第七の頁:《黄昏町へようこそ》

  黄昏がまぶしかった。

 夕映えは柔らかく、東に青の名残を漂わせて橙に暮れなずむ。鱗雲は薄紫に染まり、はらはらと風に流される様は藤のはなびらが春嵐に散るかのようだった。薄絹をかぶせたように風景が陰り、あらゆるものが曖昧に霞む。

 薄暮は微かな憂愁を帯び、それゆえか、底抜けに優しかった。

 わけもなく郷愁を誘われる。

 

 だからだろうか。夕暮れ時に、人は振りかえってはならない昔時を振りかえる。すれ違ってはならなかった誰かと袖が触れあう。そうして時には、踏めるはずのなかった境界線を越えてしまうこともある。


 ………………

 …………

 ……

  

 かつんと、下駄が鳴った。

 ぼうと黄昏を仰ぎながら歩いていたあなたは石畳の縁につまずき、はたと我にかえった。見覚えのない小路に迷い込んでいたことに気がつき、いったいここはどこだろうかとあなたはあたりを見まわす。


 情緒のある古い路地だった。

 平格子の家屋が軒を連ねている。夕焼けに紛れてわかりにくかったが、格子は朱塗りだった。遊郭や茶屋で賑わう花街の浮ついた雰囲気はまるでなく、神社の朱塗りの鳥居が頭をよぎるのは、まわりがあまりにも静まりかえっているせいだろうか。

 道には石畳が敷きつめられている。竹製の犬矢来にとまった紋白蝶が、ひらひらと羽搏いていった。蝶の影が石畳に落ちる。

 

 風が吹き渡り、軒にさげられた赤い提灯がふらりふらりと揺れる。いまだ、黄昏時に差し掛かった頃。奥まった小路とは言えども薄暗くはないのだが、提灯のあかりはすでに宵と変わらずに燈されていた。


 光と影が、軒のあいまで揺蕩たゆたっている。

 

 なんとも不思議な通りだった。

 興味を惹かれてあなたはゆっくりと歩きだす。

 足もとでじゃれるように下駄が鳴る。……下駄なんか履いていただろうか。着物の袖が揺れた。……こんなものを着ていただろうか。疑問に思ったが、頭がぼんやりとしていて、よくわからなかった。

 あらためて路地の向こう側に視線をやり、あなたは息を呑んだ。


 さきほどまでには確かに誰もいなかった路地に、幼い娘がたたずんでいた。


 黄昏を纏っているのかと目を疑った。

 それほどまでに娘の着ている振袖は、赤かった。

 しゅよりもあかい着物にくれないの、兵児帯へこおび……というのだろうか、総しぼりの柔らかい帯を巻いている。結んだ帯の先端がだらりと、腰から膝あたりまで垂れていた。白妙の絹を夕焼けに浸して染めあげたら、きっとこんな着物になるんじゃないか。

 娘の齢は七歳前後。それなのに、ぞくりと背筋が凍るような艶を漂わせていた。

 娘はなんの表情も浮かべてはいない。精巧に作りあげられた人形のような、完膚なきまでに整った顔立ちがそう思わせるのか。彼女が人形ならば、職人の魂を吸いつくして産まれてきたに違いない。

 額を隠して切り揃えられた黒髪。まるみを帯びた頬は桜がほころんだような薄紅に染まり、睫毛の影が綺麗な紋様を描いていた。紅を乗せずとも赤く潤んだ唇はきゅっと結ばれている。瞳は零れ落ちんばかりに大きく、黒々としていた。


 あなたが声を掛けるのを待たず、娘は口を開いた。


「……あなたはだあれ」


 金魚の欠伸みたいな果敢ない声だった。

 吹けば、風に飛ばされてしまいそうな。


 名乗りかけて、言葉に詰まった。


 思い出せないのだ。

 喉が強張る。焦燥に焼かれ、あなたは頭を働かせる。頭に掛かっていた靄は取れてきたのに、どうやっても自分の名前が思出せない。指が震える。さきほどまではきちんと覚えていたはず。いや、ほんとうにそうだろうか。

 

「どこからきたの」


 娘はくるりと身をひるがす。

 赤い振袖がひらりと舞った。


「どこにいくところだったの」


 背をむけられても、娘が他ならぬあなたに語りかけていることはわかる。けれど、どの問い掛けにもあなたはこたえられない。

 娘は振袖と帯をひらひらとなびかせて、走りだす。


 慌てて娘を追いかける。

 路地の角を曲がると橋に差し掛かった。木造の太鼓橋だ。橋の掛かった池のまわり

 にある紅葉は赤々と燃え、池の水鏡に映って錦の織物を敷いたようであった。

 橋を渡り始めたのが早いか、なにかがしぶきを散らして池から飛びあがる。驚いて、走りながら視線をむけると、赤や黄金の錦鯉の群が悠々と頭上を飛び越えていくところだった。鰭を羽搏かせて跳びあがった鯉は、綺麗な弧を描いて橋を越え、池にもぐる。波に揺られて蓮がくるくるとまわる。

 夢のような光景に思わず立ちどまりそうになったが、娘を見失ってはならないと思い、走り続けた。


「あなたはなにをしていたの」


 幼い娘の、か細い声がこだまする。


「なにをしたかったの」


 胸がざわついた。肋骨のすきまから火箸をつきこまれ、掻きまわされているかのようだ。呼吸がみだれる。こたえられる言葉を捜すのだが、思い浮かばず、不安ばかりが膨らむ。


「わからない……!」


 あなたはたまらず声を張りあげる。


 太鼓橋は板張りの回廊に繋がっていた。

 回廊の右側は座敷が連なり、左側には渓谷。滝を縁取るのは春の繚乱だ。桜に梅、躑躅に菖蒲と見渡すかぎりの花の宴。馥郁たる芳香が巻きあがり、胸いっぱいに春が満ちる。さきほどの橋とは季節がまるで違っていた。

 いよいよに現実の風景とは思えない。夢をみているに違いなかった。


「ゆめじゃないわ」


 娘は、こころを読んだように言った。

 

「けれど、ゆめではないから現実だともかぎらない。ここがなんなのかは、ただ、あなたによる」


 回廊の角を曲がる。

 渡り廊下に差し掛かった。

 場違いな喧騒が湧きあがってきた。さきほどまでの静寂が嘘のように賑やかだ。なにごとかと、走りながらひょいと渡り廊下から身を乗りだせば、町の大路が一望できた。

 だが大路にひしめいていたのは人の雑踏ではなく――。


「なに、あれ」

 

 あなたはあ然となる。


 闊歩するのは招き猫の行列だった。

 おとなの身の丈の倍ほどの、巨大な招き猫の群がにゃあにゃあと騒ぎながら通りゆく。招き猫とはいっても、置物に倣った恰好をしているだけで、毛艶のよい本物の猫だった。ご丁寧に百万両と書かれた小判を抱え、掲げた腕をくいくいと動かして福を招いている。白猫と黒猫に、三毛猫までまざっていた。

 渡り廊下にもっとも近いところを通り掛かった三毛の招き猫が、こちらをちらりと一瞥する。にゃあと鳴いて、笑った。

 あなたは驚いたが、三毛の招き猫はなにをすることもなく、行列に戻っていった。

 横の路地から続々と赤い達磨が転がりだして、招き猫の行列に加わる。ふり仰げば、唐獅子がゆったりと空中を歩いていた。

 これはいったいなんなのか。

 悪い夢でもみているような光景に目がまわる。


「ゆめもうつつも紙ひとえ。ねじれた紙のわっかのようなもの。どちらもおもてで、どちらもうらになる。かんがえても、むだなこと。どちらもいっしょなのだから」


 祭囃子に気を取られてしまっていた。

 慌てて視線を前に戻す。娘はこちらを振りかえっていた。


「あなたには、ほかにかんがえるべきことがあるはず」


 黒い瞳に見詰められると、影を縫いとめられたように身動きが取れなくなる。娘は閉ざされていた障子に手を掛け、するりと座敷に入っていった。慌てて後を追いかける。


「ねえ、待って……!」


 がらんとした座敷だ。さきほどまでの混沌が嘘みたいに静かだった。

 座敷の奥には襖があり、娘が近寄ると触れるまでもなく襖が桟を滑り、ぱんっと開け放たれた。奥の座敷の、さらに奥にも襖。次々に襖が開き、座敷は無限に拡がっていく。

 座敷のなかを走るうちに、あなたは自身が畳の上ではなく壁を踏んでいることに気がつき、「え」と声をあげた。立ちどまりかけたが、走り続けないと落ちてしまうのではないかという恐怖に急きたてられ、懸命に足を動かす。

 またぐるりと視界がまわり、踏みだした下駄は、今度は天井を蹴る。鳳凰の舞う絢爛な天井画を踏みながら、ひたすらに赤い振袖を追い続けた。


「あなたはなにをわすれてしまったの」


 声は幾重にも重なって座敷に反響する。

 さきほどまで畳張りの座敷にいたはずなのに、瞬きをしているうちに床も壁も鏡張りに変わっていた。どこからともなく紙吹雪が舞い散る。桜や雪の結晶を象った紙吹雪は鏡に映り、増え、重なり、華やかな紋様となって瞬いた。

 紙吹雪には銀紙金紙もまざっていて、それらがちらちらと光を拡散する。

 まるで転がる万華鏡のなか。

 いま、どこを走っているのかもわからない。壁か、床か。まわってもまわっても、彩が鏤められた鏡の上。赤い振袖もぐるぐるまわって、風車のよう。


「なにをわすれてしまったのかさえ、わすれてしまったのね」


 襖から黄昏が差して、座敷から路地に抜けた。

 もとの小路だろうか。遠くから祭囃子が聴こえる。

 娘がゆっくりと振りかえる。黒い瞳に夕陽が差す。あなたは息をきらしていたが、娘の側まで歩み寄って、尋ねかけた。 


「ここはいったい」


 娘は振袖をひろげる。

 

「ここは《黄昏町たそがれちょう――

 かえりみちをみうしなったこどもは黄昏のかなたにまよう。ゆくえをなくしたこどもは黄昏にくるまって、まどろむ。ここはせかいのあわい。ほそみちのかなた。とばりをほんのいちまいめくった、むこうがわ。ひとたび、こちらにあぶれれば、なまえもむかしも遠いわすれもの」


「どういう、こと」


 ぴちょんと、乾いた石畳に波紋を拡げ、琉金の金魚がはねた。

 真っ赤な金魚。いっぴき、にひきと数を増やす。ひらひらと小袖のような鰭を羽搏かせて、金魚は娘のまわりを取り巻いた。赤い群を従えて、からんと木履が鳴る。


「いきはよいよい、かえりはこわい」


 娘が、ゆるりと微笑んだ。

 綻んだ薄紅の唇が、言葉を紡ぐ。


「まちは、あなたを歓迎するわ」


 祭囃子がせまってきた。


「わっ……」

 

 影がやってきた。

 人影の群が夕陽を背にして進んでくる。祭囃子は彼らが連れているのだろうか。みな、おごそかに提灯を掲げるばかりで、笛や太鼓を奏でている素振りはない。緩やかに、石畳を踏む音さえなく行列は近づいてきた。

 路地の曲がり角から現れたばかりの時には、斜陽のせいで逆光になっているのかと思っていたが、側までせまってきて、そうではなかったことに気がついた。


「影、だけ……」


 そう、彼らには姿がなかったのだ。影ばかりがふわりふわりと漂い、列をなしていた。着物や髪、下駄の輪郭は見て取れる。だがそれだけだ。細部は曖昧に霞み、目を凝らせば凝らすほど影はぼやけて、後ろにある風景が透けてしまう。

 赤々と燃える提灯だけが、確かだった。

 祭囃子をひき連れて影の列が往く。


 すれ違った後に振りかえれば、祭囃子の遠ざかる響きだけを残して、誰の影も途絶えていた。無人の石畳に木枯らしが吹き抜ける。金魚も赤い振袖もどこかにいってしまった。


 後に残されたあなたは、さあ、どこにいこう。




 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 ※ 額縁 和紙を張った細かい障子細工のような額縁

      和紙は割と真新しく、硝子ははいっていない


  紙   御伽草子でも書いてありそうな質感の紙

      こちらも不思議と真新しく傷みはない

      物語は書きかけで隣に添えている筆で、あなたが綴ってもいい

     

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