第八の頁:人魚の眠る《石》

 それは両のてのひらに乗るほどの、透きとおった石だった。

 とろりと満月が滴りかけたようなかたちをしていて、触れてみればひんやりと熱のさらわれていく感触が心地よい。水晶の如しだが日にかざすと青く潤む。数千万年前の水が溜まっているから時間とひかりとが吸収されるのだと、昔に大伯父おおおじがいっていた。結晶の内側にある細かな瑕疵が剥がれた鱗を想わせる果敢なさできらめている。

 石のまんなかでは、ちいさな人魚が眠っていた。

 青緑がかった銀の髪を白皙の素肌にしどけなく絡め、鱗に飾られた膝をかかえて、久遠の眠りについている。

 息を飲むほどに美しい人魚だった。旧い水のなかで呼吸をするたびに膨らんではしぼむ胸も、膝からさきのひらひらと漂う紫がかった魚の尾も、まるまった指さきについた螺鈿のような爪も、時偶ときたまに泡を紡ぎだす薄紅の唇も、頚筋で動く鰓すらも造り物ではない。

 人魚はいまも石のなかで息づいている。

 

 僕が大伯父から人魚の石を贈られたのは十三歳のときだった。

 夏やすみに大伯父の家に預けられていた僕は棚の奥に木製の箱をみつけた。箱のなかに収められていたのがこの、人魚が眠る石だった。僕は気がつけばそれを何時間も眺めていた。触れることもできず、時間が経つのも日が暮れるのもわすれて。

「そうか、やっぱりそれをみつけたか」

 石を眺め続ける僕をみて、大伯父は青みがかった眼を細めて何故だか嬉しそうにいった。

 大伯父にはドイツの血が流れているのだという。実際にはドイツから渡ってきたのは母方のずっと遠い先祖にあたるそうだが、偶に先祖がえりのように青い眼で産まれるこどもがいて、大伯父ほどではないが僕もひかりが差すと右眼だけがほんのりと青みがかる。

 大伯父はよく、いったこともないリューデスハイムという町の話を語ってくれた。蔦に被われた石壁と葡萄の花の香りを。青々としたライン川の流れを。岩礁の険しさとそこに打ち寄せる浪の調べが満月の晩には歌声のように聴こえることを。

 飽きもせずに石を眺めて日がな一日を過ごす僕をみていた大伯父は夏が終わって僕がこの家を離れるときにこの石をくれた。それからひと月も経たずに彼は死去した。大伯父は死期を覚っていたのだろうか。それとも。

「形見分けのつもりだったのかな、あんたのこと、可愛がってくれてたから」

 訃報の電話を切ってから母親がぽつんとつぶやいた声が何故だか、潮騒のように聴こえた。


 五十をすぎた現在いまでも、僕は週に一度はかならず石を木箱から取りだしては何時間も懐かしい水に浸るように人魚を眺めている。不可思議なことに、妻をふくめて他の人間にはこれがただの琥珀に視えるそうだ。青い琥珀。からっぽの。

 僕にはこんなにもありありと人魚のすがたが視て取れるのに。

 年齢を重ねて節くれだってきた指を石の表にそぅと、落とす。青や紫にきらめく色硝子のような鱗に被われた下肢を撫ぜるように指をすべらせれば、綻ぶようにふわりと鰭が拡がった。時偶に人魚はこうして泳ぐように下肢をくねらせる。たったそれだけのことで年甲斐もなく、胸がふるえた。

 何年経てども人魚は変わらず、美しい。僕を惹きつけてやまなかった。老いることもなく、眠りから覚めることもなく。重なりあった睫毛を飾りつける銀の水沫みなわが弾けても、人魚の夢は終わらない。夢が続くかぎり、その魅力が損なわれることは永遠にないのだろう。

 幼少期にはからかわれたこともあったが、青い眼に産まれてほんとうによかった。

 おそらくは血のなかに人魚の棲む水が流れているものだけが、人魚を視ることができるのだ。遠きリューデスハイム、ラインの青い水。僕の娘は残念ながらその血をひき継がなかったが、娘の産んだ赤ん坊――つまりは僕の孫が、僕や大伯父とよく似た青みがかった眼をしていた。

 いつかは彼がこの石を見つけ、眠れる人魚を愛するようになるのだろうと僕は思っている。



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 ※ 額縁 水晶とも琥珀ともつかない透きとおった結晶製の額縁

     鱗と細やかな浪を象った彫刻が施されている


  紙  青く染められたつるつるの紙

     触れればひんやりとしていて心地いい

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