第76話:崩れ落ちる女王
なにもないはずの床を叩く。それでバンと衝撃でもあれば、まだ合点がいったかもしれない。実際には、ただ不条理にそこで止められる。自分はパントマイムで、空気壁をやっているのだったかと思うほどに。
「ポー! ルナ! 人形を、人形を見つけたのに……!」
「女王さま! 大丈夫かな――」
何度も叩いて、最後には殴りつけていた。その拳にさえ痛みがない。
女王はどうやら、パインたち何人かに服を引っ張られている。鬱陶しそうに裾が払われる度、ネズミたちは引き剥がされて床を転がる。そうするとまた別のネズミたちが、同じように飛びかかっていく。
そこへルナとポーが、ずっとなにかを話し続けている。あちらのビスクドールたちに阻まれて、それ以上を近付けないでいた。
なにを言っているのか。あなたはドールの国の女王などでなく、現実のドロシーなのだとかそんなことかもしれない。でもそれがなんであれ、相変わらず女王がそれを耳に入れているようには見えなかった。
ただ間違いなく、時間を追うごとに女王は疲れている。もう身体全体が震え始めている。ミントが心配そうにしているのは、そのことだ。
「ねえ! 母さん、どうして母さんの声が聞こえるの!」
おばあちゃんの声は、タンスの中から聞こえる。仕掛けでもあると思ったのか、キャサリンは上半身を突っ込んで中を見回した。
でも当たり前だけれど、なにも発見出来なかったようだ。「やめてよ……」と呟きながら、膝を突く。
「勘弁してよ。やっと母さんが死んで、気味の悪い人形も売って、終わったと思ったのに――」
「キャサリン、しっかりするんだ」
独り言だったのだろう。込み上げてきた思いを投げ捨てるように、キャサリンは呻いて言った。
事情を知らなければ、これはたしかに心霊現象か誰かのイタズラかだ。私にだって、なぜおばあちゃんの声が聞こえるのか分からない。
しかしそれを差し引いても、無視できないことをキャサリンは言った。
「どういうこと?」
「え――?」
「おばあちゃんの死を望んでたの? 大切な人形を、気持ち悪いからって処分したの? だからおばあちゃんのところへ近付かなくなって、ドロシーも会わせなくしたの?」
ドロシーの写真は、五歳ころのものが最後だった。そこに写っている元気そうなおばあちゃんが、そのすぐあとに亡くなったとは考えにくい。
その前から、ベネットたちがおばあちゃんと距離を置き始めたらしいことは、なんとなく写真に表れていたけれど。
どの写真にも、数えるのも難しいくらいたくさんの人形が写っている。それが今は、四体のビスクドールだけになっているとは。
ドロシーの時間がないからと、考えないようにしていたけど、いよいよそうも言っていられない。
「まさかあなたたち、おばあちゃんを……?」
「それはない! 断じて、それはない。お義母さんは、老衰で亡くなった。そこだけは神に誓って」
「そこだけ、ね」
ベネットの断言は、私の想像のほとんどを肯定した。おばあちゃんに直接的な危害は加えていないとしても、疎ましく扱っていたことは間違いない。
「ああっ女王さまっ!」
ミントが叫んで、私の肩から飛んだ。真っ黒な窓のようなタンスの底板に、着地しようとしたのだろう。
でも彼は、するっとそこを通り抜けた。咄嗟に伸ばした私の腕に、慌てたミントはしがみつく。危うくそのまま、遥か下の床に落下するところだ。
「お、オイラは通れるみたいだ」
「ふう――危なかったよ」
ミントが飛び出した理由は、見てすぐに分かる。女王が倒れたのだ。両腕を投げ出して、床に突っ伏している。
四人のビスクドールたちも、同じように床へ落ちて動かない。それをマギーとハンスが揺り動かして、ルナとポーは女王のところへ走った。
「ドロシー、死んじゃっ……」
思わず言いかけて、唇を噛みしめた。そんなこと、あってはいけない。まだ間に合うと信じなければ。まだ出来ることは、きっとあるのだから。
こちらで眠っているドロシーも、苦しそうな呻きを上げなくなった。見ていられなくて視線を外すと、ほっとしたようなため息を吐くベネットの姿が見えた。
この人は、おばあちゃんもドロシーも、なんだか得体の知れない相手と思っている。なにがあったのかは知らない。でもそれが、二人のせいだと考えている。
そう察して、悲しくて堪らなくなった。またバカ親と叫びたい怒りもあったけれど、それよりも強く、寂しいと思った。
なんて寒い家なんだろうと、凍えてしまいそうだ。
「お嬢さん。そのネズミさんが通れるなら、人形も通せるのではないですか?」
「えぇ?」
悔しくてなにも考えられなかった私にそう言ったのは、この家のお手伝いさんだ。
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