第80話:ポーとドロシー
「いらないの? 私は――いらないの?」
霧雨がやんだかと思えば、細かな針のような吹雪に遭った。そんな気分だ。吹き付ける轟音もなく、ひたすらに温度を奪っていく。その言葉の届いたあらゆる場所が、人の体温が、凍えていく。
言ってしまえば、私にとってドロシーは他人だ。友だちのルナの妹であるポーを通して、ようやく縁がある。
もちろんそこから始まった、ここまでのあれこれもあるけれど、ドロシーからすれば今以て赤の他人だろう。
でもね。と、私は言いたい。
もしも今、私がここをたまたま通りがかっただけだとしても、私はドロシーを抱きしめたいと思う。
幼くてか弱い女の子だから? 寂しい境遇だから?
――そんなことは関係がない。どんな背景であっても、たった今そこに居るドロシーには、人肌が必要だ。しかも本人がそうだと言っている。
どうして手が届かないのか、その距離が憎らしくて堪らない。
「いらない」
キャサリンの口から発せられたのは、勘違いしようもない簡潔な答え。誰もが言葉を失って、目の前のキャサリンから、あるいはドロシーから、目を離せない。
次に口を開いたのは、ベネット。
「お、おい。そこまで言うことはないだろう。我が子だぞ」
「なによ。あなただって、あの子を置いていくことに賛成してたじゃない! 今さら善人ぶるの?」
ヒステリックに当たり散らす声。少なくとも冷静な発言ではない。しかしそれで許容出来るラインは、大幅に越えている。ベネットも「それは……」と口ごもって、それ以上を言えない。
「ママ。パパ」
声の聞こえてくる方向が変わった。こちらの部屋のベッドに横たわっていたドロシーが、むくりと起き上がる。
いや、違う。元のドロシーはそのままだ。赤いドレスを着た女王としてのドロシーが、ベッドの上に立った。
そのすぐ脇に、ルナとポーも居る。マギーとハンス、ネズミたちも。
「い、いやっ!」
差し伸べられようとしたドロシーの手を、キャサリンは撥ねのけようとする。でもホログラムのように、その手はすり抜けて空を切った。
拒絶された手を、ドロシーはしげしげと見つめる。そのまま眠るように一度まぶたが閉じられて、彼女は鼻から大きく息を吸って、吐いた。
「今まで……ありがとう。私は、パパとママを愛してる。パパとママの、喜んでくれる顔が大好き。お仕事が終わるのを待つのは寂しかったけど、会える瞬間が大好きだった」
ダメだ。これを言わせちゃダメだ。
壊れる。傷付けてはいけないなにもかもが、壊れてしまう。
そう思って、言うべき言葉を探した。取るべき行動を探した。
なのに、くしゃくしゃに泣いた顔のまま、無理に笑おうとするドロシーを見ると、なにも出来ない。
私なんかが、彼女になにをしてあげられるというんだ。
「うまく愛されなくて、ごめんね」
その言葉を、きっと私は生涯忘れることが出来ない。子が、親に、そんな言葉を伝えなければならないなんて。
なんだそれはと、怒りとか哀しみとか、知っている単語では表せない。
ドロシーはこちらに背を向けて、どこかに向かって歩き始めた。その両隣には、ファッジとキャンベルが居る。
数歩も歩くと、彼女の行き先が輝き始めた。遙か先には、白銀に煌めく扉が見える。
その先におばあちゃんが居るのだと、私には分かった。きっとそれは、見ているみんなも。
もう誰も止められない。彼女の運命は決まってしまった。悔しくて、お腹の底から溢れてくる気持ちをどうしていいのか途方に暮れる。
「違うよドロシー!」
叫んだのはポーだ。
口を横に引き結んで、すっくと立ち上がった。両手には、ベンとケイト。すたすたと歩み寄って、ドロシーに押し付ける。
「ポー……」
「あのね。私にはね、パパとママとルナが居るの。みんな優しくて、私がしたいこと、嬉しいこと。たくさんしてくれるわ」
「幸せね。そんな家族に、私もなりたかった」
渡された二人をどうするべきか、ドロシーは人形の顔を眺めた。考えているようにも、ポーと視線を合わせなくしているようにも見える。
「うん、とてもね。でも、違ったの」
「え?」
「そうしてもらえるのは、みんなが優しいからじゃなかった」
「どういうこと?」
ドロシーは怪訝そうに、ポーの後ろへ視線を送った。そこにはルナが居る。
「優しそうなお姉さんだけど」
「そうよ、とても優しいの。でもそうじゃないの。みんな私を愛してくれて、私もみんなを愛してるから。だから優しくしてもらえるんだよ」
「……どう違うの?」
なにを言っているのか、まるで分からない。ドロシーはあからさまにそんな顔だ。
でも私には分かる。ふさわしい部品を一つひとつ探しながら、大切な友だちのために縫い上げようとしている、ポーの作りたい人形の姿が。
そうだね。頑張れ。
私は祈りの形に両手を結んだ。
「私、ドロシーの心を見せてもらったの。ほんの少しよ、ごめんね。でもそのおかげで、あなたがどうすればいいのか、きっと教えてあげられるわ!」
「私が?」
首を捻るドロシー。真剣な顔で頷くポー。奇妙なにらめっこが、いつまでも続く。そうだ、そういうことなのだ。
耐えきれなくなったのは、ドロシーだった。困った顔でため息を吐いて、「教えてもらえる?」と問う。
「もちろんいいわ。お友だちの頼みだもの、大切なことを教えてあげる」
「お友だち――」
「あのね。いちばん大事なのは、相手がなにをしてほしいのか知ることなの」
「……えぇ? どうしてそう出来るのか、っていうお話じゃなかったの?」
「そうよ。きっとドロシーのパパとママも、それがヘタクソなのね。教えてあげるから、あなたが教えてあげて」
狐に魔法をかけられたような顔のドロシー。自信たっぷりのポーが笑うと、苦笑を浮かべた。
「あなたって、いつもそうよね。分かった、分かりました。どうか教えてください」
「そう、それよ」
「へっ?」
「みんな自分以外の誰のことも分からないの。だから教えてもらわないと、なにをすればいいのか分からない。ドロシーもパパもママも、それが出来ていないわ」
そんな分かりきったことを言うつもりだったのか。なんて、ドロシーは思っているかもしれない。
しかし本当にそうだと思う。この一家のそれぞれが、互いの気持ちを知ろうとすれば、こんなことにはならなかった。
「ええと――どうしろっていうの?」
「まずドロシーが、パパとママに聞けばいいのよ。どんなお仕事なの。毎日どんなことをしているの。ドロシーの病気はどんなものなの、って」
「私から、聞く?」
たったそれだけだ。自分の気持ちを表現するのが苦手な人は、たくさん居る。どちらかというと私もそうだ。
そんな人には、こちらから聞くしかない。
「それって……」
「それって?」
「なんでもいいのかな」
「なんでもいいわ」
「また遊んでくれるか、聞いてもいいのかな」
「もちろんよ」
「私のこと、愛しているか聞いてもいいのかな」
「聞いてみて、大切なことよ。その時に、ドロシーの気持ちも言うといいわ」
問うて、答えて。一つ言葉を交わす度に、二人は頷き合う。二人の身体の距離も近付いていく。
最後には抱きしめあって、ポーはドロシーの背中を優しく叩いた。
「もう一度、聞いてもいいのかな」
「なにを?」
「本当に……私のことがいらないのか」
「聞いてみて。きっとなにかの間違いだから。きっとあなたは愛されてるから」
そう言って、二人ともじっとしていた。しばらくすると、ファッジとキャンベルの姿が見えなくなった。
それはたぶん、ドロシーが「分かった」と答えたからだ。
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