第78話:祈りよとどいて
ゆっくり急げなんていう、緊迫している時に言われればカチンときそうなジョークがあるけれど。わざわざ私は心の中で、自分で自分にそう言ってしまった。
でも実際にそうなのだ。ゆっくりとは、していられない。でも慌てて糸を切らせば、ドロシーを救うことが出来なくなる。
汗でも流れたのか、首すじがどうしても痒くて肩に擦りつけた。するとその振動が竿に伝わって、びよんびよんと危なげにしなった。
ダメだ。集中しないと。ますます緊張で、リールを同じリズムで動かすことさえ難しく感じてしまう。
あとどれだけの高さが残っているのか、自分の目で見られないのも焦りを呼ぶ。あちらは機械のように、そのまま下ろしていいとダイアナが手振りで示している。
――やがて。水平のまま上下させていた手の平が、こちらに突き出して示された。ストップの合図だ。
「竿を離してもいいの?」
「ゆっくりとお願いします」
遥か下のことを、真上から見ているのだ。見間違いということもあるだろう。言われた通りに、竿が持っていかれないか注意しながら床に置く。
大丈夫だ。竿は動かなかったし、ダイアナもグッドのサインを出している。
駆け寄って洋服タンスの中を覗く。手元にある時には大きかったあの箱も、豆粒大に見える。
ミントは既に、ルナとポーのところへと向かっていた。二人も気付いて、なにか話しているようだ。
「ねえおばあちゃん。もっと近くで見られないのかな」
それが出来るのなら、木箱を下ろす前に聞けば良かった。でもおばあちゃんは、いいえと断る。
「この部屋はドロシーの部屋だから。ドロシーの心の中でも、ドロシーだけの部屋だから。私はこれ以上、踏み込めないのよ」
「そうなんだ……」
そんな場所に踏み入った私たちは、やり過ぎだったのだろうか。でもそうしなければ、ドロシーの心が朽ちるのをただ見ているだけだった。
「木箱を見ていますね」
「うん」
思えば私は、なにかに熱中して見ていたという経験がない。手に汗握るというのを、初めて体験した。
見ているだけで手も声も届かないのを、うまくいきますようにと、ただ願う。
「しまった……」
「どうしましたか」
「最後の見返しのところを読むように、手紙でも付ければ良かった」
「そうですね――でもきっと、うまくいきます」
ポーが四冊の本を持って、ルナはビスクドールたちを入れたまま木箱を抱えた。私よりもかなりスタイルのいい彼女だから、腕の長さは十分だ。でもやっぱり重そうではある。
よたよたとしながら、ルナは走る。ああ、すぐに立ち止まってしまった。木箱も一旦、床に置かれた。
するとすぐに、それが勝手に動き始める。もちろん木箱に、足でも生えたわけではない。ネズミたちがみんなで持ち上げているのだ。
「頑張れ。みんな、頑張れ!」
聞こえなくてもいい。黙ってなんかいられなかった。ずっと冷静なダイアナには笑われるかもしれない。
いや、そうでもないようだ。じっと見つめるその口から、小さな祈りが零れ落ちる。
「I wish……」
倒れたままの女王を、ルナとポー。マギーとハンスが囲む。それぞれビスクドールを持って、女王に向かって捧げ持つようにした。
でもなにも起こらない。
それなら直にくっつければということか、四人ともが人形を女王の身体に押し付ける。やはりなにも起こらない。
「本よ。本を読むの!」
痛恨のミスだ。今からメモを落としたところで、気付かないだろう。いやでも、やってみたほうがいいだろうか。
「待ってください。気付いたようですよ」
「本当に?」
紙とペンを探しに行こうとした私を、ダイアナが呼び止めた。視線を戻すと、ポーがフォトブックを手に取って、ページをめくっている。
「そうだよ。その最後のところ」
ポーの手が止まった。どのページを見ているのだろう。声に出して読んでいるのだろうか。ここからでは分からない。
でも、じっと視線を紙面に落としていたポーの顔が次に上がると、女王の身体がびくっと痙攣した。
「ドロシー……」
名を呼んだのは私だったか、ダイアナだったか。あるいは二人ともかもしれない。
不思議の世界にしては、地味な奇跡だ。ただ眠っていただけのように、女王は顔を起こす。
その顔は見知った老婆のそれでなく、私のすぐ近くに居るドロシーの顔だ。こちらと同じに痩せているけれど、顔色は悪くない。
それに、喋った。
「ポー、どうしてここに?」
「ドロシー! 目が覚めたのね!」
戸惑うドロシーと、喜ぶポー。二人ともの声が、たしかに私の耳にも届いた。
良かった。これでドロシーは助かる。そう思ったのも束の間、ダイアナが難しげな顔をしているのが目に入った。
「こちらのドロシーは、苦しんだままです……」
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