先輩」

「えっ? どこへ?」

「いいから大船に乗ったつもりでついてきてください、ちゃんと用意はしてありますので」


 用意? いったい何の? 問うよりも早く後輩が進みだしたので無言でついていくことにした。メイドカフェが入ったテナントビルに入るとひたすら階段を上る。後輩は二階に店を構える職場を素通りしてさらに上へと進んでいく。何を考えているのか、皆目見当がつかなかった。


「――つきました」


 たどり着いたのはビルの屋上。人工芝の床材の上に洋風の机一つと椅子二つが揃っていた。机上には紙コップが二つ並んでいて、その間にある紙皿にはスナック菓子が盛りつけられていた。


「しばらく待つことになりそうですが、私が手作りした料理でも振舞いましょうか」

「いったい何を待つんだい?」

「強いて言うなら、先輩が嫌いそうな、でも悪くないなって言ってくれそうなものです」


 僕の嫌いそうなものをわざわざ見させるのか。いまいち、彼女の意図が伝わらない。解像度を無理矢理低くさせられている。ひとたび、嫌いそうなものと言われても、この伝達のしかたでは興味を持たざるを得ない。さすがは後輩、人の心を分かってる。


 彼女は一度、屋上から姿を消した。が、すぐに両手にたくさんの料理を持って僕の前に姿を現した。メイドカフェのメニューを机の上に並べる。定番のオムライスにはケチャップで『せんぱい』と器用な丸文字を書いてくれた。「召し上がれ、ご主人様」と添えて。


「ビルの屋上でメイドさんに奉仕してもらうのもなかなか乙なものじゃないですか?」

「雰囲気があってよろしいな。さすがは僕の後輩。僕の性感帯をよくご存じで」

「そりゃ、二年以上同棲していますし当然っちゃ当然じゃないですか? 先輩の性癖が分かりやすいのも一因ですが」

「バレたか」

「バレバレですよ」


 メイド後輩と僕とでゆっくりと早めの夕食を楽しむ。そうこうしているうちに、軽々の二時間くらいは過ぎるのだった。メイドカフェの閉店時間が近づいたので食器を片し、メイド服を着替えるために後輩は階下へと降りて行った。


 ビルの屋上で一人ぼっちになる。五階建て程度の高さから下に広がる街を望む。僕とは関係なしに、社会は巡っているようだった。休日出勤のサラリーマンや飲み会に明け暮れる学生、部活帰りの高校生、快活に吠える飼い犬と連れまわされる飼い主。誰もかもが上を見ない。皆が皆、彼ら自身の前を向いて歩いている。


 ふと、坂本九の『上を向いて歩こう』が脳裏によぎった。


「上を向いて歩こう、にじんだ星をかぞえて、思い出す、夏の日、一人ぽっちの夜」


 口ずさむ。涙がこぼれそうになったとき現実から逃避するために星を見る。星々は無言であり、よき理解者だ。愚痴とか不満とか不安とか、憂いの処理がキャパオーバーになったら彼らに投げてみるといい。言葉をいつだって受け止めてくれる。暗鬱を吸い込んで光の筋で僕らを潤してくれるのだから。


「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」

「泣きながら歩く、一人ぽっちの夜。――『上を向いて歩こう』ですか、先輩らしい選曲ですね。泣くにはまだ早いと思いますが」


 屋上の入口では私服に着替えた後輩が立っていた。上下に肩が揺れ、荒い呼吸を整えているあたり、ここまで走ってきたのだろう。どうしてだろう、僕は逃げたりしないのに。


 些細な疑問は、後輩の狂喜の声でかき消された。人差し指がピンと、僕を指す。


「先輩、うしろっ!」

「えっ」


 ひゅぅ。どんっ。


 振り向きざまに僕の目が鮮明に写したものは薔薇のような、花弁のしっかりした花火だった。後輩が後ろから駆けよってきて、僕の脇に潜り込んで見上げた。どんっ、どんっ。巨大な花々が硝煙のツンとする香りを撒いて、紫色の空で開花する。夜のとばりは開いたばかり。まだまだ花は精一杯咲き誇る。


「後輩が見せたかったものって、これか?」

「その通りです。花火は嫌いじゃないでしょうが、先輩はお祭りごとが嫌いですもんね」

「さすがだな」

「さすがなんですよ、私は。で、どうにかして花火を一緒に楽しめる方法はないかなって探ってみた結果、こんな振舞い方になってしまいましたが……どうでしょう、先輩?」


 僕はただ、上を見ていた。坂本九に影響を受けたわけじゃないけど、にじんだ星を数えるように。星空は種子を抱えている。人々の悩みは願いとして空へと飛ばされる。種は殻を破って、開花する。一刹那を華々しく彩って、再び地上に降り立つのだ。


 願いと昇華の繰り返しで社会は回っているのだろう。

 後輩はこれ以上、何も語らなかった。ただ、無言で僕の腕をきゅっと握って離さない。

 漂う花火の残り香が鼻腔をくすぐった。涙が止まらないのはそのせいってことにして、僕は言葉を発さずに後輩の身体を引き寄せた。


「ありがとう。最高に、悪くなかったよ」

「ならよかったです。先輩の喜ぶ顔、可愛くて個人的に高く評価しているので」


 僕らは斜に構えて、くどい言い回しで好き合った。いつも通りの二人で、テナントビルの五階から眺める金色の柳を忘れてはならないと心に誓った。


 夏の終わりはすぐそこまで迫っていた。

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