第82話:消えぬトラウマ

「キャサリン。なにを怯えているの? 気付けなかった私の言えた話ではないけど、ドロシーには関係のないことではないの?」


 それはキャサリンに向けられた言葉だと明らかなのに、私までが温かく感じた。お日さまに干したてのバスタオルで、包まれたような気持ち。

 おばあちゃんの姿は見えなくても、部屋の中に――いや部屋の全てがおばあちゃんに抱かれているのが分かる。

 たぶんキャサリンも、同じように感じているのだと思う。周囲を忙しく見回して、不意にびくっと首を竦ませる。

 そうしているうちに、黙ってもいられなくなったのだろう。天井に向かって怒鳴り始めた。


「そうよ、母さんのせいよ! ドロシーを同じにしたのも、母さんよ!」

「キャサリン……」


 手負いの猛獣といった風にも見えるキャサリンに、つかつかと歩み寄ったのはベネット。

 彼は自分の妻を抱きしめて、しばらくじっとしていた。妻もそれを拒むことはなかったけれど、仇敵を探すような視線は消えない。


「キャサリン、ドロシーと話し合うべきだ。まともな事態ではないからと、僕も判断を誤っていたよ。もし僕たち家族が離れ離れになるとしても、それはドロシーも納得した上でなければならない」


 背中を撫でながらのその言葉は、優しくはあっても力強かった。

 正直に言えば、たった今まで彼のことを、神経質な小心者だと思っていたのだけれど。今は家族を守るために決断を下す、精悍な顔をしていた。

 まあ――だとすれば随分と遅い決断だけど。


「君から話すのが難しいなら、僕が話してもいい。ただ出来るなら、どうしてこうなったのかは、君が話すのが望ましいけれどね」


 そう言われて、ようやくキャサリンは強張った表情を緩めた。自分を抱く夫の腕に手を沿わせて、ためらいながらも首を縦に振る。

 抱き合った夫婦。二歩を離れて眺める娘。

 ……いつか、ドロシーと旅をしよう。もちろんポーも、ルナも一緒に四人で。


「父さんは――趣味とか楽しみとか何もない人で、家に帰ってくると、次の日の準備をしたあとはずっと新聞を読んでいたわ」

「おじいちゃん?」


 ここで名を出すからには、関係はあるのだと思う。でもさすがにドロシーも、首を傾げる。


「子どもの私でも、この人はなにが面白いんだろうって思ってた。だから母さんが家のことを黙々とやってるのを見て、かわいそうだなって思ってた――奴隷、みたいだって」


 おばあちゃんにも、この話は聞こえているはずだ。なにか感じられるのか、なにを想うのか、それが気になった。

 我が子にかわいそうと思われるのが、どんな気持ちか私には想像もつかない。


「母さんが人形作りを始めたのは、いいことだと思った。父さんもそれを咎めなかったし、まあそれがなんであっても、同じだったかもしれないけど。母さんが趣味を持つのは、私も賛成だった」

「それが行き過ぎたって言ったね――」

「そうよ。父さんは書斎から出てこない。母さんも作業部屋で人形を作り続ける。二人ともそこへ居るのに、私は独り暮らしをしているみたいだった」


 それじゃあドロシーと同じだと感じた。しかしそれをすぐに、キャサリンは否定する。


「でも、それでも良かった。ずっと疲れた顔より、楽しそうにしている母さんのほうが良かった。良くなかったのは、人形が動き出したからよ。子どもが一人で居る家に、得体の知れない化け物がたくさん居るの……」


 怖ろしかった、と。キャサリンは今さらに身震いをした。

 想像すれば、まさにホラー映画のシチュエーションだ。トラウマになるのも分かる。けれどそれなら、一つの疑問が生まれる。


「じゃあ、どうして私に人形をくれたの。人形が嫌いなんでしょう?」

「それは、穴埋めよ」

「穴埋め?」

「母さんの人形を処分しても、そこにどんな人形があったのか記憶から消えないのよ……もうそこには居ないのに、まだ居るように見える。他の物を代わりに置いても、ダメだったの」


 だから、あえて姿かたちの違う大量生産の人形を置いたのだ。そうやって記憶を薄めれば、いつか本当に忘れられるのではないかと。

 それなのにドロシーを、おばあちゃんに預けたのは失敗だった。いくら忙しくとも、他の方法を選ぶべきだった。

 キャサリンが言い捨てると、ドロシーは顔を俯ける。


「そうだね――私は、おばあちゃんの人形を欲しがった。おばあちゃんの人形と遊びたいって、言ったと思う。だってみんなと話すのが、楽しかったんだもの」


 私、悪い子だったね。

 ドロシーはそう付け加えて、下を向いた。

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