不純な。
音無 蓮 Ren Otonashi
不純な。本編
1.『七月、ぬるま湯の爛れた日々より。』
夏になりたてのジメジメした空気が僕の首に纏わりついて息苦しくて、気持ち悪かった。肺が過大な呼吸を拒む。
七月初週。梅雨が明けて間もない、夏の始まり。
学生身分を謳歌する身ならば、横たわる暇を持て余す季節。それとも、暇人は案外少数派なのかもしれない。現に目に映る世界は活気に満ち溢れていた。
大学の体育館では、フットサルの明朗な掛け声と跳ねる靴音がやかましい。かと思えば、グラウンドでは、巌のような男衆がスクラムを組み、野太い声を轟かせている。汗水は遠目から見れば美しい宝石のようだが、しょせんは老廃物をふんだんに盛り込んだ体液だった。
ギターケースを背負った男女が横を通り過ぎる。いかにもサブカル系に染まったような女と、マッシュルーム頭の軽そうな男。そう長続きはしなさそうな組み合わせをほくそ笑んで受け流す。
どいつもこいつも、顔が平べったい。
「見ろよ、あれが一般的な“青春”ってヤツらしい」
わざと嘲笑を混じらせる。独り言ではない。世間への皮肉を独り言ちるのは高二病ラノベ主人公だけで充分だし、その手の作品はお腹いっぱいだった。
僕の皮肉は隣に並ぶ、頭一つ小さい後輩の少女が拾ってくれる。
「斜に構えるのも大概にした方がいいですよ、先輩。器の底が知れますから。そんなだから友達が少ないんですよ」
「友達が少ないのは余計だ。それにもう、僕の友達は大学にはいない。永遠に戻ってこない」
しみじみと。昔を懐かしみつつ、憂いの口調で語る。実話だ。今年の冬休み、実家に帰省して帰ってきたら友人たちは皆、姿を消した。さよならの一言すら言わず。
――なんてね。
モノローグをそれっぽく演出しようとしたら、前に出てきた後輩が手をぶんぶん振った。
妄想、終わり。
「って、勝手にお涙頂戴の展開にもっていかないでください。危うく泣きそうになりました、どうしてくれるんですか」棒読みで諭されても説得力がない。こっちの事情は知られているわけだし、その反応も頷けるけど。「本当は留年しただけだというのに。抽象化するのは、先輩の嫌いなマスメディアと同じやり口ですよ?」
「バレたか」
わざとらしく被りを振る。とっくにバレてます。ちなみに同期だった友人とはたまに飲みに行っている。大学は首都圏から離れたところにあるので、わざわざ用がないのに大学まで来ない。それだけの話だ。僕と後輩の話には今後一切関わってこないので、この話はおしまいとしよう。
僕はまだ、あと数年大学に留まるつもりである。後輩は少なくとも修士に進むらしいし、それに合わせて卒業するのでいいだろう。就職は友人のコネを使わせてもらえばいいかな。他力本願寺修行僧の道はゆるゆるだった。滝行と称して打たせ湯を楽しむ緩さ。湯治じゃねえか。
ぬるま湯に長居するように生きている。社会を舐め腐っているのは重々承知だった。
「そういえば僕が留年したってことは、すなわち僕と君と同じ学年になったということだよな」
「……要点を最初にお願いします」
「もう先輩呼びはやめでいいんじゃないかな、同学年だs「それはっ! できませんっ! 先輩はっ! 先輩なのでっ!」
回答が早いっ。そして、圧が強いっ。
ずんっ、と前のめりで迫る後輩にたじろぐ。赤くなった頬を膨らませている。やめろ顔が近い唾が飛んだぞこのやろう。人と目を合わせることに極端に慣れていない身なので、心臓を掴まれるくらいの緊張が奔っていた。後輩の顔がいいのも悪い。二対八で後輩が悪い。
顔がいい。それはそれは、とても。
くりくりと小動物のような愛くるしい目、うっすらグロスの艶めきが映える控えめな桜色の唇。その奥から見え隠れするクリアな犬歯。化粧は天性の不器用なので凝らないのだ、と自嘲げすることはしばしばあるが、おかげで素材の良さが生かされていた。
憎たらしくも、憎めない。そんな愛嬌溢れた女だった。
丁寧に磨かれた黒曜石の瞳が射抜く。
僕らの至近距離を縫うようにテントウムシが割り込む。細く高い、彼女の鼻っ柱に止まった。
寄り目で、ひらり舞い降りた初夏の精を凝視している。
後輩の火山活動が収まった。膨れた頬からぷすー、と呼気が抜けていく。気も抜ける。
ひと際、強い風が吹いた。涼風に乗ってテントウムシは羽ばたいた。
すぐに見えなくなって、目と鼻の先にピントが合うと後輩が目を丸くして固まっている。
残ったのは一人の女と一人の男。つまるところ僕と後輩だけ。
世界の喧騒は緩やかに僕らをうつつに戻してくれる。
思考の停止。刹那を押し花に閉じ込めた。
後輩の愛おしさは今この瞬間、僕の中で瞬間最大風速を迎えていた。
「じ、じろじろ見すぎですっ」
あわあわした後輩が僕の胸を肘でくい、と押す。悲しいかな、彼女は筋金入りの運動音痴。中高は文学少女で部員一人の文芸部でひたすら本を読み耽っていたらしい。
そりゃ、非力になるわけで。
彼女は僕を押し返そうと目論んだらしいが、押されてから進展がない。悔しげに唇を噛んで、胸を懸命にたたく後輩。その様子を、尊いものを見る目で眺めていた。
それはそれとして。
僕と後輩は二人っきりの過疎サークルの活動を切り上げて二人で帰路についた。途中でスーパーに寄って夕食の材料を買っていたら夕日は沈んで夜が帳を開けようとしていた。
夕日色と夜色のグラデーションに背中を預ける。
「今日も泊っていくのか?」
「はい。どうせ両親は知ったこっちゃないので」
僕と後輩は同棲に近い半同棲の状態であった。父親がバツイチで今は愛人が実家に住み込んでいるらしく、居心地が悪いとのこと。よくある複雑な家庭環境を大義名分に、彼女は僕の家に居ついていた。実家に帰れば父親が性行為を見せつけてくるようで、そりゃ不快な気分になることは間違いなかった。最初は同情半分、性欲半分で泊めていたが今ではあまり気にしていない。後輩が生活の一部になっているから。
今年から生活費を折半し始めたが、そうしたら彼女はこちらに住み着いてしまったのでもはや、ただの同棲である。ただし恋人ではない。それに準じた関係に見えるが、恋人に発展しなくていいとは思っている。
キッチンに立つ。シチューの具材は、後輩がカットしておいてくれた。だから僕は煮込む係。僕らが料理を作るときはいつもこんな感じだ。材料を切る係と、材料を炒めたり煮込んだり焼いたりする係を交互に受け持つ。
「こうしてると、まるで恋人みたいですよねー、まったく」
「恋人にはならないからなー、絶対」
「……はいはい、絶対、ですね」
困った顔で笑う後輩の横で、沸騰し始めた鍋の中身をゆっくり掻き回す。
セックスはするし家事も分担するけど、告白はしない。されることも許さない。暗黙の了解だった。告白してしまったら、関係性に束縛されてしまうから。ぬるま湯に二人で浸かっている。
恋愛感情が苦手なのは、三年前、後輩と出会う前から変わらない。
どうせ、この先もセフレ以上恋人未満の関係性を保ったまま、なあなあに日常をすり潰す。
夕食のシチューを平らげると、並んで皿を洗う。
「先輩」
「なんだ?」
「明日は何コマ入ってますか?」
講義の話か。
「午後に一コマ。ついでにバイトもない」
「昨晩は夜勤でしたよね。お疲れ様です。――で、暇なら遊びに行きませんか? 歌舞伎町にでも」
「さらっと風俗街に誘うな、いいんだけどさ。でもつまらなくないかな。だってあそこ、ラブホとキャバクラしかないし」
「私に言わせないでくださいよ」湿っぽい、艶やかな誘いの声。「今日だって、このあと」
「そういう気分なのか、今日も」
「……そういう気分なのです、いつも」
ぷい、と顔を背けると、髪の隙間から垣間見えた耳が鮮やかな朱色に染まっているのに気づく。
隠す気はない、淫乱の後輩は、羞恥心も隠さない。隠さないというか、隠しきれていない、か。
僕で処女を捨ててから日に日に彼女の性欲は増していって、三年経ってこの有様だ。
皿を濯ぎ終えて食洗器に並べた。見上げる。
濡れた手をタオルで拭きつつ、恥ずかしそうに身体をよじらせて、湿った目線を向けてくる。
僕はすぐに根負けした。
「その前に、風呂に入ろうか」
「……は、はい」
数分後、甘ったるい嬌声が風呂場に響き渡った。シャワーの音でかき消せないくらいに躊躇いもなく雌の声帯が震え続ける。それは、夜の色彩に明るみが混ざるまで――あるいは、後輩の性欲が一時的に収まるまで続く。
汗まみれになって、重い身体をベッドから起こす。何度も果てた股間の凸を凹から離す。どろりと粘着性がある熱っぽい体液が糸を引いていた。
ベッドのスプリングに身を預けた後輩はすぐに微睡みの沼に堕ちていったようで、すぐそこから微かな寝息が聞こえてきた。
火照り乾いた喉を潤したくて、冷蔵庫を開く。長々し夜を水出しコーヒーで飲み込む。力尽きた女の横で僕はようやく、眠りにつくことができた。
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