第75話:その法則は絶対

 突然のことに、誰も言葉が出なかった。タンスのほうも、扉が開いたきりなにごともない。

 数十秒が経ってやっと「なんなの!」と、キャサリンがヒステリックに声を上げた。


「なにもないな……」


 ベネットはタンスの正面に立って、中を眺めた。たしかになにもない。それはベッドの脇に居る、私からも見える。

 でもそれはおかしい。

 ここ数ヶ月は眠ったままだからと、そこにあるべき衣服を移動させる必要があるだろうか。

 百歩譲って、全部をクリーニングに出しているとしても、ハンガーまでないのは変だ。どころか、それをかけるバーも見えない。


「ドールの国の臭いがするよ」

「えっ?」


 しきりに鼻をクンクンと、ミントは洋服タンスからあちらの世界の臭いがすると言った。

 まさかそんなことが。疑う気持ちはあっても、私はあの世界へ行っていたのだ。どこからどう繋がるかなんて、分かったものじゃないと思い直す。

 ベネットを押しのけて、タンスの中を覗きこむ。なにもない。ただ真っ暗な四角い空間だ。


「――ん?」


 違う。タンスの下の面には、。本来あるはずの、板がない。

 真っ暗なのは、見えている場所が全て暗いからだ。暗いのだけど、どこまでも果てがないのは分かる。

 ドールの国だろうか。あの世界には、闇なんてなかったはずだけど。


「ドールの国だ! ここから帰れるよ!」

「そうなの? 間違いないの? お城は? 町は? 森や草原は?」

「そうだなあ、どうしてこんなになってるんだろうな――あっ、でもあそこになにか見えるぞ」


 ミントが指した方向に、白い物が見えた。はるか遠いそこへ、私たちの目は向かっている最中らしい。さっきは白いなにか、豆粒みたいだったそれが、あのお城なのだともう分かるようになった。


「お城が……お城だけになってる」

「そうみたいだなあ」


 ポーやマギーたちと歩いた、草原も森も見えない。暗くて分からないというのでなく、あるべき場所がなにもないただ真っ黒な空間になってしまっている。

 見ている間に、残った地面の端が少し崩れた。夜の空に浮いた島のようなそれは、まだ崩壊を続けていた。


「これはなんなんだ。どこなんだこれは」

「なに? お城が浮かんでるわ」

「これがドロシーの世界よ。私は少し前まであのお城に居たの。あんなに広かったのに、もうあれだけになってしまった――」


 これを見れば、彼らも信じるだろうか。わたしの妄想などではないと。

 夫婦は揃って、城のほうへ手を伸ばした。まだ触れる距離ではないけれど、違うどこかに繋がっていることは分かるはず。

 と思ったのに、二人の手はすぐなにかに突き当たってしまう。これでは洋服タンスの中に、精巧な映像でも映し出しているみたいだ。


「帰ってきたのね、優しい女の子」

「ええ。ドロシーを目覚めさせるためにね」


 前に聞いたのと、また少し違う。森の主の声が、柔らかく響いた。優しく包み込むような、ゆったりとした口調の女性の声。


「母さん!?」


 声を裏返らせて、キャサリンが叫ぶ。母さん? この声が?


「――ケイト、あなたも居るのね。ここはドロシーの心の世界。この子たちが必死に救おうとしてくれている、脆い世界」


 いつしか城の中に入っていた視界が、ようやく止まった。先には老婆の姿の女王。手前にはルナとポー、マギーにハンス、ネズミたちも居る。

 城も元の形は、ほとんど残していなかった。女王の私室のある辺りと、すぐその周りだけがようやくというくらいだ。


「ドロシーがどこに居ると言うんだ。どうやら君は本気らしいと思ったから黙って見ていたが、こんな手のこんだことまでして! どうしたいんだ! 妻のお母さんは、もう亡くなっているんだぞ!」

「どっ、ドロシーはあれよ! あそこに居るわ!」


 腕をつかんで揺すられた。ベネットはこの一連の出来事を、私の過ぎたイタズラだと判断したらしい。

 でもこれは事実なのだ。見えている景色が現実かといえば自信がないけど、そこに居るドールをドロシーに戻せなければ彼女は死ぬ。そこだけは間違いない。


「あれが――? あんな年寄りが? そんなバカな!」

「この世界はね、こっちよりも時間の流れが遅いの。こっちの一日は、あっちの一年なの。ドロシーはそんな場所で、ずっとあなたたちが帰ってくるのを待ってたの。なのにあなたたちは……」

「あれがドロシーなの、本当に……?」


 まだ信じられてはいないらしく、キャサリンは激しく頭を掻きむしる。そうしながら、そんなことってと繰り返す。


「でも私、随分と時間をかけちゃったのに」


 こちらへ戻って、何分を使ったか。あちらでは一週間も経っているのではと思っていた。

 でも私が去ってから、それほどの変化はないように見える。女王は変わらず、一人で睨みを効かせていた。ルナとポーは互いを庇い合うようにしながら、なにか語りかけているらしい。


「キャンドルが倒れたからよ。あれはドロシーが待ち焦がれる気持ちそのものだったから」


 森の主。いや、おばあちゃんが教えてくれた。城しか残っていないのだから、あの七本キャンドルも崩れてしまったということだ。

 毎週の日曜日を待ち焦がれる気持ち。一日を一年にも感じていた、両親に会いたい気持ちは、もうなくなってしまったのだ。


「ルナ! ポー! 見つけたよ! ビスクドールを見つけたんだよ!」


 位置関係を考えると、あっちにある洋服タンスの上のほうから見下ろしている格好だ。距離はあるけれど、聞こえないなんてはずはない。

 なのに私の呼びかけには、誰も反応しなかった。


「無理よ、聞こえない。あなたはこちらの法則に反してしまったから。知っているでしょう、この世界のことを大人に話してはいけないって」

「あ……」


 間に合ったと思ったのに。

 ドロシーを救って、ルナをこちらの世界に連れ戻す。その両方が叶うと思ったのに。

 くら、と。目まいがしそうだった。

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