第70話:ドロシーの部屋

 それはお世辞にも、ドレスとは呼び難い代物だった。柄は同じだったけれど、どうして端切れを渡すのかと思ったほどに。

 広げてみると、ほんの数針ほども糸が通してはあった。くるりと首周りが輪になるように、マントと呼ぶならまだ納得できる形だ。


「あなたが見たのは、これかしら」


 問われたのはとりあえず置いて、その布を人形たちに宛てがってみた。

 ――間違いない。

 布を当てる前とあと。その一瞬で、別の存在になった。元々生きているかのように繊細な作りをした人形ではあったけれど、今は人形の姿をした生き物がそこに居ると思う。


「ええ、間違いない。これがあれば、ドロシーを助けられる」

「本当ね。それであの子はまた、昔のように笑ってくれるのね」


 じっと私を見る、キャサリンの目。その後ろに、まだなにか言いたげなベネットの顔。

 それを見ると、どうも私には肯定の言葉が浮かんでこない。


「分からない。ドロシーがこの先も生きていられるかと、彼女が笑って過ごせるかは、また別の話よ」

「そ、そうね。元々病気があるんだもの。すぐに元気になれるはずがないわ」


 そういうことではないのだけど。

 思うものの、互いの理解を深める暇も意思も、圧倒的に不足している。さっきからずっと「女王さまはどこだ? 早く持っていかないと!」と急かしているミントのほうが、何億倍も信用に足るというものだ。


「ドロシーのところへ持っていかないと。こっちね?」

「え、ええ」


 木箱に手をかけつつ、一つの扉に視線を向けると、キャサリンは少し驚いた。初めて家に入れたはずの日本人に、どうして分かるのかと。

 おおよそ私も、当てずっぽうではある。玄関の扉があの無限回廊と繋がっているとするなら、女王の私室はこっちだろうと思ったのだ。


「んっ……」

「ああ、私が運びましょう」


 木箱はとても重かった。ビスクドールは陶器だから、それが四人分とクッションを合わせれば、まあまあの重量になるのだろう。

 日本の一般的な建売住宅を思えば、二倍ほども幅のある階段。それを上るのにも、お手伝いの女性が木箱を運んでくれた。

 階段を上ってすぐの部屋も、すぐに分かった。女王の私室で見た、あの扉だ。


「ドロシー。入るね」


 ノックをして、迷わず部屋に足を踏み入れる。もうそのことに、三人の大人たちはなにも言わない。

 照明を点けて、一歩、一歩。歩くごとに僅かな軋みの聞こえる、板張りの床。一方の壁にはなにも家具がなくて、一面に大きな人形たちが並んでいる。


「トラさん、狼さん、ジョー。怪我はしてない?」


 反対の壁には洋服タンスとベッド、木製の机が順に並ぶ。その下には、薄いピンク色のカーペット。

 その先にある出窓からは、湖が見えている。ちょうど捜索のライトがあちこちを照らして、蛍でも飛んでいるようだ。


「マギー。時計はどうしたの?」


 おもちゃの兵隊や、カメたちに混じって座っているマギーには時計がなかった。


「時計ならあそこだ」

「ああ――こっちでもベンが持っているのね。ケイトも居る」

「そんなことまで?」


 ベネットが指したのは、机の上だ。黒ウサギとピエロが仲良く並んで、ウサギの首に時計がかかっている。


「早くしないと」

「うんそうだね、ごめん」


 ミントに急かされて、ようやくドロシーに目を向ける気になった。

 いや、見てはいたのだ。この部屋に入って最初に。見ないはずがない。でもそれをどうしても、見なかったことにしたかったのだろう。

 八歳の女の子のそんな姿が、私には見るにつらかった。


「ドロシー。すぐに助けてあげるからね」


 声をかけても、ベッドに横たわる彼女が返事をするわけもない。ドロシーは見るからに苦しんでいた。

 細い腕からは点滴の管が伸びて、小さな手が握られたり開かれたり、時にひきつけを起こしたように震えたり。

 息もずっと荒い。嗚咽か吐き気かに襲われてでもいるように、喉を鳴らしてもいる。その喉も頬にも、子どもらしい肉付きが見えない。

 手を伸ばして、そっと触れる。そのまま砂になって崩れてしまうのではと、心配になるほどにカサカサと頼りない。

 頬の骨、衰えた喉の筋肉。そんなものさえも浮いて見えるほどの、薄い皮膚。これならまだ、あの百歳にも及ぶ老婆の姿のほうが、生き生きとしているかもしれない。


「ごめんね……ごめんね……」


 そんな隙はないのだ。分かっているのに、そう言わずにはいられなかった。


「早く」

「うん――ここへ置いて」


 またミントが急かしてくれた。お手伝いさんに言うと、キャサリンが少し離れていた小さなテーブルをベッドの隣に置く。その上に木箱が。


「……これだけでいいのかな」

「服を着せたほうがいいんじゃないのか?」

「そうだね」


 少し待ってもなにも起こらないので、チェックの服を四人に着せる。上から羽織れるサイズだったので、それほどの手間ではなかった。お手伝いさんも、手伝ってくれたし。


「なにも変わらないみたいだけど――」


 ビスクドールたちをドロシーの手に触れさせたり、また少しの時間を待ってみたりした。

 心配なのは分かるけれど、キャサリンに言われるとどうしても、あなたたちのせいなのにと思ってしまう。

 落ち着け。まだなにかあるはず。森の主、謎かけでいいから、ヒントをちょうだい。

 そんなことを考えても、やはりこちらの世界では声は届かなかった。


「時計かな?」

「あっ、そうだね!」


 なんて頼りになるのだろう。ミントが気付いてくれた。集めろと言われた物が、こちらにもあるのだ。なにか意味があるかもしれない。

 窓辺からマギーを抱え、机に向かう。ベンの首から時計を外して、マギーの首へ。

 ふと、机の上にある本棚が目に入った。並べられた絵本の間に、ネズミのぬいぐるみがある。

 数は二つ。隙間はもう一つ入るだけあって、そこには塩の結晶のような物が散らばっている。

 その光景が意味するものを、私は一旦、無視することにした。

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