第六の頁:言の《草》
娘は野に出でて草を摘む。芹に
ゆえに草を摘む娘の指は祷る指であった。帰らざる穏やかな時を想いつつ、迎えるはずだった幸せな婚礼を夢にみて、草を寄せる。
愛するひとの、無事の帰還を祷ることはゆるされなかった。
御国の御為死して還れと励ますのが決まりだった。娘は死地に赴く恋人に、どうかお帰りくださいと、言葉をかけることさえできず、嵐に薙ぎ倒された草のように腰を折って頭も低く黙り続けた。
嘗ては言霊幸わう御国とされた。
それが、娘は口惜しくてならなかった。
ゆえにせめても草を寄す。
花の季節を終え、後は萎れるだけのか細い芹の茎。紫に燃ゆ炎の如き秋桐。まるい珠がいっせいに実を結んだ紫式部の賑わいに、枯れたはなびらを僅かに残すのみとなったわびしき麝香草。たばねるには些か、美しさにとぼしいそれらの草を、いそいそと集めては飾る娘をまわりは怪訝に扱った。されども娘の涙ぐましい胸中を察してか、草を寄せるくらい好きにさせてやれと黙っていた。
冬ともなれば草も枯れ、娘も諦める他になかったが、緑の萌える春が巡ればふたたびに野に出でて芽ばえたばかりの草を集めた。芹に秋桐、紫式部に麝香草。華やぎのない野草を摘んでは、祷る。それでも娘は段々と、これらの草の風情というものが感じ取れるようになってきた。
春はどれも違いがわからぬほどに若く、青い。芹は春の七草。多めに積んで、粥にした。春が終わり、季節は夏に差し掛かる。夏になれば芹が咲き、季節はずれの雪のように白々と野を覆った。時をおなじくして麝香草も綻びはじめ、風に馥郁たるかおりがまざる。秋ともなると紅葉の絢爛なる錦に、秋の草の趣のある紫が映えた。
晩秋。雪が積もり、野の草は新たな春が巡るまで、眠りに就く。幾度の春夏秋冬を繰りかえしても、娘は草を摘み続けた。戦争が終わったという報せも聞いた気がするが、最愛のひとが還らぬかぎり、終戦はないのだと娘は思った。
娘は、草を摘む。どうかあらゆる災難から逃げおおせてくださいと。そうして帰ってきてくださいと祷りながら。
縮んだその背をみて、通りがかった誰かが、後ろ指を差す。
「あのおばあさんはまた草を摘んでいるのね。かわいそうに」「あんな枯れかけた草ばかり、なんのために摘んでいるんでしょうね」「耄碌しているんだわ、きっと」「いえいえ、若い頃からずっと、ああしていたそうよ。戦争が終わっても嫁ぎもせず、春でも秋でも草を摘んでいるの」「きもちがわるいわね」
遠くなった耳では聞き取れまいと、声を落とすこともせずにひとびとは喋りあった。老いてしまった娘には声は聞こえてもなにをいっているのかはわからなかった。理解しようというきもちもなかった。
ただ晩秋の草を抱きしめて帰り路をゆく。
芹に秋桐、紫式部に麝香草。昨晩霜がおりたせいで芹も秋桐もちょっとばかり萎れているけれど、一晩だけでも壁に飾ろう。愛するひとが教えてくれた、遠い異境のおまじない。これだけ摘めば、きっと愛するひとは難に遭うことなく帰ってこられる。
帰還したら婚礼をあげよう。約束どおり。白無垢は着られなくてもいい。黒留袖の、裏地の柄にほんの細やかな祝いの華やぎを添えて。
老いた娘は明日も野に出でて、枯れかけた草を摘むのだろう。
明後日も明々後日も、翌春も翌夏も。娘が、最愛のひとのもとに召されるまで。
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※ 額縁 ふるびた木箱のような額縁
芹と秋桐、紫式部に麝香草の押し花が硝子と紙のあいだにはさまっている
紙 ふるぼけた赤紙の裏
触れれば崩れてしまいそうなほどに傷んでいる
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