第81話:ドロシーの勇気
ドロシーの背中を少し強く、ポーが押した。
「さあ、行ってみて」
返事はなくて、ためらいがちな頷きがあるだけだった。
面と向かって話すのに、ふさわしい距離はどれほどだろう。一歩ずつ、おそるおそるという風に、ドロシーはママとの距離を縮める。
選んだのは、ドロシーの足で二歩ほどの場所。彼女の手はママに届かず、ママの手は彼女に届く。
「ママ――」
震える両手を落ち着かなく組み合わせて、ドロシーは俯いて言った。
これにキャサリンの返事はない。背けた顔は、どんな表情に落ち着けば良いのか迷い続けているように見えた。
ドロシーの手は、どこへ向かおうとしたのだろう。ママの方向へ浮きかけて、また元の位置へ。
決めたはずの覚悟が鈍る。その気持ちは、とてもよく分かる。一度はあれだけはっきりと言われたことを、もう一度問おうというのだから。
震える両腕を後ろから握ったのは、やはりポー。そのまま口を耳元に寄せて、内緒話をする。
ドロシーはそれに、怯えた風もありながら「うん」と答えた。
「ねえ、ママ。私のお友だちがね、さっきのはちょっと間違えたんだって言ってるの。私のことがいらないなんて、言い間違いだって。そうなのかな――」
一瞬の反応がキャサリンに見えた。でも言葉としては出てこなくて、額に手の甲を当てて悩んでいる。
「だって、ここに引っ越したのは私のためだもの。数えきれないくらいに、人形をくれたもの。なのに信用出来なくなったのは私のせいだけど、それは仕方ないって。寂しい時には、みんなそうなるんだって。そうなのかな」
「信用、出来なくなった――?」
まだ視線は、それぞれ違う方向を向いている。けれどキャサリンは、ようやく答えを返した。
「ママとパパは、私を愛していないんじゃないかって。私のせいで家が遠くなった。私には人形さえ渡しておけばいいって、投げやりになった。そう思ってしまったの」
「だから、寂しかったの?」
「――そう。二人とも私のためにお仕事をしてるんだから、お休みの日にだけは会えるって。それだけを楽しみにしてた」
ゆっくりと、キャサリンはドロシーのほうに顔を向ける。しかしほんの僅か、視線が合ったかも分からないほどで、また背けてしまう。
かと思えば床に突っ伏して、「違う、違う」と嗚咽のような声を上げ続ける。
「ママ。なにが違うの? 教えて、お願い」
今度は諦めない。不安そうな声ではあっても、視線を伏せたいのを必死に我慢してはいても。
ドロシーは問う。ポーの握った左の手を、ぎゅっと握り返しながら。
ジャン。と、軽快な音が鳴った。場違いにもほどがある。音源を探す必要もない。ハンスのビウエラだ。
「ちょっと、ハン――」
窘めようとしたところに、笛と太鼓の音色。窓際に居た、おもちゃの兵隊たちの演奏だ。
彼らの音楽は最初はバラバラで、でもじきに一つの曲になっていく。ゆったりとしたそれぞれのメロディーが合わさると、もっと優雅で大きな流れになる。
メインはハンス。苦しくて押し潰されそうだった空気を、一気に洗い流してしまった。
「みんな……」
「楽しそうね」
なにごとかと驚いていたドロシーも、その隣で部屋中を眺めるポーも、くすっと笑う。
マギーはジョーと向かい合って、カメやサルたちもその周りで、人形たちは踊り始めた。あの怖ろしげだった、ビスクドールたちまでも。
ドールの国の舞踏会。きっとこんななのだろう。ハンスの奏でるメロディーは、何度も繰り返される。馴染みやすいメロディーが始まる度、人形たちの華麗なダンスもくるりと回る。
ただ彼らは、本当にそうしているわけではないらしい。踊る彼らの後ろに、元のまま座っているただの人形の姿があった。
「これはいい音楽だ……」
ベネットは、小さく手拍子を始めた。彼は人形が実際に動くところを、見たことがないと言っていたけれど。
「そうよ。この子たちが、あなたたちに代わってドロシーを慰めてくれていたの」
「そうか――」
彼は無責任に笑っていたわけではない。しかし一層に表情を厳しく戒めて、深くなにかを考えているようだ。
「やめて! こんなものを、私に見せないで!」
激しく床を叩きつける音とともに、怒りのこもった叫びが演奏を壊した。
ぴたりと、映像の一時停止のように踊りが止まった中で、一人キャサリンは悶え続ける。
「これはホラーよ! 私はずっと、一人で我慢していたの! ようやく終わったと思ったの! なのに、娘まで母さんと同じで! どうしろって言うの!」
再びの拒絶。
どうしろと言うのかなんて、誰にも答えられるはずがない。誰もが沈黙した中を、おばあちゃんの声が響く。
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