2.『八月、蝉の抜け殻、極小の幸福を飲み込んで。』

「空蝉って、空っぽの蝉って書いてこの世の人間って意味らしいですよ、先輩」

「あるいは単純に蝉の抜け殻をさすこともある夏の季語、だったっけ?」

「※ニコニコ大百科から引用、ですね」

「※Wikipediaから引用、みたいに言うな。図星なんだけれども」


 ちなみに、大正義大辞林さんで検索をしたら『1 この世に現に生きている人。転じて、この世。うつしみ。2 蝉の抜け殻、また、蝉』とあった。

 面倒臭い性格の後輩はそのひと手間を加えることで勝手に納得した。曖昧なソースを信じると身体中がかゆくなる難病にかかっているとのことだった。

 変なところに几帳面なきらいがある。この几帳面さを部屋の片づけに生かしてほしい。自室の後輩・スペースは雑然としていて直視できない状態にあった。


 僕ら先輩後輩コンビは大学の図書館で自習をしていた。八月の真夏に一人暮らしの部屋でエアコンをガンガン使う気にはなれない。光熱費に首を絞められるのは御免だった。


 あと一週間で夏休み。裏を返せばテストやレポート、発表に追われる時期。


「勉強する柄ではないんだけど、勉強をしなければ単位を落とすんだよなあ」

「留年した当人の証言だと説得力が段違いですね。私も勉強しよ」

「やかましいわ、模範的大学生」


 去年のうちに卒業研究を終わらせていたのが幸いした。おかげで取り損ねた必修単位を回収すれば無事卒業要件は満たせる。ただし、後輩は留年なし、現役の大学四年生。すなわち、現在卒業研究真っただ中だ。フィールドワークに勤しんでいるため、最近は一週間近く家を空けることが多くなっていた。久々の休日も必修単位のテスト勉強。真面目な学生は多忙なんだなあ。


 ただ、テスト期間が近づいているとはいえ。


 勉強が本分と言いつつ、遊びというルビの付いた社会勉強にうつつを抜かす学生身分にとって、一時間の集中すらなかなか厳しいものだった。後輩はともかく、絶賛落第中の僕は特に。


 休憩にしよう。――という、僕のありがたみのない鶴の一声に後輩は呆れかえりつつも後ろをついてきた。優しいやつだ。というわけで飲食可能なロビーで二人、ソファに腰かけて炭酸飲料で喉を潤す。ジャンケンに勝てばコーラが無料になるキャンペーンをわざわざ当てにする気はなかった。三分の一の確率で勝てないならさっさと自販機に貢いだ方がいい。


 分厚い鈍器、もとい辞書を簡単に持ち出せたのはそのおかげである。後輩といつか、辞書は武器か防具かという他愛もない議論をしたのを思い出す。大辞林を防弾チョッキがわりに身につけてみろ、なりが妊婦のそれになるぞと反論したら小声で、その時は先輩に孕まされたことにしておきますね、と蠱惑的な笑みを浮かべていた。勝手に罪を擦り付けるな。


 かくして冒頭に戻る。


「で、なんでいきなり空蝉の話になったんだ?」

「私たちって、文学部日本文学科に所属しているじゃないですか」

「あー、そういえばな」

「……先輩はもっとまじめに講義を受けるべきです」


 注意されなくとも、今年はほどほどに。って言い訳する前に頬をつねられた。もう一年留年するんですかと謗られるが、ひりひりする頬を抑えながらそのつもりだと答えたら、もう片方の頬をぎゅむぎゅむつねられる。痛いから。


 後輩は院進を志しているらしいので、モラトリアムは今年含めあと二年半だ。


 僕は? 休学してもう二年遊べるドン! しようかしら。なんて、口にしたらもうそろそろ急所を蹴上げられそうなのでやめておいた。引き際、大事。


「話を戻すと、来週プレゼンテーションをするんですよ。お題は、自分が調べた単語についての推察だったんで、辞書めっこの機運でした」


「懐かしい単語だな。クソガキが下品な言葉の載ってるページを折るんだよな」

「ちなみに私は折る側でした」

「図書館の蔵書を傷つけるな」

「大丈夫です、祖父に買ってもらったものですから」

「なおさらだっ」

「毎晩こっそり机上でライトを照らしながら、下品な言葉に線を引いて恍惚に浸っていました。小学五年生の頃です」


 聞いて呆れた。道理で毎日絞っても絞っても欲が尽きないわけだよ。炭酸飲料の瀑布を勢いよく嚥下した。山手線ゲームをしてくださいよ、と後輩から期待の眼差しを向けられるが、そそくさと便所に逃げ込むことで難を逃れる。


 用を足しロビーに戻る。後輩は日刊の某経済新聞を手元に開いていた。


「殊勝なことだ」

「一番マシなんですよねこの新聞」

「どこも変わらないよマスコミなんて。一部分だけ切り取ったスクラッチブックだ」

「まあ、新聞を読むのは大事ですよ。先輩の家、テレビないし新聞を見ておかないと世間から取り残されてしまいます」

「新聞は読んでいないが、電子版は目を通してるぞ僕だって。三社比べ読みしてる」

「予想に反してメディアリテラシー高いですね」


 失礼だな。ぺし、と後輩の額にデコピンをかました。


 結局自習もはかどらなくなったので、外へ出る。腕時計は午後六時過ぎを差していた。発光ダイオードの街灯がアスファルトの擦り減った舗装をまんべんなく濡らす。


 学舎の横を通る大学通りをくだっていく。居酒屋街を退勤後の会社員やサークル帰りの大学生が行き交っていた。雑踏をかき分けて、すっかり常連となった居酒屋の暖簾をくぐる。カウンター席の端に並んで座ると店長が枝豆の小皿を手前に置いた。常連さんへのサービスだった。


 酒が安く、サイドメニューが多いのがウリの店で、毎日うちの大学の学生でたむろしていた。店の奥の宴会場では体育会系のサークルがコール合戦を繰り広げている。日常茶飯事なので横に置いておく。


「揚げ餃子なんてどうですか?」

「明日も卒研用のインタビューがあるんだろ。やめといたほうがいいんじゃない?」

「でも、今は無性に餃子! の気分なんですよね」


 よりによって今日かー。思い直すように説得する前に、後輩は注文を終えていた。帰りのコンビニで林檎ジュースとフリスクを買うのは確定となった。


 しばらくして、できたての餃子がカウンターから差し出されると、横で割り箸をパチンッ、と割る音があった。振り向いた時には既に、不揃いな長さに割られた後輩の箸が、餃子をがっしり掴んだ後だった。僕も続けて、餃子を口に運んだ。


「んー!」

「おっ、おいしいな」


 ぱりっぱりの皮を犬歯で蹂躙すると、内側から牛ひき肉の肉汁がとめどなく溢れてくる。うまみの奔流が舌をちょろちょろと小川となって駆け抜けていった。


「やっぱり、お酒にはこれしかないですよっ! 店長! 生中に餃子! ピザ! 焼き鳥!」

「あんまり飲みすぎるなよ」

「介抱は任せますね~」

「丸投げしやがった」


 空のジョッキがテーブルを揺らす。このやろう、自制する気ナシか。


「やってられねえ……」


 愚痴を呟くも、暴食を始めた後輩の耳に入らない。


 僕は最安のハイボール五〇円をちびちび啜る。

 酒豪の後輩に反して僕は下戸だった。


 下戸中の下戸。人呼んで――『キングオブ下戸』


 ちっとも嬉しくない名称は、でろんでろんに酩酊した後輩につけられたものだ。舐められている。舐められても仕方がない堕落のしかたをしているのだから何も言えませんね、はい……。


 僕がハイボール一杯枯らすより先に、後輩の生中ジョッキが三本枯れる。上気だった後輩の頬から見るに、いい感じで酔ってきたらしい。ぶわっと、冷や汗が一気に下っていく。まずいな。僕は後輩を連れては約退散しようとした。ただ、時すでに遅し。


「せ~ん~ぱ~い~? 聞いてますかぁ?」

「……なんだよ」


 後輩の数少ない欠点の一つ――悪い酔いが始まった。聞こえないように舌打ちする、遅かったか。こうなるとほぼ素面の僕では手に負えなかった。店長に助けを求める目線を向けても、わざとらしく口笛を吹いて目を逸らす。彼もまた、後輩の悪酔いの被害者だった。


「も~う~……、構ってくださいよぉ」

「わかったわかった、構うから静かにしてろよ?」

「わ~い!!」


 僕の話なんか、一言一句も聞いていない。左から右へ一方通行の素通りだ。後輩が勢いよく隣席を立つ。その勢いでガタッ、と音を立て彼女の椅子がひっくり返った。真後ろの惨状をいざ知らず、彼女はがばっと後ろから抱き着いてきた。背中に当たる慎めな膨らみを堪能する余裕は、ない。


「ちょ、おい、やめろっ。羽交い絞めするな痛い痛い痛いっ」

「えへへ~。先輩かわいい~!」


 締める力が強まる。男も顔負けの馬鹿力。男だろうが、女だろうが酔った人間はリミッターが外れて差し押さえるのが難しい、とはどこかで聞いた豆知識だ。


 酔うと人間は本性を露わにするらしい。家庭内暴力の常習犯とかいい例だ、人間としては最悪の例だけど。 


 幸い、後輩の悪酔いは暴力がメインではなかった。殴らないし暴れない。抱きしめようとして極め技になることはあるけど。いや、そうはならんやろ。


 ふぅ、と呼吸が渦を巻いて耳元に吹きかかる。僕の弱点を知り尽くした後輩の不意打ち。効果覿面、大ダメージ。思わず膝ががくがくと震えた。宴会場から垣間見える体育会系の惨状をバックに甘くとろける吐息が脳をどろどろに掻き混ぜてくる。


「せんぱ~いぃ? ……好きですよー、ずっとずっと」

「……そうか。そうかそうか」

「むー、テキト~」


 後ろから顔を覗かせた後輩の髪を撫でて誤魔化す。垢抜けたアッシュグレーの髪を漉くたびに気持ちよさそうに目を細める後輩はきっと、ありとあらゆる男のあこがれなんだろう。


 付き合わずになあなあな同棲生活をしている僕じゃ、到底釣り合わない。



 なあ。君の『好き』は、『ライク』なのか、それとも。



 ――なーんて、泥酔した彼女に聞く問いではなかった。酒を飲んで薄っすら朦朧とした意識の中、胸に針が刺さったように痛んだ。顔に出すほどではなかったけど。過去の女の顔が脳裏に浮かび、僕は思いっきり首を振って忘れようとした。


「本当ですよ? 絶対ですよ?」

「大丈夫だよ」


 曖昧に答えをぼかす。

 絶対なんて、どこにもない。


 後輩の言葉が一方通行に流れていく。僕は最後の餃子を噛みしめた。時化た皮の奥で生ぬるい具が呑気に居座っている。作りたてには勝らないが、これはこれで悪くない。


 ハイボールをやっとの思いで飲み切り、ゆらゆら酩酊する後輩を連れて席を立つ。

 胸が痛んで膿んでいる今日は、僕の奢りにしておこう。


 会計を済まし、入り口前でにこにこしている後輩に肩を貸した。

 酔った後輩は、いつも以上に舐めた口を聞くけど、時折見せるへらっとした笑顔はいつも以上に愛らしかった。


 ゆっくりと通りをくだる。夜更けの商店街は昼の騒がしさとは裏腹にシャッターの銀幕が下りていて、静けさと疎外感だけを僕らに与えていた。二人ぼっち、千鳥足を正すように路地を歩む。


 彼女の微笑に背中を押されながら、一歩一歩、歩幅を合わせて。

 僕らの部屋に、怠惰で矮小な幸せの箱庭に帰ろう。

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